ep293 水の神殿に捧げる
ep293 水の神殿に捧げる
マキトは秘密裏に食品加工の工房を立ち上げた。そこへ南区で押収した原料とコカ茸を売却する。警吏長官の推薦があれば逆らえる者は少ないだろう。
工房ではマキトの技術を使い問題の幻覚成分を含む飴を大量に生産した。但し成分の含有量は十分の一と少なくした模造品だ。それでも匂いと味は本家に類似して強めの清涼感を添加している。価格も本家に比べて安価に設定するのだ。
製造した模造品の飴は水の神官アマリエの伝手を得て水の神殿へ安価に卸す。大量に模造品をバラ撒かれては本家の製造工場も大騒ぎであろう。模造品に対抗して本家の商品も末端価格を下げ始めた。
「ようし、新作の飴を投入しろッ」
「へい。ボス!」
マキトは工房の職人へ指示を出した。製造ラインはゴーレム技術を応用して機械化されている。まったくゴーレム技術はチートである。
「ほほう、順調であるかッ」
「ああ、見ての通りさ。新作にも期待が出来る」
工房の見学にサリアニア・シュペルタン侯爵姫が姿を見せた。工房の設立に侯爵家の資金を借りたのだ。しかも原料の砂糖はシュペルタン侯爵から直接に仕入れている。
新商品の売上も順調で、問題の幻覚成分はもう殆んどに含有されていない。新たに追加された清涼感の刺激に置き換わったらしい。
南区の警吏では捜査の過程でコカ茸の製造元を突き止めた。東部の山岳地帯に大規模な生産拠点があると有力情報を得て、拠点の制圧と賊の討伐準備にも急がしい様子で、ゴーレム娘のフレイン等は張り切っている。
季節は雨季を過ぎて夏季へ移ろうとしていた。
◆◇◇◆◇
サリアニア・シュペルタン侯爵姫はマキト・クロホメロス男爵の婚約者であったが、帝都に残った婚約者マキトの身を案じて帝都の屋敷を訪れたと言うのが公式なものだ。
本心はどうか分からないが、シュペルタン侯爵家では男爵家との家格の差や、帝国の内乱で戦傷を負ったマキトの健康状態を問題視して婚礼も伸び保留と延期になっていた。それでも、先の内乱の戦功が皇帝陛下に認められて婚姻の許可が通達された。シュペルタン侯爵家も皇帝陛下の威光には逆らえない。
婚礼の儀式は帝都にある水の神殿で行われた。問題の幻覚飴を撲滅するために協力した水の神殿は見返りとして、侯爵家に婚礼の儀式の委託を要求した。水の神殿には、模造品の飴の売上で信者の獲得にも貢献していたが、皇帝陛下のお気に入りと見做されるグリフォンの英雄マキト・クロホメロス男爵の婚礼は神殿関係者に注目されていたのだ。
シュペルタン侯爵家では先の内乱で帝都への援軍に一番乗りの功績を挙げたが、実利となる恩賞も少なくて内乱の事後処理に家計は財政難の様相であった。そんな内情も知らずにマキトが食品工房の出資を侯爵家に打診すると、特にシュペルタン侯爵家の専売となった白砂糖の販路の拡大に利用された。今後とも新製品の発売には協力を惜しまないと言う現金な態度だ。
そんな貴族と神殿関係者の打算と思惑の中で、婚礼の儀式が執り行われる。
「…という訳で、水の神フラッドナリスは聖なるナダル河にお姿を現わしたのです…」
荘厳な神殿には、朗々と水の神官の説教だか神話だかの有難くも長い話が流れている。そんな話に関心を示す者は少ないと思うが、無駄に話は長いのである。
「…マキト・クロホメロスは、サリアニア・オストワルドを妻とし迎えるならば誓の言葉を述べよッ」
やっと出番が来た。その時、太陽は中天に達し荘厳な神殿に七色の光が溢れる。…そうか、長い話はこの演出の為の時間稼ぎかッ。
「私マキトは、サリアニアを妻とし、今日よりいかなる時も共にあることを誓います。
幸せな時も、困難な時も、富める時も、貧しき時も、病める時も、健やかなる時も、死が二人を分かつまで愛し、慈しみ、貞節を守ることをここに誓います」
長い宣誓の言葉を言い切ってもマキトは緊張を隠せない。
「新郎に従います」
サリアニアの宣誓の言葉は短い。それでも本心からの微笑みはマキトの心に沁みた。
「…では、宣誓の行為をッ」
宣誓の方法も種族が異なれば信じる神も異なり宗旨や宗派も多岐に渡る。なので、宣誓の方法は五体投地でも血判を押すでも良いのだけど…マキトは誓の接吻を選んだ。
「…これッ、妾の夫になるのだ。姿勢を糺せッ…」
「うむっ」
サリアニアが小声でマキトを叱咤する。ベールの中を覗くとサリアニアの顔も緊張して見えた。一気に行けッ…ぶちゅう。
ある種族では魔力の交換に接吻を行う。別の種族では生命力を吸い取り命を刈るために接吻を行う。そしてマキトは誓の証しとして接吻を行うのだ。
「くうぅぅ、サリアたん…」
「サリア。立派ですわッ…」
養父の武人オストワルド辺境伯が男泣きに泣いている。その隣の伯爵婦人の方が武人らしく剛毅に見える。サリアニア侯爵姫がオストワルド辺境伯の養女になった経緯は省略する。
「くううっ、姫様っ!…」
「お嬢様。念願が叶いまして…」
サリアニア侯爵姫からのお付きの二人が会場の隅で泣いている。どうも、泣いている顔は目立つらしい。
「ふむ。人族の儀式というのも興味深い…」
「妖精族とは異なる。チャ!」
「ふん。馬子にも衣装か…」
森の人の親善大使ステシマネフは儀式を観察していた。隣の妖精族はポポロとチリコ教授か。
サリアの実家シュペルタン侯爵家の面々は良く分からない。唯一に一番偉そうなのが、ご当主のゲオルク・シュペルタン・アルノルド侯爵閣下である。
あの肉肉しい連中は軍部の関係者か警吏の関係者だろう。実にマキトも見知らぬ招待客は多いのだ。
「…ん♪~は♪♪♪~ら♪♪♪~」
荘厳な神殿に相応しい神々の歌が演奏された。歌い手の中には河トロルの戦士リドナスも混じっている。会場を警備する兵士がニヤリと笑う。あの中には見知った顔も多い。
マキトの結婚式には関係者の笑顔が多かった。
◆◇◇◆◇
水の神殿での結婚式の後には披露宴やら会食や会合などの別会場に帝都を引き回しにされて大忙しの毎日だった。貴族の付き合いというのは大変らしい。
「伯爵家だから、この程度で済んでおるのよッ…侯爵家ならば、この三倍はあろう」
「ふう、疲れたぁ」
不幸中の幸いかマキトは帝都の完全制覇をして寝台へ倒れた。戦傷の回復に体力も回復したと思えたが、筋力も持久力も衰えて鍛え直しが必要だ。
「婿殿は鍛練が必要じゃの、明日から…覚悟をせいッ」
「ひぇええーっ」
今日からと言わないのが、サリアの優しさか。明日からの特訓が思い遣られる。
どこの会場も屋敷も祝賀の雰囲気であったが例外もある。サリアの実父ゲオルク・シュペルタン侯爵は早々に領地へ引き揚げて姿を消した。父親の泣き顔を見られたくないとの貴族の面子だろうか。
そして、もう一人はマキトの内縁の妻であるメルティナは実子の赤子レオンハルトを抱えて屋敷に留め置かれた。貴族の身分が無い妾の立場には当然の処置らしい。そんなメルティナも祝賀を述べる。
「マキト様、サリアニア様。ご結婚おめでとう御座います。私も嬉しゅうございますのよッ」
マキトは本妻と側室の争いが始まるのではと戦々恐々に見詰めたが、そんな事は無かった。
「妾は不束者にして、先輩のお引き立てを賜りたい…」
と、珍しくサリアニアはメルティナを人生の先輩として立てたのだ。驚くべき政治力と思う。
そんな、幸せ絶頂なマキト・クロホメロス男爵の屋敷にも不吉な影が忍び寄る。
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