ep220 戦禍と混乱の中で
ep220 戦禍と混乱の中で
王都イルムドフは混乱の中にあった。占領軍であるアアルルノルド帝国軍の略奪と不法行為は止まず、住民は武装して盗賊の襲撃に怯える毎日だ。その混乱の街中でも秩序を保つ地域があった。中心には地域の信仰を集める神殿があり、神殿の僧兵が治安を守る水の神殿だ。
「兵士も住民も問わず、ひろく人々を治療なさいッ。こんな時こそお役に立つのです」
「はい!」
既に神殿の内部は戦禍を逃れて避難した住民と怪我人で溢れていた。神殿の中庭までも避難民が占拠しており、仮設した救護所は野戦病院の有様だった。
僧兵も住民たちも警戒する神殿へ帝国軍の一団が現われた。
「反逆者を捜索しておる」
「ここは神殿です、お困りであれば救済の手を差し伸べましょう」
水の神官アマリエは毅然と答えた。
「反逆に加担するのは重罪である。よもや匿ってはいまいなッ?」
「いまだ帝国の略奪は止まず、我身を守るのは精霊神の教えには反しません」
帝国軍の隊長と見える男は不機嫌を隠して申し入れする。
「ふん、御託はいい。中を調べさせて貰う!」
「どうぞご自由に……但し、避難民と怪我人への狼藉は許しません」
にぃと歯を剥いて笑うのは威嚇の為か、…
「捜索にかかれッ!」
「はっ」
帝国軍の隊長は兵士に神殿内の捜索を命じた。
◆◇◇◆◇
僕らは北方航路を経て東周りに大陸を南下してイルムドフの港へ入った。帝国の武装商船リンデンバーク号の航海はおおむね順調で予定の期日には目的地を望んだ。港町イルムドフに停泊していた商船と漁船の多くは戦禍を逃れて沖合か湾口内に浮遊しているが、その船列を割ってリンデンバーク号は港へ接岸する。
「なにっ、リンデンバーク号だとッ!?」
「補給物資だそうです…」
帝国軍は王都の各所を制圧して支配下に敷き、その司令部は防衛隊が逃げ去ったイルムドフの王宮を占拠している。
「侯爵閣下の船であれば、会談せざるを得ない。至急に準備をせよッ」
「はっ!」
大貴族である侯爵家の威勢が帝国軍の内部に忘れられる事は無い。面倒を引き起こさぬ事を願うばかりだ。
………
討伐軍の司令官オストワルド伯爵は帝国軍でも有名な武門の当主で、軍事的な才能に優れて行政能力も中々と言うのはサリアニア侯爵姫の評価である。
「これは、シュペルタン侯爵家の姫殿下。遠路はるばるお越しいただき。恐悦に思う所存に…」
「挨拶は良い。補給物資を持って参った。…積荷を検分するが良かろう」
侯爵の口上を遮りサリアニア侯爵姫が本題に入った。船の積み荷は侯爵領の特産品だろうと思う。
「お心遣いに感謝いたします。それで、侯爵閣下はご壮健であられるか?」
「勿論の事である。父上の道楽の鷹狩に付き合ってたもれッ」
オストワルド伯爵の探りにもサリアニア侯爵姫の話は貴族の世間話の様子だ。僕には話の意図が分からないのだが、…
「はっ、喜んでお供いたします。ついては恩賞など…」
「恩賞は用意しておらぬが、長年のご友誼に感謝いたすッ」
鷹狩に恩賞とは競技会でも開催する心積りか。サリアニア侯爵姫は感謝を述べた。
「はっ、勿体無きお言葉でございます」
お付きの者は同席を許されず、僕も大貴族の会談に口を挟む余地は無い。貴族のやり取りに解説の副音声が欲しい所だ。
………
占拠された王宮にサリアニア侯爵姫の部屋が用意された。元はイルムドフの孫公女殿下の居室だったそうで暖かい色調は女性の部屋を思わせる。部屋の調度品などは荒らされる事も無く接収されたらしい。
お付きの女中スーンシアが入れた紅茶を飲んでサリアニア侯爵姫が寛ぐ。王都の城下町の惨状は目を覆うばかりだ。
「ふぅ。城内も荒れておるかと思ったが、中々に伯爵の威勢は衰えぬか」
「サリア様。先程の会談は?」
僕は会談の成否を尋ねた。失敗とは見えないが、…
「伯爵に釘を刺した迄よッ。存外に恩を売って来おったが…買っておくのも良かろう」
「はぁ…」
さっぱり理解できない。助けてスーえもん! お付きの女中スーンシアが口を挟む。
「お嬢様。それではマキト様には分かりません」
「ほう。婿殿も貴族のやり取りに慣れて貰わねばなッ」
その後、スーンシアも交えた解説では魔獣グリフォンの討伐に功績がある伯爵に侯爵閣下が口添えをして皇帝陛下へ奏上を申し上げるとの事だ。イルムドフの王都の占領は皇帝陛下の命に従い軍人の義務を果たした迄と言うが、アアルルノルド帝国軍の恩賞制度は、いまいち良く分からない。
僕らは束の間の上陸に安堵した。
◆◇◇◆◇
そこは王都イルムドフの表通りから裏路地を三本ほど入った下町のパン工房だ。若い職人の夫婦が工房と店頭を切り盛りしており近所でも評判のライ麦パンを焼くと言う。
「ハンナ。売れ行きは、どうだい?」
「今日も常連のお客様が、何人もいらっしゃいましたわ」
店頭の売れ行きは順調らしい。パン工房で毎日に焼くライ麦パンは常連客との契約販売であり、一部の余剰が店頭に並べられて一見客に販売される。街中に帝国軍が跳梁跋扈すると言えども、パン職人のトニオが工房を休むことは無い。そのため広くも無い店頭はハンナが独りで接客と対応をしていた。
「俺は仕込みがあるんで、店は頼むよッ」
「はい、あなた」
パン職人の意地を見せてご主人のトニオは働く。店に秘伝の壺を空けると乳酸に似た甘酸っぱい匂いがす。
「ようし。お前たち励めよぉ~」
トニオは恋人に囁くように愛情をこめてライ麦の粉と井戸水を壺に加えた。パン生地の醗酵に使う菌種は店ごとに異なり、秘伝の壺で長年に渡り管理されているのだ。
明日の仕込みに使う原材料を確認するために裏手の倉庫へ向かったトニオは店頭からの物音を聞いた。がちゃん。しっかり者のハンナにしては珍しい大参事が予想されてトニオは店へ駆け付けた。
「あなた!」
帝国軍の末端の兵士は破落戸にも負け劣る柄の悪い者も多い。
「げふぁははは、旦那かッ…俺たちにもパンを売って貰おう」
「くっそ、野郎ッ、ハンナを放せえ!」
その態度はお客とは見えず、ハンナの細腕を放さない。
「やっちまいなッ!」
「くらぁ…がっ…」
自慢の膂力で兵士をぶっとばしても多勢に無勢か。トニオは急所に一撃を浴びて昏倒した。下品に笑うのは隊長の声か…
「げふぁははは、俺様が一番乗りだぜッ。…お前たちも励めよ」
「おう!」
朦朧とした意識に愛妻ハンナの嬌声が聞こえる。
「きぁあ…」
「おらおらおらッ…」
「は、はぁ、はぁ…」
「連装ぅ…空転撃ぃ…」
「あっ、きゃふん…ふぁっ…」
「…」
意味の分からない技名を叫ぶ者がいるが、ハンナの嬌声は止まらない。…くっ許さぬぞッ許さぬぞッ許さぬぞッ…
意識を無くしてもパン職人トニオの呪詛は止まない。
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