ep269 騒乱の火種は尽きない
ep269 騒乱の火種は尽きない
深夜の海岸線に流氷が接岸した。その岩礁は古都アルノルドから離れて漁師の姿も無く帝都の警戒地域からも外れた場所だ。海岸部には民家の明かりも無くて深淵の暗闇は逃亡者を助けた。
「あん。行くぜッ」
「…はう、」
「とうっ!」
危うく流氷から転げ落ちる影か三つ。マキトたちは苦辛の末に上陸を果たした。逃走に利用した泥船は氷結海の荒波に崩壊している。原材料が砂と泥では時間の問題だった。
途中で流氷へ乗り換えたマキトたちは夜半を待って接岸したのだ。乗り捨てた流氷は付近を流れるナダル河に押し流されて沖合へ戻されるだろう。逃亡の証拠隠滅も完璧だ。
「ジジィ無事か?」
「…ゴボッ、足腰が冷えて敵わんのぉ」
「直ぐに暖を…」
彼らは海岸線から離れて、廃墟と見える寺院の跡地に潜伏した。
「お主か。待っておったぞ…ワレの都合も聞かずに命令するなど、傲慢にも程が…」
「アッコ。…話は後だ。火を起こしてくれッ」
「およっ!」
予め岩塊の幼女ゴーレムを走らせて用意した潜伏拠点はズーラン親方の事前調査でも無人の廃墟で、付近の開拓村も滅びて久しい場所にある。崩れ残った外壁に隠れて焚火を起こした。
思えば、この時代の海は魔物の巣窟で漁師は海の魔物と戦う冒険者でもある。そんな魔物の海でも幸運か逃走中に水棲の魔物に襲われる事は無かった。
「リドナス! 出て来いッ」
「主様……済みマセン♪」
やはりそうか、河トロルの戦士リドナスは海水の潮に濡れて疲労して見えた。逃走の間も海中からマキトの警護をしていたらしい。
「ありがとう。助かったよッ…怪我は無いかぃ?」
「んっ♪」
恥ずかしくて、リドナスは流線型のボディの手傷を隠した。
「いけない…【殺菌】【消毒】」
「あっ、んんっ♪」
春先の海でも氷結海は厳しい寒さが残っている。その海中で独り戦ったリドナスを労いマキトは手傷を癒した。初歩の医療技術も習得している。
「おぅ。盛り上がっている所、悪いんだが……飯の準備が出来たぜッ」
「はぁ~っ!」
いや違うと否定する事も出来ずに、マキトはズーラン親方のニヤニヤ顔に硬直した。赤面するリドナスに性別は無い。
焚火に暖を取り温かい食事は何よりの回復薬だろう。
◆◇◇◆◇
古都アルノルドの領主であるシュペルタン侯爵家に帰還した女中姿のオーロラは侯爵の伝手を頼り、皇帝の特使としてのマキト・クロホメロス男爵の書状を帝都へ送った。
「なにぃ、帝都で反乱だとッ!?」
「…帝都から駆け戻った。伝令の報告です」
隊士長のエーリッヒ・クバルコフは東門の警備状況を視察していたが、思わぬ知らせに動揺を示した。
「くっ……至急、侯爵閣下へお知らせしろッ」
「はっ!」
城門の伝令が城へ駆け出す蹄の音を聞いて、隊士長エーリッヒは帝都の状況を尋ねた。
「反乱軍は黒装束の一団で、帝都の防衛隊は苦戦の模様……至急に救援が必要と思われます」
「ふむ……」
状況は切迫しているらしい、この伝令も城へ連れて状況の報告が必要である。
本日は通常勤務を終えてオーロラ嬢と会食の約束があった。お互いの近況報告も兼ねて久しぶりに顔を合わせるのを楽しみにしていたのだ。隊士長エーリッヒの落胆は部下の目にも明らかであったが、帝都の状況は予断を許さない。
「東門の衛兵は武装して待機ッ。王都から味方の伝令か、敵襲に備えよッ」
「「 はっ! 」」
それでも職務に励むエーリッヒ・クバルコフは立派な騎士と言えよう。
◆◇◇◆◇
帝都の東のシドニア山脈を越えると港町ハイハルブがある。王都から駆け込んだ伝令は地方都市にも騒乱を齎した。
「なんとっ、帝都が失陥したとは……真であろうかッ」
「オストワルド伯爵の軍勢が、取り急ぎに進発しました!」
ここから西へシドニア山脈を越えて五日もあれば、援軍を派遣できるだろう。
「王都の防衛軍はどうしたのか?」
「それが、…白銀騎士団は壊滅し、白鴎騎士団は行方不明との噂で…」
名だたる帝都の騎士団が敗走したとは、帝都の事情も詳しいサリアニア・シュペルタン侯爵姫には信じられない。
「婿殿の行方はッ?」
「…先月に鳥文が届きましたが…」
鳥文とはマキトが寄こした伝書鳩の様な魔物で、マキトが認めた手紙を運ぶものだ。…こちらからの連絡手段は無い。先月の手紙の内容では古都アルノルドの侯爵家に挨拶して王都へ向かうと記されていた。今頃はマキトも王都の騒乱に巻き込まれている恐れがある。
「くっ、私も出陣を致します!」
「姫様ッ、お待ちを…」
サリアニア侯爵姫は装備を始めて、お付きの騎士ジュリアが諌めるのも聞かない様子だ。
「これッ、サリア! 奥が軽々しく動揺するでないッ」
「はっ、ハンネロゥレ様」
衣裳部屋に現われたのは、自前の重装鎧をドレスの下に着込んだ女傑ハンネロゥレ・オストワルド伯爵夫人だ。彼女はサリアニア侯爵姫の養母にして保護者も同然のお方だ。
「そんなに暴れたいのなら、私が稽古を付けて差し上げましょうぞ」
「はい!」
ガクガクブルブルお付きの者の身震いが聞こえる。そんなに恐ろしい稽古なのか、知ってか知らずか、サリアニア侯爵姫は毅然と応えた。女傑とお噂されるハンネロゥレ様の武技は是非にも拝見したいものだ。この身に降りかかる苦難だとしても、逃げ出す臆病な心は無い。
その様に直情的な暴れ姫サリアニアと女傑ハンネロゥレ様の稽古という対決が始まる。
--