『心理的瑕疵あり』
『裏バイト』という物をご存じだろうか。
『裏』と言っても、怪しい物ばかりでは無い。自動販売機の設置できそうな場所を探す仕事や、ストーカー被害から逃れる為に静かにひっそりと作業を進める引っ越し業者など、表立っての募集がされていないだけで堅実な内容の物が多い。
中には家賃滞納者を恫喝して退去させたり、地上げまがいの行為をする〝追い出し屋〟などの違法性の香りがする物もあるが、基本的には裏バイトとは〝進んでやりたがる者は居ないが、社会にとって必要な仕事〟の事だと言える。
昨今の社会問題となっている、老人の孤独死。ここにも裏バイトが存在する。住人が何らかの理由で死亡し、所謂〝事故物件〟になってしまった居室に住み込む、という物だ。
不動産業者は、事故物件には〝心理的瑕疵あり〟などと表記し、そこで人死にがあったことを通知する義務が法律で課せられている。事故物件は訳アリ物件であるので家賃は相場よりも低く、かつ借りられにくい、不良在庫とも言える代物だ。
人は死ぬ。それは絶対の理だ。
しかし考えてみても欲しい。人はどこで死ぬ? 海か、山か。いや病院か。
どれも正解で、どれもが不正解だ。人はどこでも死にうる。昨今は高齢者の独居が増えた為に、突然の体調変化を誰にも伝える事ができず、結果として死に場所が病院のベットから居室になったケースが目立つだけだ。
事故物件は毎日生まれている。しかし物件そのものは容易には増えず、不良在庫ばかりが増えていく。賃貸不動産業界は、この問題に頭を悩ませている。
そういった事情から〝事故物件の住み込みバイト〟は『裏バイト』のなかでも、社会貢献度が大変高いといえる。表立って募集できない上に、需要に対して供給が追い付かないので、支払われる謝礼も平均して高い。居室で死亡した住人の〝死因や遺体発見時の状況〟によっては、眼を剥くほどの報酬が支払われる事もある。
しかし、注意を怠ってはいけない。事故物件の中には、本物の〝魔窟〟と化してしまった場所も存在するのだ。だがそれを嗅ぎ分けられる人間は少ない。
部屋で生活しているだけで大金が舞い込む。そんな〝旨い話〟に釣られて、一人の青年が黄泉の縁に指を掛けた。
■
扉に鍵を差し込み、回す。少し錆びているのか、手首を三回捻ってようやく開錠された。
無理も無いか、と青年は息をつく。このポロアパートは聞いた話では、築三十年という話だ。内装には手を加えられているという話だが、扉まで気を配られていないのだろう。しかしこの部屋で起こった、とある〝事件〟の事を思えば、鍵くらいは新品に交換されても良さそうな物だが。
薄暗い玄関から部屋に上がる。辺りを慎重に見回し、無意味にキッチンの蛇口を捻ってみたりする。もちろん、しっかりと水が出る。
「なんだ、思っていたよりも綺麗じゃねぇか」
風呂、トイレ、物入れと覗き込み、青年がそんな感想を口にする。死の痕跡がべったりと残されているかもしれない、と覚悟をしていただけに、拍子抜けした気分だった。
青年が〝事故物件の住み込み〟という裏バイトの話を友人から聞かされたのは、数日前の事だった。手癖の悪さが災いしてどんな仕事も長続きのしなかった青年は、その報酬の高さに飛びついた。とにかく金に困っていたのだ。
『裏野ハイツの203号室』という言葉を聞いた時、ニュースを殆ど見ない青年にも報酬の高さに合点がいった。それほどまでに、そこで起きた〝事件〟は有名だった。
もう三年前になる。とあるシングルマザーが、配送員に扮してこの203号室を訪れた犯人に強姦され、殺害された。そこまでは、こう言っては何だが、良くある話だ。しかしその先が、少々常軌を逸していた。
犯人はさんざん女性を強姦し、果てには女性の首を絞めて殺害した。そしてその腹を裂き、当時生後四カ月だった被害者の子供を収め、その腹を縫い合わせたのだ。
女性の遺体が職場の友人に発見された時、まだ子供は生きていたらしい。栄養失調からの衰弱が激しかったらしく、その後に子供がどうなったのかは知られていない。報道規制でも敷かれたのだろう。だが、その犯人の異常行動は人々の関心を集め、事件の報道は連日紙面とお茶の間を賑わせた。
それほどの話題になったこの事件だが、犯人は未だに捕まっていない。やがて世間の関心も薄れ、事件は迷宮入りの様相を呈している。
その為だろう。捜査が一段落し、大家は203号室の入居者を募集したが、希望者は一人も現れなかった。最寄駅まで徒歩七分。風呂・トイレ別。徒歩十分圏内にコンビニ、郵便局、コインランドリーがある、中々の優良物件。しかも家賃は相場を大きく下回るにも関わらず、だ。そこで、事故物件に住み込んで入居者履歴を上書きするというバイトが求められたのだった。
高齢化社会の現代において、事故物件などは珍しくも無い。だが、せっかくの新生活にケチを付けたくないのか、そういった物件は忌避される。不動産屋も昔とは違い、別の契約者を挟んでも募集時には〝心理的瑕疵あり〟と、その部屋で死者が出たことを知らせなければならず、求められればその詳細を開示しなければならない。
それでも事故物件の住み込みバイトが求められるのは、「前に住んでいた人は何とも無かったみたいですよ? 仕事の都合ですぐに退去されましたが、ご心配であれば連絡を付けましょうか?」と入居を検討している客に対してカードを切る為である。つまり、バイトの仕事内容は〝一月程度その物件に住み込み、要請があれば入居希望者に安全である旨を説明する〟という物だ。これは限りある住居資源を有効活用するためには欠かせない仕事である。
しかし、この裏野ハイツ203号室だけには、どんなアンダーワーカーも寄り付かなかった。そこで起きた犯罪の異常性、そして犯人が未だに捕まっていないという事実。故に報酬ばかりが吊り上がり、そこへ金に困った青年が飛びついたのだ。
「それにしても――」
青年は思わず、独り言を言う。部屋はよくある1LDK。九帖のリビングダイニングキッチンに、六帖の洋室という構成だ。その全体に、うっすらと暗い靄が掛かっている。
部屋の電気をつけ、カーテンを開け放っても、蟠る陰鬱な雰囲気は消えなかった。
それに、妙に黴臭いというか、生臭い。築三十年の歴史が木材に染みついてしまっているのだろうか。
青年はため息をつき、頭を強く振る。
どうせ一月の辛抱だ。それに、このアパートには他の住居者だって居る。何も心配などする事は無いさ。
そう自分に言い聞かせ、青年は少ない荷物の荷解きを始めた。
■
この裏野ハイツは木造二階建て、一階三戸の計六戸だ。全戸に表札は無いが、青年を含めて全ての部屋に住人が居るようだった。よくもまぁ住める物だと青年は感心するが、それだけこの立地条件は魅力的だという事だろう。どうせすぐに退去する身だ、と青年はあいさつ回りを行わなかった。
新生活は快適そのものだった。青年の生活は完全に昼夜逆転していたが、コンビニもコインランドリーも二四時間営業。なんの不便も無かった。夕方過ぎにのっそりと起き出し、飯を食い、ネットゲームをしたり、ダウンロードした電子版コミックを読んでダラダラ過ごす。腹が減れば夜中にコンビニに向かい、適当に立ち読みをして、部屋に帰っては眠くなるまでまたダラダラと過ごす。身だしなみに気を使う必要も無いので、風呂には殆ど入らない。
当然他の住人達と顔を合わせる事も無く、部屋が妙に生臭い事を除けば、概ね不満は無かった。雇い主からは当面の生活費として十万円が支給されていたし、余っても返却する必要は無いという事だったので極力無駄使いもせず、青年はひっそりと過ごしていた。
ちょっとした問題が起きたのは、部屋に住み始めて一週間が過ぎた頃だった。とある訪問者が頻繁に訪れるようになったのだ。
その訪問者が訪れるのは、決まって昼の三時頃だった。玄関の扉の前でひそひそと話し合い、扉に耳をそばだててはケラケラと笑い合って去っていく。それが地元の小学生だという事はすぐに解った。盗み聞きした話の内容から、どうやら小学校の間で〝殺人事件の起きた部屋に、ついに幽霊が住み着いたらしい〟という噂が立っているようだった。
別に放っておけば良いとも思ったが、人の気配という物はどうにも睡眠の邪魔になる。それに何だか馬鹿にされているようで、少々腹も立った。青年は子供たちを少しだけ懲らしめてやろうと思った。
子供たちの行動パターンは決まっている。学校帰りにこの部屋に立ち寄り、様子を伺って少しのスリルを味わって帰っていく。最近は少し大胆になってきて、新聞受けから内部を覗き込むという事まで行うようになってきた。
青年はそれを利用することにした。部屋の扉は古く、新聞受けのボックスも無い。投函された新聞や郵便物は直接玄関に落ちる仕組みだ。なので、少しだけ部屋を覗き込む事ができる。そこで青年は子供たちを待ち受けた。
ある日、いつも通りに子供たちがやって来た。そして新聞受けを指で押し込み、部屋を覗き込んでくる。青年はそこを狙い、覗き込んでくる子供の瞳を見つめ返してやったのだ。
「ひっ――!?」
息を吞む気配が伝わってくる。くすくすと潜み笑いをしていた他の子どもたちも、その様子に不安そうな声を上げている。扉の向こうからは、青年の目の部分だけが光に照らされて浮き上がって見えた事だろう。相当胆を冷やしたはずだ。
少し言い合うような声が聞こえ、もう一度新聞受けが少しずつ押し込まれ、開き始めた。青年はその緊張に冷や水を浴びせるように「ケケケケ」と意識して不気味に笑って見せた。
絶叫が轟く。子供たちは我先にと駆けだし、錆びた階段を狂ったように駆け下りる音が響いてきた。
まさに気分爽快というやつだった。クソガキ共め、大人を舐めるからこういう目に遭う。いい勉強になっただろう、と青年は腹を抱えて楽しそうに笑った。
次の日、別の訪問者が203号室を訪れた。扉をノックする音に起こされ、青年が面倒そうに扉を開けると――、そこに居たのは一人の制服警官だった。
「お休み中でしたか? すいませんね」
慇懃無礼のお手本というような態度に、青年は静かに腹を立てた。
「なんすか。めんどくせーんで、用件だけ言ってくださいや」
唾を吐きかけるように青年が言う。しかし警官は表情一つ変えない。職業柄、こういう態度を取られる事には慣れているのだろう。それが青年には余計に気に入らなかった。
「いやね、近所の子供がここの住人――つまりあなたに、脅かされたという相談を受けまして」
「はぁ? 脅かされた?」青年は尊大に胸を逸らせ、せせら笑う。「迷惑してんのはこっちの方すよ。別に俺は、部屋を覗き込んでくるクソガキを見つめ返してやっただけっす。指一本触れてねーんすよ。つーかさ、あんたからもクソガキ共に二度とここに近寄るなって言っておいてくださいよ。善良な市民である俺の生活も守ってくれねーと、困るんすよね」
ニヤニヤと笑いながら青年は言うが、警官は相変わらず表情を変えない。これがプロ根性という物なのか。それとも、もしかしてこの男には表情筋が無いのではないか、と青年は眉を顰めた。
「お話は解りました。まぁ今回は注意だけという形にしておきますので、今後はこのような行為はお控えくださいね」
「だからっ、俺は別に――」
青年が何かを言う前に、制服警官は「それでは」と言って去ってしまった。青年は聞こえよがしに大きく舌打ちをし、積み上げられたゴミの山に蹴り上げて行き場のない怒りをぶちまけた。
その日の夜であった。扉の前で人の話し声が聞こえた様な気がした。少々如何わしい画像を見ていた青年は必要以上に驚いて飛び上がり、鍵がかかっている事を思い出すと、恥ずかしそうに舌打ちをした。
携帯電話を見ると、夜の一一時であった。遅い時間ではあるが、深夜という程でもない。まさか、通報をしやがった子供の親が直接抗議にでも来たのか、と青年は身構えた。
だが、待てど暮らせど扉を叩く音は響いてこない。青年は不振に思い、扉へと近づいていく。
なんだか、妙に生臭い。いつも以上に。放置したゴミが腐ったのか、すえた様な臭いも漂ってくる。やはり、夏場にゴミをそのままにしておくのは不味かったか。
淀んだ空気の中を、青年は沼地を歩くような気分で歩いていく。なぜか足音を立ててはいけないような気がして、慎重に一歩づつ足を進めていく。
やはり、扉の前から声が聞こえる。しかし会話をしているという風では無い。そう、独り言を呟き続けているという雰囲気だ。
一体、誰が? 何が起きている――?
慎重に、そろそろと、青年は耳をそばだてる。だが声の内容は聞き取れない。
どんな奴の仕業かだけでも確認してやろうと、青年は新聞受けに視線を合わせた。そして爪を引っ掻け、ゆっくりと開閉部を持ち上げる。
真っ赤なランプだと思った。何か、赤い物が見える。それは夜の闇に浮かび上がり、青年の眼前に浮かんでいる。
一瞬、ほんの一瞬だけ赤い物が隠れた。そして再び現れる。それはまるで――。
「――――っ!?」
青年は気が付いてしまった。それは〝まばたき〟だった。
真っ赤な二つの瞳が、細い暗闇の向こうから、青年を見つめ返していた。
心臓を握りしめられたような気がした。呼吸が浅くなり、胸が苦しい。手足からは急速に感覚が失われ、身動きもできない。
動けない。しかし、眼を逸らす事もできない。これから、この赤い瞳から視線を外せば〝取り返しのつかない事になる〟。そんな強迫観念に捕らわれていた。
どれくらい、そうして居ただろうか。脳髄が痺れ、意識は真っ白に染まり、何も考えられない。思考することを本能が拒否していた。
やがて赤い瞳が、すっと闇に溶け込むようにして、消えた。
青年を縛り付けていた何かが解け、解き放たれた青年はその場に尻餅をついた。
心臓が役目を思い出したように早鐘を打ち、全身から冷汗が噴き出した。蒸し暑い、淀んだ空気の中で青年は震えていた。脊髄から虫が這いまわるような悪寒が体中に広がり、視界が狭まって何も目に入らない。
何だあれは。何だったんだ。ようやく青年が考えた事は、赤い瞳の正体についてだった。
まさか、霊的な何かなのか。本当に? それとも、ここで起きた殺人事件の、犯人? かつての事件現場に新しい住人が住み着いたと知って、様子を見に来たのか?
だとしたら、何の為に。解らない。そもそも、あの赤い瞳は人間の物だったのか?
カタリ、と扉が震えた。それはただの夜風の悪戯であったが、青年は情けないほどに飛び上がり、後退りをして扉から離れた。
それからはもう、何も手につかなかった。ゲームをしようにも、ヘッドフォンで耳を塞ぐことに恐怖を覚えた。
気が付かないうちに、背後に何者かが忍び寄ってきたら? それに気が付けなかったら?
そんな妄想が青年を恐怖させ続けた。漫画を読んでも内容は少しも頭に入ってこない。意識は常に玄関に向けられ、見たくも無いのに、異変が起きていないかを何度も確認してしまう。
結局、青年には布団にくるまって夜明けを待つしかできなかった。一分でも、一秒でも早く朝日が昇れば良い。青年を恐怖から解き放つことができるのは、太陽の光だけだった。
■
夜が明けた。青年は精気が抜けたようにぼんやりと、朝日に白む家々をカーテンの隙間から覗いていた。
結局、何事も無く夜が明けた。いつも通りの、生者の時間が今日も始まる。そして自分も、その枠組みに含まれている。その事実が青年の心にも光を差し込ませた。
改めて、あの赤い瞳について考えてみる。もしかしたら、子供たちが昼間の意趣返しをしてきたのではなかろうか。そう思った。
その考えに行き着くと、恐怖で抑え込まれていたものが噴き出すように怒りが湧いてきた。もう、あの赤い瞳は子供たちの悪戯だとしか考えられなくなっていた。
「くっそ……! あのクソガキ共……っ!!」
良い度胸だ。そっちがその気なら受けて立ってやる。また性懲りも無くやってきたら、今度こそ捕まえてやる。大人を舐めたらどういう目に合うのか、たっぷり思い知らせてやる。
そう吐き捨て、青年は拳を白くなるほど握りしめた。
その日の昼過ぎには、例の子供たちはやってこなかった。しかし青年にとっては意外でも無かった。親か学校から注意でもされたのだろう。昼間は動かないだろうと思っていた。
勝負は夜だ。もしもう一度来るようなことがあれば、部屋に引きずり込んで恐怖を叩き込んでやる。そう考え、青年は玄関でその時を待ち続けた。
夜の一一時。昨日と同じ時間に、果たしてそれは現れた。
ぼそぼそとした声が扉の向こうから聞こえてくる。青年はドアノブに手をかけ、小さく深呼吸をした。
声が聞こえてくる前、近づいてくる足音を聞いただろうか。人の気配は? そんな事思った。扉を開けた瞬間。赤い瞳を持った〝人ならざる者〟が、本当に居たら? それに、なんだ? この生臭い臭いは……。古い用水路のような、どろりと淀んだ臭いだ。
しかし、やると決めた。霊的なものなど、居るはずが無い。こんなものは誰かの悪戯に決まっている。怯え続ける事の方が屈辱だ。覚悟を決め、ドアノブを回して扉を一気に押し開けた。
「誰だコラァ!! うるせぇんだ……よ……」
勢いよく吐き出された青年の怒号は、果たして闇に呑まれただけだった。
扉の向こうには、誰も居なかった。
念のため扉の後ろを覗き込むが、やはり何者も居はしない。
はて、と青年は首を傾げる。できるだけこの状況を合理的に解釈しようと試みる。
ここは二階だ。逃げたとするなら、あの錆びた鉄の階段を駆け下りる必要があるが、そんな足音はしなかった。であれば、飛び降りた? 音も立てずに? 忍者でもあるまいし。
その時、バァン!! という音が轟いた。青年はびくり、と飛び上がり、恐る恐る背後を見遣る。
洋室へ続く引き戸が、開け放たれていた。
確実に閉めたはずだった。風の仕業であるはずも無い。青年の脳裏に、一つの思考が浮かび上がる。
――入られ、た?
凍り付いたように洋室の闇を見つめる。自分の物であったはずの空間が、得体の知れない代物に変わってしまったかのような、妙な気分だった。
そして、青年は見た。闇の中に、ゆっくりと瞳を開く様に、二つの赤い光が浮かび上がるのを。
それからはもう、身体が勝手に動いたとしか言いようが無い。声にならぬ絶叫を上げながら駆け出し、ただ光だけを求めて近くのコンビニを目指した。
コンビニの軒先には、バスの停留所にあるようなベンチが設置されていた。灰皿もあるが、煙草は部屋に置いてきてしまった。財布も無い。
青年は力なくベンチに腰掛け、そこでようやく自分が靴も履いていない事に気が付いた。
あれは、なんだったのか。もうそんな事を考える余裕すら失っていた。肌に纏わりつくような夜の生温い空気の中で、青年は自分の身体を抱いて震えていた。
動く気は無かった。このまま夜明けを迎えるつもりだった。訝しむような店員の視線に構う余裕も無い。
「こんばんは。どうされました、こんな所で」
不意に声を掛けられ、青年はまたびくり、と震えた。ゆっくりと視線を上げると、いつかの制服警官が立っていた。
「……別に、なんでもないすよ」
あれをどう説明しろと言うのか。というか、店員め、常連のこの俺を通報しやがったのか? ふざけやがって、後で本部にクレームを付けて土下座させてやる。
「家、近くですよね。どうして帰らないんですか」
「なんすか。良いじゃないですか、別に」
警官の慇懃無礼な態度に、青年は腹が立ってきた。しかし同時に、生者との繋がりに不思議な安堵感も感じていた。だからだろうか、少し心に余裕が生まれてきた。
「……今日も一人なんすか。サツって、二人一組で動いているもんじゃねーんすか?」
「人手不足はどこの業界も同じでしてね。まぁ、街のおまわりさんなんてこんなもんですよ」
「……そーすか」
話にならないと感じたのか、制服警官は「では」と言い残すと直ぐに立ち去ってしまった。ゆっくりと、徒歩で闇の中へ消えていく。
ジリジリと鳴く殺虫灯の音を子守唄に、青年はいつの間にか眠りに落ちていた。
朝の配達をする新聞屋のカブの唸りに起こされた。辺りを見回すと、空が白み始めていた。もう少し待って、完全に陽が昇ってから動き出そうと青年は思ったが、朝食を求めて来店する人々の刺さるような視線に追いやられ、舌打ちをしながら歩き出した。
裏野ハイツに帰り着いた。恐る恐る、203号室の扉を開け、覗き込む。
洋室に続く引き戸は開けられたままだった。朝の光が差し込み、机の輪郭が浮かび上がっている。
扉を目いっぱい開き、閉まらないようにつっかえの脚を立てる。そろり、と机の上の携帯電話と財布を手に取り、つま先を靴に引っかけて火事場から飛び出す様に部屋から逃げ出した。煙草は見当たらなかったので諦めた。探すだけの余裕は無かった。
先ほどのコンビニまでたどり着き、青年は振るえる指で携帯電話を操作する、電話をかけた相手は、この仕事を斡旋した友人だった。
『んだよ、こんな朝早く……。俺、全然寝てねーんですけど?』
「やべーんだよ! 助けてくれよ! あの部屋、やっぱおかしいよ!!」
『あぁ? 知るかよんな事。お前がどうしてもって言うから紹介してやったんじゃねーか。最後までやれよ。後半分だろ』
「とにかく! 直ぐに来てくれよ! このままじゃ俺、部屋に入れねぇよ!」
渋る有人をなんとか説得し、コンビニで落ち合ったのはそれから二時間後だった。黒塗りで、やたらと艶やかな軽自動車が駐車場に入り込んできた。
降りてきたのは青年の友人だった。胡散臭さを人型にしたような風貌で、会うたびに髪の色が違う。今回は紫と白のメッシュだった。
「それって、ほらあれだ、ケツマクレってやつじゃねーの」
「けつ……結膜炎か?」
「ああ、それだそれ」
「そんなんじゃねぇよ、〝アレ〟は……」
青年は友人に状況を説明するが、友人は適当にあしらうばかりでまるで取り合わない。二人は裏野ハイツ203号室に連れ立って入り込む。
「ほら、別に何もねぇじゃん」
無遠慮に部屋を見回しながら、友人が言う。大きく欠伸をし、眉を顰める。
「んだ? この臭い……魚でも腐ってんじゃねーの?」
友人の言うとおり、部屋には淀んだ空気が充満していた。人間の生活空間にはあり得ない臭気だ。
「こ、これも昨日までは無かったんだよ。絶対やべぇって、ここ……」
「あああぁ?」友人が凄み、青年の胸ぐらを掴む。「ヘタってんじゃねぇぞ。おめぇがどうしてもって言うから紹介してやったんだろうが。途中で投げ出してみろ。俺も、お前も、ぶっ殺されちまうんだぞ」
青年の雇い主は、いわゆる堅気ではない人種だ。だけど、と青年は言う。
「仕事一つ放り投げたくらいで、んな大げさな」
「こういうのはな、割に合うとか合わねぇとかじゃ無ぇんだよ。ケジメなんだ。舐めた奴がどうなるかって見せしめなんだよ」
青年を突き放し、友人が面倒そうに部屋を出ていく。
「あっ、おい、待ってくれよ」
「ざっけんじゃねぇ。お前の仕事だろ、お前が何とかしろよ」あ、それと、と友人が玄関口で振り返る。「何か問題があんなら、お前が解決しておけよ。〝この部屋には何も無い〟って証明して、次の住人が住みつくまでがお前の仕事なんだからな」
「そ、んな。おい!」
すがるような青年の声を無視して、友人は去ってしまった。遠ざかるけたたましい排気音が、青年の胸に絶望の闇を広げた。
■
毎晩が地獄だった。
夜の一一時になると決まって部屋のどこからか声が聞こえ、トイレや浴室や、物入れの扉の向こうから、爪を立てるような音が、カリカリと聞こえてくるのだ。
声はとても小さく、何と言っているのかは解らない。だが、強い怒りと恨みの暗い気配だけはどうしようもなく伝わってくる。
もう、疑いようもない。明らかに霊的な〝何か〟だ。こんな物、どうしろというのだ。青年は夜ごと布団にくるまり、耐えるのみだった。
部屋から逃げ出すという選択肢は無かった。逃げれば、雇い主に殺される。殺されるまでは行かなくとも、ロクな目には遭わされないだろう。青年にはこの部屋も雇い主も、同じくらい恐ろしかった。
汗だくになって朝を迎え、適当に身体を拭いて、気絶するように眠る。そんな生活の四日目の夜九時頃。ベランダで物音がした。
青年が恐る恐る確認すると、そこには一人の子供が居た。青年は怯えたが、どうやら本物の、生きた人間の子供のようだった。年齢は三歳くらいだろうか。うずくまり、声を押し殺して泣いている。何かから隠れるように。
どうしてこんな所に? としばらく観察していると子供が青年に気付いて近寄ってきた。泣きはらした真っ赤な瞳が、青年に請うような視線を向けてくる。
青年は逆上した。その赤い瞳が許せなかった。この子供が、毎夜自分を苦しめるあの現象の原因としか思えなくなっていた。
気が付けば、子供の首を締め上げていた。子供を部屋に引きずり込み、伸し掛かるよう首を絞めた。子供は驚いたように眼を見開き、そしてすぐに動かなくなった。まずい、と手を離した時にはもう手遅れだ。首の骨は砕け、気道は潰れ、子供の命は失われていた。
呆然とした。何よりも、自分が恐ろしかった。
俺は一体、何をした? 何をしている? 何をしでかした?
これは、現実なのか?
その日の晩は、静かだった。声も聞こえず、物音もしない。その事実が、青年の中の現実を曖昧にしていく。
もう、妄想と現実の区別がつかなくなっていた。自分が殺してしまった子供が実は霊的な存在で、実在などしていないのではないかと思った。
だが夜が明け、子供の死体が朝日に照らされても消えないのを見て、青年は絶望した。
本物だ。この子供は、本物の人間だ。自分は人殺しになってしまったのだ。
死体は直ぐに痛み初めた。日中の気温は高く、一月程度で退去する予定だったので、この部屋にはクーラーは無い。扇風機などでは腐敗を遅らせる事もできず、夕方前には部屋はすえた腐敗臭で満たされていた。
むせ返るような悪臭の中で、青年は考える。この子供は、どこの誰なのだ。どうしてうちのベランダに居た?
青年は携帯電話で、近辺で行方不明になっている子供が居ないかを調べる。しかしただの一人も居ない。小さな子供が丸一日姿を消して、何の騒ぎにもなっていないのだ。
その日の晩も、次の晩も静かな夜だった。青年は輪郭の崩れ始めた死体と向き合って過ごした。死体の腐るさまを、その目に焼き付けていた。
「誰だ。お前は、どこの、誰なんだよ……?」
青年は物言わぬ亡骸に問いかける。しかし泥団子のような瞳は何も映さず、干からびた唇はぴくりとも動かない。
死体が腐るのが、想像以上に早い。どこからやって来たのか、ハエが卵を産み付けている。蛆が湧き、子供だった腐肉の上を這いずり回っている。青年は何も思考せず、ぼんやりと、ただそれを見つめていた。
青年の眼は落ちくぼみ、嗅覚はとうに失われていた。
誰なんだ。こいつは、一体どこの誰なんだ。
時たま、思い出したようにそんな事を思った。
俺はどうだ? 俺は生きているのか、実はとっくに死んでいるのか。
これは現実か? それとも、悪い夢の最中なのか?
答える声は、どこにも無い。
もう、何も解らない。
遺体から赤黒い骨が見え始めた頃だった。サイレンの音を響かせながら、数台の警察車両が裏野ハイツを訪れた。青年は思わず身構えたが、彼らの目的は階下の103号室のようだった。
ストレッチャーに乗せられ、二人の人間が運ばれていくのを青年はカーテンの隙間から眺めていた。救急隊員に慌てた様子は無く、生命維持装置の類も見受けられない。
しばらくして、203号室の扉が叩かれた。しかし青年は身じろぎもせず、耳だけをそばだてた。
「うっわ、ここも凄い臭いっすね」
「現場の真上だからな。建物も古いし、染み付いちまったのかもな」
扉の前には、二人の男が居る様だ。部屋が留守だと思い込んだのか、気安く会話をしている。
「しっかし、気が付かないもんすかね。遺体が腐ってから通報って。現代社会の闇って奴っすね」
「まぁこのアパートは特別かもな。周辺住人もあまり近づきたがらないし」
「そっすねぇ。呪われてるんじゃないすか?」
二人の声は大きくは無いが、静まり返った203号室の室内で聞き取るには十分な音量だった。
話の内容から察するに、またこのアパートで殺人事件が起きたらしい。被害者は階下の103号室の住人と言う事だろう。自分のも含めて、三件目と言う訳か? 確かに呪われている、と青年は思った。
「しっかし、解らないんすよね。旦那さん、三日目までは普通に出勤してたんですよね」
「それが、どうかしたか」
「いやね、いくら初夏とはいえ、三日程度で遺体が溶けるほどに腐るなんて事件、初めてですから」
「俺だって初めてだけどよ、そういうのは検死官の仕事だろ。もうここは良い、行くぞ」
そう言って二人の声が遠ざかっていく。
三日? そうだ、今は何日だろう、と青年は思った。
いや、どうでも良いか。自分は人殺し。この物件も二重事故物件だ。いや三重? もう、どうしようもない。何もかもが終わりだ。
どれ程時間が経っただろう。ふと携帯電話を見ると、夜の十時半だった。いつも通りなら、あと三十分ほどで〝例の現象〟が起きる時間だ。
ここ数日は静かだったが、今日はどうだろう。解らないが、便所だけは行っておこうか、とどこか達観したような面持ちで青年が立ち上がる。
用を済ませ、洋室に戻ると、妙な違和感を覚えた。
はて、と眉を顰める青年を突然の悪寒が襲う。背筋に虫が這いまわるような感覚が広がる。
何か不味い。そう思ったが、青年の足は縫い付けられたように動かなくなっていた。
背後から、何かが忍び寄ってきた。次の瞬間、青年の目に映ったのは、枯れ木のように干からびた、二本の腕だった。
骨のように白く、指は枝のように細い。爪が不気味なほどに長く、暗闇の中でも浮き上がって見える。手首の細さから、それは成人女性の物と思われる腕だった。それが青年の腹を抱えるように、左右の横腹からゆっくり伸びてくる。
「ひっ――、あ……」
青年は喉を引くつかせ、呻く。背後から強烈な腐臭が湧き上がってきた。そこで唐突に気が付いた。子供の遺体は、どこだ? そうだ、洋室にあるべきものが無かったのだ。それこそが違和感の正体だった。
〈ヤット、入レラレル〉
やすりで摩り下ろした様な、かすれた声だった。
〈ヤット、小サク、ナッタ〉
ざわざわと、耳にムカデが入り込もうとしているようだった。脳みそに爪を立てられているような感覚がした。
「なっ、なにを――、ひっ!?」
何を言っている、と青年は言いたかったのだろう。しかし言葉は最後まで発せられる事は無かった。
白い腕から不気味に伸びた長い爪が、薄くなった青年の腹に食い込んだ。
「いっ――、やめ……!!」
そう青年が言う間にも、爪はミチミチと音を立てて肉に食い込んでいく。何本もの爪が青年の体内に侵入し、つぅ、と赤い血が流れていく。青年は激痛に顔を歪めるが、金縛りにあったように身体がいう事を聞かない。
眼前に影が掛かる。それは長く伸びた髪の毛だった。
何者かの気配が、確かな厚みを持って青年の背後に立っている。〝それ〟の身長は青年よりずっと高く、背後から覆いかぶさるように、青年の顔を覗き込もうとしていた。
やがて現れた真っ赤な二つの瞳が、青年を見つめる。
〈入レル。同ジ目二。同ジ目。入レル。入レル〉
静かに、しかしはっきりと〝それ〟は言った。同じ目とは、どういう事だ。
「だ、誰の事を、い、いい、言っているんだよっ。俺は何も、何もしてねぇ!」
勘違いをされている。青年はそう思った。ここで黙れば、自分は誰かの代わりに殺されてしまう。
〈アノ男ノ匂イダ。オマエダ。ヤットミツケタ〉
「だからっ、俺は――いぎっ!?」
すぶり、と爪がいっそう深く差し込まれた。ついには指までが腹に食い込み、ギチギチと音を立てて腹を引き裂き始めた。
青年はもう、激痛のあまりに声も出なかった。目と口と大きく開き、ただ喉を震わせている。
〈アノ男ダ。オマエダ。返ッテ来タ。入レル。入レル。入レル――〉
信じられないほどの力で腹が引き裂かれていく。滝のように血が流れ出し、身体から意識と力が抜けていく。
〝それ〟の腕が何かを拾い上げる。青年は朦朧とした意識で、それを見遣る。
青年の血で濡れた腕が、赤黒く溶けた子供の死体を、青年の腹に押し込み始めた。
■
裏野ハイツの前に、やたらと艶めいた黒い軽自動車が停まる。携帯電話を耳に当てながら出て来たのは、青年の友人だった。相変わらずの胡散臭い風貌で、髪の色はレインボーになっていた。
「すいやせん、あいつ、連絡付かなくって。今ちょうど例のアパートの前ですんで」平身低頭といった様子で、友人が声を上げている。「逃げたって事は無いはずなんで、穏便に――え?」
友人が言葉を区切る。
「ええ、その事件なら知ってやす。103号室のっすよね。結構たつのに、今もパトカーが来てますわ」電話口の向こうで何を言われたのか、友人が目を見開く。「え、もう良いって。そりゃ、こうなったら借り手なんて見つからないでしょうけど。それじゃ金は? あの金が無いとあいつは――」
しばらく短いやり取りを繰り返し、友人は見えもしないのに、電話口の相手にぺこぺこと頭を下げた。
「そう言って頂けると助かります。あいつも喜びますよ。ええ、それじゃ、後であいつも連れて挨拶に伺いますんで」
まったくあいつは何やってんだ、と舌打ちをして友人が錆びた階段を上る。半分ほど階段を上ったところで、妙に人の気配が多いのに気が付いた。
階段を上がり終え、友人は眉根を寄せる。廊下には複数の人間が居た。制服警官にスーツ姿の男。青い作業着を着て、腕に〝鑑識〟と書かれた腕章を身に着けている者もいる。その全てが研究所で用いられるような、大げさなマスクを身に着けていた。廊下の奥には黄色い〝立ち入り禁止〟のテープも見える。これでは203号室へ入れない。
それに、なんだこの異常な臭気は。言葉では言い表せない、粘度すら感じさせる悪臭が漂っている。
呻く友人に気が付いたスーツ姿の男が近寄って来た。友人の頭髪に一瞬目をくれ、警察手帳を開いて見せて来る。
「すいませんね、騒がしくて。ここの住人の方ですか?」
スーツ姿の警官が言う。若い男だ。後ろから先輩警官と思わしき、中年の男性もやって来た。友人は警察の人間を毛嫌いしていたが、今はそれを言っても仕方が無い。
「いんや、俺は203号室に住んでるやつのダチっす。なんすかコレ。殺しがあったのは下の階っしょ?」
友人が答える。若い警官は後からやって来た先輩警官と目を合わせ、困ったような表情をしている。やがて先輩警官が頷き、若い方の警官が歯切れ悪く語りだした。
「その、どう表現したら良いのか。ちょっと言いにくい話なんですけれど……」
『完』