ep213 帝国領へ潜入した者
ep213 帝国領へ潜入した者
そこはシュペルタン侯爵領の古都アルノルドにある城郭だ。城の内部には大勢の家臣と官僚と下働きの女中が務めており、城のお仕着せを身に付けた白い少女オーロラが働いていた。
白い少女オーロラは黒髪に黒系の女中服であるが、白いという印象を拭えないのはその白い肌の所為か。既に両親も家名も無くしたオーロラには、侯爵家へご奉公するのに伝手も無く貴族家の紹介も無かったが、サリアニア侯爵姫の口利きで勤め先を得た。
タルタドフの領地でも女中の真似事ならば出来ると思うけれど、マキト・クロホメロス卿の傍には多くの奥方候補が控えており、その中へ自分が割って入るのは無理であろうと思う。そんな現実的な判断をした白い少女オーロラは黒髪を束ねて領地の外で働く決意をした。本人は帝国領へ潜入した密偵の心意気である。
元から貴族の子弟としての教育を受けた白い少女オーロラは礼法と立居振舞いには問題は無く城の務めにも不都合は無いと見えたが、貴族の子弟にはありがちな家事全般の仕事に対しては再教育が必要であった。侯爵家の方でも、そんな落ちぶれた貴族の子弟を城に受け入れる事は日常茶飯事で特に珍しい事も無かった。
それでも、白い少女オーロラにはひとつ特技があった。
「オーロラ。籠をお願いします」
「はい。…水鳥の羽 虚空の色 そよ風の軽さ…【軽薄】」
白い少女オーロラが呪文を唱えると、大人の背丈もありそうな洗濯物を山積みにした籠が浮揚する。しづしづと先輩の女中に続いてオーロラが籠を押して洗い場へ向かう。
「オーロラ。後は頼みましたよ」
「はい…」
とても一人では洗い切れる分量では無いが、新人に対する先輩たちの仕打ちは厳しい。黙って働くしか城で生き残る道は無い。オーロラが黙々と洗濯を始めると洗い場に若い騎士が現われた。
「エーリッヒ様!」
「オーロラ。君には、相応しい仕事がある。付いて参れッ」
洗い場に騎士が踏み込むのは異例な事に、相手は城の隊士長を務めるエーリッヒ・クバルコフ卿だ。洗い場に洗濯物を放置してもお咎めはあるまい。そんな打算を基にして白い少女オーロラは隊士長の要請に応じた。
エーリッヒはそこそこの家柄にそこそこの美形で隊士長を務めるそこそこの実力を備えている。そこそこな男だ。白い少女オーロラには相応でそこそこな所が好ましい。
「エーリッヒ様。どちらへ?…」
「ここだッ」
白い少女オーロラが不安になり始めたのを制して隊士長エーリッヒが指し示すのは猛牛と見える牛の魔物だ。既に息は無くて狩りの獲物の様子である。
特技が知られてからは、城内の重量物の運搬にオーロラは重宝された。今回は城の中庭に積載された魔物の肉を城の厨房へ運ぶ事を命じられる。
「ご用命のままに…水鳥の羽 虚空の色 そよ風の軽さ…【軽薄】」
「おぉ~」
白い少女オーロラが呪文を唱えると、大の男が十人掛かりにて運ぶ様な大型の魔物が浮遊した。
「そのまま、暫く頼むよ……者ども掛かれッ」
「はっ!」
獲物の傍に待機していたエーリッヒの部下が浮遊した魔物の肉を押して運んだ。中々に有用なオーロラの技能である。
………
そんなアルノルド城の首脳部では策謀が練られていた。
「侯爵閣下。本気ですか?…姫様を男爵の妻にすると…」
「サリアニアには言って聞かせてあるッ」
いちど帝国の武装商船リンデンバーク号で帰郷された際には、姫様もそんな素振りは無くて、南海貿易の成果を誇っていらしたが。
「…ですが、かの者は英雄と認定されるも、地方領主にして家格も釣り合いませぬ…」
「瑕物の姫なぞ、役には立てぬわッ」
サリアニア侯爵姫は暴れ姫の異名の通りに、領内の腐肉喰討伐にご活躍であったが、その際の戦闘の負傷が原因で傷跡が残っているとのお噂だ。…何と言うか御労しい。
その噂よりも帝都では暴れ姫の評判は最悪で、学院生活の悪行から冒険者生活での放蕩ぶりも社交界では知らぬ者は無い。譬えそれが誇張された噂であっても面白ければ、社交界では常識となる。
「そ、それは…」
「使える玉ならば、使うまでよのぉ」
姫様の玉の肌に瑕なぞあろう物か。私、モーリス・シュペルタンは慙愧の念に堪えない。
………
シュペルタン家の別邸では仮の主であるモーリスの怒りが発散されていた。日頃は温厚な姿のモーリスも凶暴で鳴るシュペルタン侯爵家の家系には漏れず暴虐を発揮している。
投げ付けた座椅子に華麗な調度品の壺が粉砕されるが、侯爵家の財力からすれば些細な事。持ち出した宝剣で写実派の彫像の首を刎ねても、新たな美術品を購入すれば元通りに華麗なサロンが再現されるだろう。
「は、はぁ、はぁ…許さぬぞッ。姫を娶るなど、この私が許さぬ!」
彫像の首を踏みつけて粉砕したモーリスを制止する者は無い。家令も女中も危険を避けて離れを退去する。そんな怒りも冷めやらぬ荒れたサロンに黒猫がいた。
黒猫はしなやかな動作で伸び上がると、いつもの事かとトコトコと駆けて行く。
「ま、待てッ…モーリシャス」
嫌だニャと視線を送るも、ご主人はひと時の心の平安を求めて黒猫へ手を伸ばした。求めに応じるのも家猫の務めか。半分はあきらめ顔で黒猫のモーリシャスはご主人の接触を許した。
ニャーゴ。ご主人の愛撫は悪くない。むしろサロンは荒れ果てても極上の快楽だ。明日になれば屋敷の者が総出に修復されるだろう。今はこの愛撫を楽しみたい。
「なぁ、モーリシャス。お前はどう思う…」
モーリス・シュペルタンは乱れた自分の髪を撫でつけて尋ねる。その間も黒猫への愛撫を止めないのは流石に猫殺しの技術だ。
ニャーゴ。黒猫が切なげに鳴いた。ご主人も切なく泣いている。
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