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裏事情4

「祐一さん、どうしたの? 登らないの?」

 乙女が登るのを下でずっと眺めていた俺に、乙女が下りてきて尋ねる。


 今日は乙女を本格的にボルダリングが出来るカフェに連れて来ている。

 先週のデートで、お互いに体を動かす事が好きだという話になって、その流れで次のデートはここにしようと約束していた。

 乙女は初めてだと言っていたけれど、長い手足を有効に使って難なくスルスルと登っている。


 先週の乙女は大人の上品で洗練された綺麗な女性に見えた。

 でも、今日の乙女は髪をポニーテールにしていて、明るく快活な可愛い女性に見える。

 どちらの乙女も、眩しいくらいに輝いていて魅力的だ。

 おまけにぴっちりしたTシャツにスパッツという服装は、乙女の女性らしいラインを強調して、俺としては目の保養というよりも他の男連中の視線が気にかかってならない。


「乙女さんはすごいですね。初めてなのにあんなに上まで登ってしまうんですから。驚きましたよ」

 

 乙女は昔から運動神経が抜群だったし、度胸も腕力もあるから、そう驚く事ではなかったけれど、祐一はそれを知るはずがないのだから、驚いたフリをした。


「ええ、本当に驚きました。僕はよくここに来るのですが、あそこまで登れる女性はなかなかいませんよ。初めてと聞けば尚のこと驚きです」


 乙女の隣で登っていた男が、拍手をしながら俺達の会話に割り込んでくる。

 その拍手に触発されて、乙女の勇姿を見ていた他の客まで手を叩いて乙女を褒め始めた。

 

「きっとあなたがアドバイスをしてくれたお陰ね!」

 乙女は照れくさそうに拍手をしてくれた客達に会釈を返すと、男に笑って言った。

「いえいえ、僕はほんのちょっと教えただけですよ。あの、僕は、」

「乙女さん、喉が渇いたでしょう? 向こうで何かいただきましょう」


 俺は急いで乙女を連れ出した。

 先程話し掛けてきた男以外にも、乙女とお近付きになりたいと思ってる奴は何人もいた。

 全く、俺がいるのに乙女をナンパしようなど図々しい奴らだ。


 あの頃からすでに乙女の身体は出来上がっていたけれど、大人になった乙女はフェロモンを垂れ流して、男を吸い寄せてしまう。

 魔性の女か・・・

 乙女は天性の男タラシだな。

 司も祐一も勇も乙女にメロメロ、骨抜きにされてる。

 初めて会ったさっきの男達ですら、乙女にしてやられるのだ、常連客が乙女に夢中にならないはずがない。

 そして、乙女は情の深い女、慕ってくる客を勇同様、無碍にはしないだろう。


 あの客と乙女の親密さを窺わせる抱擁を目撃した時、俺達は打ちのめされた。

 司は十年の月日を呪った。乙女の一番近くにいるのは自分のはずだった。

 祐一は歯がゆい思いだった。恋人なのに二人の間に割って入る事が出来なかった。

 そして、勇は負けたと悔しがった。自分だけが女王様の特別だと信じていた。


「乙女さん、僕は乙女さんと早く本物の恋人同士になりたいです」

 テーブルについて、ストローでジュースを飲む乙女の手を取って口付けた。

「ゆ、ゆういちさんっ」

 乙女は恥ずかしがって顔を赤くして俯けたけど、手を振り払ったりはしなかった。





 司には負い目があった。

 祐一には今後がある。

 だけど、勇には負い目も今後もない。ただ女王様に裏切られたという思いだけが渦巻いていた。


「女王様、俺にもキスを」

 いつものように正座をして、女王様を迎える。

 そして、女王様が一段高い場所に設置された女王様専用の椅子に座ったのを見計らって要求した。

「いきなり、何? 何なの?」


「女王様はそういったサービスをしないって言ってたのに。俺、見たんですよ、女王様が客に抱き付いてキスしてるところを。アイツだけずるいです」


「あなた、何言ってるの? 一体何のこと?」


「とぼけるんですか? ああ、もしかして、俺だけなのか、女王様にキスをもらえないのは!」

「ち、ちょっと待ってよ、」

「アイツだけじゃないんですね? 他の客にもキスしてるんだ。俺だけお預けか、女王様、ひどいですよ」

「私はキスなんてしてない。嘘は付いていないわ」

「見たって言ったでしょう? 先週の俺の後の客ですよ。どうです? 思い出しましたか?」


 乙女は女王様の顔から素の顔になって、アッと口に手を当てた。

 それがまた俺を苛立たせる。


「シンさんって言いましたっけ? あの客とはどういう関係なんですか? 恋人ですか? 年齢はかなり上のように思いましたけど、不倫ですか?」

「あなたには関係のない話でしょう!」

「そうですね。恋人でもない俺はどれだけやきもちを妬いたところで、女王様を責めることも出来ない。ただ一介の客には関係のない話です」

 怒っていたのに、どんどんいじけた気持ちになって、ぷいと横を向いて言った。


「あなた、やきもちを妬いてるの?」

「当然でしょう? 俺は、・・・自分だけは、女王様の特別な客だと思ってた。でも、違ったんだ。俺は女王様にとって、ただの、・・・誰でもない、客・・・に過ぎない」

 自分で言って悲しくなった。

 司は恋人だった。祐一は恋人だ。勇とは客という繋がりだけ。


「馬鹿ね、泣くなんて」

 気がついたら、目の前に乙女が立っていた。

 そして、乙女は膝をついてしゃがむと、俺の顔を、両手で包み込む。

 

「シンさんはね、私がお店に出始めた頃からお世話になってる常連さんよ。お世話になってるっていっても、あなたが考えているような関係じゃないわ。抱き合ってキスしているように見えたのだって、ハグして、外人さんのように挨拶してただけ」


 拗ねてへそを曲げた俺に言い聞かせる声音は穏やかで、仮面の奥の慈愛に満ちた瞳に吸い込まれる。

 そして、俺のマスクを剥ぎ取ると、頬に流れた涙を優しく手の平で拭ってくれた。


「シンさんは恋人でも不倫相手でもないけど、大切なお客さんである事は確かよ。でもね、私にとって常連のお客さんはあなたも含めて、みんな特別なの。恋人ではないけど、一介の客という繋がりだけじゃないわ」

 

 右の頬に俺を宥めるように話しかける女王様の息遣いを感じた。

 柔らかな唇が近付いてくる気配にゾクゾクする。

 唇が右の頬にそっと触れた。そして左にも。

「じっとしていて」

 女王様はそう耳元で囁くと、唇にもそっと口付けを落としてくれた。

 そして、小さな声で囁く。

「だけど、唇にキスしたのはあなただけよ」


 硬直する俺を残して、女王様は女王様専用の椅子に戻って行った。






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