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かぎろひの

作者: 南 奈乃

 日が昇る前のひと時、淡い菫色の空に茜の光が拡がり、刻々と明るく染めていく様を、(たえ)は暫く見あげていた。

晩秋に現れる、朝焼けとはちがう虹を帯びた鮮やかな曙光を、万葉の昔から「かぎろひ」と呼ぶ。

 明け方に目覚め、身支度を整えると寝所から縁側へ出た。齢よりずっと若いといわれ続けた妙も、七十を過ぎて体の衰えを感じるようになっている。

縁側で「かぎろひ」の立つ空を見上げていると、体が冷えてきたのか、大きなくしゃみが出た。医者の息子に聞かれでもしたら、面倒なことになる。今日は山越えをして遠方へ往診に行くつもりなのに、無理をせずに安静にしていろと言われるだろう。

妙も同じく医者の身であるから、息子以上に自分の体はわかっているつもりだ。大和の国御所(ごせ)村の戸毛(とうげ)という片田舎の宿場町で、長年患者を診てきた。戸毛は、大坂方面と紀州、伊勢を繋ぐ高野街道の要所で、峠という意味から来ている。名前の通り、どこまでも山々が連なり、その山脈が南へ吉野の山々へと延びている。

 父祖の代からの医家に生まれた妙は、婿を取り後を継いだ。今は息子が継いでいるが、一緒に診療を続けている。明治になり、以前は徳川幕府の天領だったこの村も、奈良県葛上郡御所村という名前で呼ばれるようになった。

井戸端で顔を洗い、すぐに出立するため診察室へ準備に向かいながらも、先ほど見た「かぎろひ」の空がまだ頭に残っている。夜と朝との間にほんの短い時間現れるだけの儚いものなのになぜだろうと、ふと考える。もしかしたら、あれは「極楽」と呼ばれるものからの自分への来迎の兆しだったのだろうか。まだそんな事はないだろうと、心で苦笑いをする。この世で、自分にはもう少しやり残していることがあるのだ。

古い記憶が、急に蘇ってくる。遠い過去と近い過去が、入り混じって、きちんと編まれていた思い出という織物が、少しずつほつれていく。いつだったか、あのような「かぎろひ」を見上げたことがあった。

     

 文久三年(一八六三年)のちょうど今頃、妙が四十八歳の頃である。

 その夜は、遅くなってもなかなか寝付けなくて、布団の中で寝返りを打ちながらあれこれ考え事をしていた。当時の妙はとても寝つきが悪く、眠れないまま夜明けを迎えることもままあった。月のものがなくなり、それと同じくするように妙の身に次々と変化が起こった。

一昨年に夫が亡くなり、昨年は長男が大坂へ医術修行に行ってしまった。夫が生きていた頃、住み込みの弟子がいて活気のあった家は、彼らが去ってからすっかり寂しくなった。

今では、九つになったばかりの次男と、年若い下女のフミと三人で暮らしている。長男の成行(せいこう)が修行を終えていずれ戻ってくることだけを楽しみに、医家の看板を守っていた。

気がかりは、この長男のことだった。妙は起き上がって、縁側に面して置かれた文机に置いてある成行の手紙に眼を遣った。半年前に届いたものだ。

 手紙には、幕府の執政に不満を持つ若い浪士が大坂や京都に多数集結していることや、彼らが血腥い事件を起こしている様子が書かれていた。黒船の来航以来続いてきた、異国に対する幕府の弱腰のせいで起こったことだと書いてある。浪士に味方した考えだった。一方で成行は、このまま大坂に留まって蘭学を学び、いずれはこちらで開業することを考えているとも書いてきた。大坂の夫の実家で遊学することを勧めたのは妙だったが、医術を学び後を継いでもらおうという自分の目論見が大きく変わり始めた。それにしても、これまで帰りたくないというようなそんな素振りはなかったのに、随分急な話に思える。一度、故郷へ戻るようにと返事を書いた。直接会って相談したかった。ところが、それきり帰ってくる気配はおろか、便りもないままだった。

ご時世なのか、まだ九つの省行(しょうこう)さえ「剣術修行」をやりたがる。通っている塾でも、勉学をするより子供同士で刀に見立てた竹の棒を振り回して、剣術の真似事をしているほうが楽しいようである。

そんななか、事件が起こった。

八日前の晩、近くの五條代官所が突然に何者かによって襲撃された。代官をはじめ役人たちは皆殺しになり、代官所は火を付けられ炎上した。いつもなら旅人たちで賑わう街道筋の店も、近頃は早くから戸締りをし、ひっそり息をころしている。代官所襲撃も、成行が手紙に書いていた、幕府に不満を持つ京都の公家や浪士の一味らしいと聞いた。その中には、医者も含まれていたらしい。

今朝は、何発か大きな砲声が、山々にこだまするように響いてきた。患者の話では、隣の高取藩にある大砲の音らしい。幕府側の要請で、襲撃に対する報復を仕掛けたのだ。

「奥様、いよいよ戦ですやろか」

いつも荒くれの雲助や木こりに凄まれても、睨みかえすぐらい気の強いフミも、大砲の音を聞いてさすがに不安そうな顔をした。成行が帰ってくれていたら、どんなにか心強いのにと思わずにはいられない。

時々雨戸が風でガタガタ音をたてる。やっとうとうとしかけていても、眼が覚めてしまう。

 再び外で音がした。今度は風の音ではなかった。門を叩く音である。

 縁側を小走りする音が近づいてきた。そのフミの「奥様」と怯えた声が聞こえる。

「至急、診てもらいたいとおっしゃられてますねんけど、どういたしましょ」

 妙は起き上がり、

「患者なら、放ってはおかれへん。出てみます」

 フミを安心させるように、わざと平静を装った声で返事をした。

寝巻きの上に羽織を着て、部屋を出た。晩秋ともなると、山沿いの村では昼間は汗ばむ陽気でも、夜はぐっと冷え込んでくる。冷たい廊下を踏みしめながら、暗闇のなかを手探りで玄関に出た。庭木の向こう、門のほうから微かに灯りが漏れている。

息をひそめて、音を立てないように門に近づき、くぐり戸の隙間から窺うと、馴染みのくるま屋の姿が見えた。くるま屋とは、近くにある大きな水車小屋を持つ家の屋号で、水車で麦や蕎麦をついている。白髪混じりの頭に手拭で頬被りをし、齢は妙と変らないのに腰を屈めた姿がひどく年をとって見えた。親の代からの、患者だった。

つい気を許してくぐり戸を開けてみれば、くるま屋の横に提灯を下げた大きな男が立っていた。「しまった」と思い、扉を閉めようとした途端、そこへいきなり槍のようなものが突っ込まれた。

「医者はお前か」

 妙が声も出せずにいたら、槍を差し込んだ男が聞いた。

「そうですねん。女先生やけど、この辺ではいちばん近いですよって」

 くるま屋は、怯えと媚を含んだ声で代りに答えた。

「怪我人や。ちょっと傷が深いさかい」

男の声には、聞き覚えはなかった。二人以外に、人影は見当たらない。往診を頼むつもりらしい。どのみち、女所帯に彼らを入れたくはない。

「往診でしたら、準備をしますので、ちょっと待っていて下さいや」

 月明かりに鈍く光る槍の穂先を見つめながら、やっと返事をした。一旦家へ戻りながら、相手の正体もわからないまま承知したことを後悔した。手探りで玄関に戻った時、戸口に掛けた手は小刻みに震えていた。

「往診に行ってくるから、留守番を頼みますで」

 フミにそう言った。

朝方に聞こえた大砲の音が、よほど心に残っていたのか、

「奥様。うち、一人で留守番なんて、嫌です」

 フミは甲高い声を上げた。

「里へ帰らせていただきます」

「この家を守るのは、あんたの他に、誰がいてるのです?」

妙は、泣き言を言うフミを叱りつけるように言った。

「息子のこと頼みましたで。もし、朝になっても帰らなかったら、番所に駆け込みや」

 幼い息子は、今頃すやすやと寝息をたてているに違いない。隣の部屋の省行に気遣いながら、いつも往診に着る焦茶縮緬の羽織に袖を通し、煎茶縮の御高祖頭巾を被った。そうすると、少し気持ちが落ち着いてきた。表の間に戻ると、白い晒木綿を畳んだものを、往診に提げていく薬籠に入れた。それにしても、なぜくるま屋が連れてきたのだろう。隣の大男は、村の人間ではなさそうだった。

 くぐり戸を出ると、大男は妙の顔をちらっと見、顎をしゃくると前を向いて歩き出した。くるま屋に近づき、小声で話しかけようとしたが、怯えた様子で口に人差し指を当てて見せると、もうこちらに顔を向けようとはしなかった。

 静まりかえった街並を抜け、夜風に吹かれながら提灯を頼りに歩いていくと、くるま屋の大きな水車小屋が月明かりにぼんやりと浮かび上がってきた。自分の子供の頃からカタンカタンと音をたてゆっくりと回る慣れ親しんだ水車の影が、今は暗闇の中で見知らぬ怪物のように見える。

「さあ、この中へ」

 くるま屋は小屋を指し示した。

男に付いて小屋の中を覗いたが、中は真っ暗で人気がない。もしや騙されたのではとくるま屋を振り向くと、彼は提灯で中を照らし出した。小屋の隅に梯子が見え、その梯子を伝って誰かが降りてきた。着物の裾を尻はしょりにして降りてきた男は、背は高いが手足はひょろりと細長く、見るからに成行ぐらいの年頃の若者のようだった。妙の恐怖心が少し和らいだ。

「あんたが医者か?」

この男も、怪訝そうな顔をする。女の医者とは思わなかったのだろう。

「昇れるか?」

梯子を指差して聞いた。天井裏に怪我人を運んだらしい。ここまできて、帰ることもできない。妙は御高祖頭巾を被ったまま、羽織を脱いで畳み若い男に手渡した。腰紐を取り出しタスキがけをし、着物の裾を帯に挟んだ。梯子を昇るのは、子供の時以来のような気がする。妙は一人娘だったが、跡継ぎとして男のように育てられた。そのせいもあり、昔から木登りして柿やミカンをとるのは得意だった。身軽に昇り始めると、薬籠に羽織を乗せて片手に抱え、若い男が後ろから付いてくる。暗闇に目が慣れたのもあって、視界に天井裏の様子が広がってきた。太い梁が空間を貫いて横切り、隅に蝋燭が立てられてその横に三人ほどの男が座り込んでいた。

「医者が来たぞ」

呼びにきた男の声に、中の男たちが一斉に顔をあげた。

「怪我人は、どなた?」

 妙の後から昇ってきた若い男が、指差した。

天井が低いうえに埃っぽく、むっとするような饐えた臭いが漂っている。怪我人の呻き声がする。

 呻いている男に近寄り、脈を取った。手の柔らかい感触で、この男も若者だと分かった。

「内股を撃たれはったんや」

 さっき出てきた若者が、蝋燭の灯りをこちらへ近づけてくれた。「ふん、ふん」と頷きながらふと男を見ると、浮かび上がった顔は真っ白で、旅役者の誰かに似ていた。夫が亡くなる前は、芝居の一座が村に来るたび見物する余裕があった。それが、とても遠いことのように思える。

「俺は、何かすることあるか?」

 聞く若者に、母屋に行って焼酎を手桶に一杯貰ってくるよう言いつけると、風呂敷の中から白い晒の布を取り出し、手早く端を咥えると細く裂いた。

 若い好い男だったので一瞬ためらったが、着物の裾をはだけ、捲りあげ傷の具合を見た。股間から腿にかけて真っ赤に染まっている。相手のほうも、女に股間を見られることに、羞恥を感じているだろうと思った。自分が恥ずかしがっては余計に相手も辛かろうと、遠慮なく手を伸ばし、傷口を診た。男は顔を背けて痛みに耐えていた。

さっきの男の言葉どおり、銃創のようだった。内科を専門としているうえ、吉野の田舎で銃創を診ることはまずなかった。額に脂汗が浮かんでくる。自分にできることは、たいしてないことに気づいた。股の付け根に、止血の為、白い晒をきつく巻いた。

 もしかしたら、弾を取り出さなければならないのかもしれない。大坂で修行している長男の手紙に、そんなことが書いてあった気がする。蘭学者は、自ら刃物で患者の体を切り裂くとか。体を麻痺させる薬を用いて患者を眠らせ治療する華岡青州という医者が、かつて紀州にいた。自分には、そんな術はできない。

若者が運んできた焼酎で傷口を消毒し、晒に黄檗(おうばく)(おう)(れん)を調合した軟膏を塗りつけ、その部分に当てて上からまた晒を巻いた。弾が貫通しているのか確認したかったが、今無理に動かすほうが危険に思われる。夜明けまで待ち、明るくなってからもう一度傷口を確認しようと思った。

焼酎を運んでくれた若者は、横に正座し熱心に治療の様子を見つめていた。

「他に、怪我をされた方はいてますか?」

振り向いて、尋ねると、

「それなら、拙者も頼む」

 遠慮がちな声が聞こえた。

立ち上がると梁に頭をぶつけるので、声のした辺りにいざって行った。少し動いても、梁に溜まった細かい土埃がぱらぱら落ちてくる。床はざらざらしていて、着物が埃まみれになった。

横たわっていた男を起こし、手足の傷に軟膏を塗り包帯を巻いた。声の感じから初老と思われる彼は、武士らしい様子で礼儀正しかった。「かたじけない」とすまなそうに怪我をした傷口を見せる。当初の、命の危険を感じるような強い恐怖感は、徐々に治まってきた。

 さっきの若者の言葉は地元の訛りがあったが、他の男たちはどうも他国者に思える。治療をした男に、思いきって聞いてみた。

「あなたは、大和の人? それともどこかから来はったの?」

「それは言えぬ」

 男は、きっぱりとした口調で答えた。

 その時、横の男が、

「もう、土佐へ帰ることは多分かなわんじゃろうな」

 呟くように言った。

「言うな」

 隣の男がすぐに遮った。

「今さら、隠したって仕方がない。それに脱藩浪士とはいえ、京の帝に勅命を受けた皇軍なのだから、恥ずべきことなどない」

 その時、さっきの深傷を負った男が、いきなり口を開いた。

「こんな怪我など、しれたもの。また刀をとって、明日こそ高取藩の芋侍に一泡吹かしてやる」

肩で激しく息をついた。礼儀正しく見える彼らが、やはり代官所を襲い、代官を晒し首にしたのだ。

妙は、殺された代官とも面識があった。流行り病の時期に、大勢の村人を治療した時は、わざわざ代官所に呼び出され、褒美をいただいた。人徳と知を感じさせる穏やかな風貌の方であり、誰もが敬慕の気持ちを抱くだろう。少なくとも、あんな酷い殺され方をされるようないわれはない方だと思う。この大和の地で幕府も朝廷もなく平安に暮らしてきた妙たちのところに、彼らは戦を持ち込み、勝手に殺し合いをはじめたのだ。自分たちは、巻き込まれたに過ぎない。

武士ではない妙に、敵味方という観念は浮かばなかった。目の前の傷病者を、どうしたら助けられるかしか今は考えられなかった。それに、自分の態度次第で、彼らが危害を加えないとは言い切れない。正直なところは、家へ早く無事に帰りたかった。相手は人を殺してきたやつらだ。夫の形見の懐剣を持ってくればよかったと思うと、後悔と恐怖で背中が熱くなりじわじわと汗ばんでくるようだ。

「名前を名乗らず、失礼した。わしは、吉村、寅太郎、帝の勅命を受け、皇軍御先鋒として中山忠光卿を総大将に……」

 男は今度は妙に向かって話し続けようとするが、痛みのせいで途切れ途切れに小さく、よく聞き取れない。そんな挨拶より、安静にしている必要があった。

「喋ったら、あきません。まめに包帯を替えて、じっと大人しい寝ていないと、傷口が膿んで命さえ危ないですよ。」

 妙は聞いていられず、つい口を挟んだ。

「戦いに勝たなければ、どの道死ぬしかない。じっと大人しく寝てろなんて、死ねと言われているんと一緒じゃ。また刀をとれるようにしろ」

寅太郎と名乗る男は、がばっと起き上がると妙に掴みかかろうとした。

「寝なさい。治らんで、ええんか」

 反射的に怒鳴り声をあげると、妙は片膝を立て睨み返した。男たちに威嚇されると、長年の体験から高圧的態度をとることが常になっていた。蘭学の大家が弟子入りした女を手篭めにし、父無し子が生まれたという噂をかつて聞いたことがある。学者でさえ、女を前に魔がさしてしまうのだ。弟子や医者であっても、男にとって、女は女でしかないということだ。部屋に患者と二人きりということもあり、若い時には手を握られたり、みだらなことをされそうになった。時には、袴を付け男装をすることで、何とか乗り切ったこともある。ここで眼を逸らしたら、何をされるかわからない。睨み合いになった。

 先に目を逸らした寅太郎は、再び横になった。

「何だか、母上に、叱られてるみたいだな」

 その皮肉っぽい口調に、妙は息子を思い出し、女としてでなく母と見られたことに、少しほっとした。

「あなたがいなくなったら、お母上は悲しまはるでしょうが?」

 柔らかい口調で、諭すように言った。

「わしには、年の離れた弟がおる。そいつに家督も譲ったから、問題ない」

妙は、はっとした。跡継ぎのことばかりを考えている自分に、成行が男の口を借りて責めているような気がしたからだ。

そうではない。母として、息子の身は心配なものだと伝えたかった。もしかしたら成行も、こんなふうにどこかで危険な目に遭っているかもしれないのだ。

「私にも息子がいて、大阪へ出てるのだけど連絡が取れなくてね。あなたたちのなかに医者もいるらしいけど、もしあの子が参加していたらと思うと、母としては心配でね」

 息子のことを話した。

「五條に住むものや、何人か医者は仲間にいる。代官所の様子を探ってくれた。彼らは本隊にいるが、そう若くはないから、おぬしの息子ではないだろう」

 さっき手当てをした男が、教えてくれた。

やはり、医者はいた。息子ではなかったものの、同じ代官所の領内で、自分のように人殺しを手当てする者もいれば、人殺しの手引きをする者もいる。

「わしの故郷も、こんな山の谷あいにあるんじゃ。景色がよう似ている。父は早くに死んだ。弟は体が弱いし、これから母には苦労をかけるだろう。」

 寅太郎は、言う。その口調は、代官への残忍な処し方とは結びつかない。

「この方も、土佐のお人?」

 妙は、土佐という地名を漏らした男に聞いた。

「そうじゃ。わしらは、海を渡ってきた。海を知っておるか?」

からかう様に聞かれたが、無論知る由もない。大坂でさえ行ったことがない妙にとっては、遥か遠い所だ。それが、ここと似ているとは不思議な気がする。

背後から、寝息が聞こえた。見ると、妙を呼びに来たいかつい武士が、壁にもたれてウトウトしている。だいぶ夜がふけてきた。

「もう、いいぞ。早く息子のところへ帰ってやれ」

 寅太郎は言った。

 そう言われると、逆に傷のことが気になってくる。傷口の深さを考えると、本当は早急に縫ったほうが治りも早いだろう。街道筋でおこった喧嘩で、怪我をした人間の治療はしたことがある。代官たちを売った五條の医者に、後で「なんだ、この治療は。だから、女の医者は」と言われるのは絶対に嫌だった。「国手」といわれた父の顔に泥を塗るような、治療はしたくない。自分にも医者として意地と誇りがあるのだ。このまま放ってしまって、いいのだろうか。

迷ったあげく、

「じゃあ、一度帰るけれど、また様子を見に来るから」

 妙は、言ってしまった。

「おい、大倉、送っていってやれ」

 妙が治療した男の一人が、尻はしょりの若者に言いつけた。

 羽織を着て、水車小屋を出ると、目の前にくるま屋が立っていた。

「悪かったな、先生。ほんまに助かったわ」

 妙に言うと、今度は一緒にいる若者に向かった。

「お前は、この辺の者やろ。知ってるのか? あのお人らに、幕府から逆賊追討のお触れが出たことを」

 若者は、

「やっぱり、そうなのか。どうも様子がおかしいと思った」

 呟くように言った。

 くるま屋は側に近づくと、声を低くした。

「わしは番所に恐れながらと通報しようと思っている。先生もお前ももう、関わらないほうがいい。匿ったことで味方やと思われたらわしらまで巻き込まれる」

若者は、首を振る。

「それだけは待ってくれ。あれだけの深傷を負ってるのに。まだ、治療も途中やし」

 若者の言うとおり、今の体でどこかへ移動するのは、命に関わるかもしれない。

「もうちょっと、待って。お願いやから、せめて出血が治まるまで」

 妙も、口添えをする。くるま屋は少し考える様子をすると頷き、背を向けると母屋に戻っていく。

 歩きだしながら、妙は若者に言う。

「どうするの? あなたは一味じゃないなら、このまま逃げた方がいいと思うけど」

 若者は答えない。ただ黙々と歩いていく。

「あの人たちがしたことを知ってるの? それともあなたも誰かを殺したの?」

 若者は、

「黙れ」

 と一言叫ぶが早いか、くるりと後ろを向き、来た道を走っていってしまった。  

 

 フミから省行がぐっすり眠っていて、家の中も変わりなく無事であることを聞くと、妙は口を訊くのがおっくうなぐらいどっと疲れが出てきた。そこで、布団に入りしばらく仮眠をとることにした。ここ暫くは、往診の依頼もない。少しは眠っておかないと、もしもまた急患が来た時に、辛くて体がもたないような気がする。息子の布団を直してやり、襖を閉め横になったが、体のこわばりが解けず、神経が高ぶってなかなか眠れそうになかった。

 やっとうとうとしかけた頃、廊下の足音で再び目が覚めた。

「奥様、奥様」

 またもや、フミの慌てふためいた声がした。

「また、お武家様が、訪ねていらっしゃいました」

 気がつけば、もう日が高い。妙は起き上がり、急いで身づくろいをした。まだ、頭はぼうっとしている。もしかしたら寅太郎の容態が急変したのかもしれないし、それなら放ってはおけなかった。

 玄関を開け、門に近づくと、

「早く、門を開けよ」

 と、威嚇するような声が聞こえてきた。どうも言葉から、昨夜とは雰囲気が違うようだ。やれやれ、いったい何が起こっているのか、頭が麻痺しているせいか、恐怖感ももうなかった。

 閂を外すのを待っていたように、大きく門が開かれ、外には数人の武士が立っていた。

 白い鉢巻には、高取藩の紋所が入っている。タスキ掛けをし、槍を構えていた。

「我々は、逆賊追討のため、この辺を捜索しておる。近くの水車で粉をひく、くるま屋という店を知っているだろう。そこのあるじの話では、行き先をおぬしが知っているということだが」

「はあ? いったいどういうことで?」

 くるま屋は、やっぱり番所に寅太郎たちのことをご注進に行ったらしい。多分口うるさいお内儀にでも、早くしろと言われたのだろう。踏み込んだ時には、もうほとんどが逃げた後だったとのこと。あの若者が、知らせたのだろうか。それとも、くるま屋がどちらも敵に回したくないと思って、番所に行く前に追手が迫っていることを知らせたのかもしれない。

「どこへ行ったか、知ってるんだろう?」

 男の一人が凄んで見せた。

 どうして妙の名前を出したのだろう。自分の身を守るためとはいえ、迷惑の一言だった。それに、あの体で逃げていった寅太郎たちが心配だ。

少し南の奉膳(ぶんぜ)というところに、妙も一目置く腕の確かな医者がいた。そこへ行ってくれていれば、若い彼なら蘭方の治療もできるはずだが。

黙りこんだ妙を不審に思ったのか、

「話さないと、この家を捜索するぞ」 

一人が、イライラした様子で怒鳴った。踏み込まれたら、家の中を滅茶苦茶にされるどころか、若いフミや幼い省行に手を出すかもしれない。それだけは、なんとしても避けたかった。妙は、きっぱりと言った。

「私は、ここで治療したわけじゃありません。捜索するぐらいなら、番所へ連れて行って下さればいいでしょう」

武士が、周りを囲んだ。そのまま番所に連行されることになった。

行き倒れの旅人を診察することもあったので、番所の役人とは普段から顔見知りだった。番所に行けばきっと疑いは晴れるはずだ。街道のはずれにある番屋まで武士に囲まれ歩いていると、両側に並ぶ旅籠や茶店の閉じられた扉の隙間から好奇の視線で見られているような気がして落ち着かない。それに、今度はフミにさえ声も掛けられず連れて来られてしまった。今頃、きっと心配でおろおろしていることだろう。息子のことも心配だった。

商店が途切れると、田んぼや畑などいつもならのどかな風景が道の両脇に広がってくる。今は田んぼにも畑にも普段と違い人の姿はなく、小春日和の陽光に照らされて、彼岸花だけが列をなして血まみれの晒首のように並んでいる。その赤い色がどぎつくて、妙は見ないように下を向いて歩いた。

到着してみたら、まったく見知った顔はなく、狭い番所がまるで屯所のように、大勢の武士たちでごった返していた。しかも、紀州藩の紋所を鉢巻や陣笠に付けている武士もいる。

上役らしい武士が出てきて、うむを言わせず奥のほうへと連れて行かれた。奥には罪人を留め置く部屋がある。板敷きの小さな部屋で、そこで診察したこともあった。

「取調べをするから、そこで待ってもらう」

 男は板戸を開けると、顎をしゃくってみせた。

「私は、彼らの行き先は何も知りません。ただ、くるま屋に呼ばれて治療をしただけで」

最後まで言い終わる前に肩を押され、よろめいた背後で扉が閉まる音がした。

 目を上げると、真昼の陽光が小さな格子戸から、薄暗い部屋に差し込んでいる。そこには、柱へ縄で後ろ手に繋がれた男が一人、座り込んでいた。

 振り向いた顔を見ると、男は昨夜尻はしょりで消毒の手伝いをしてくれた大倉という若者だった。彼は驚いた様子でこちらを見つめ、また目を伏せた。

 カタンという錠を落とす音がした。

「あなた、捕まってしまったの?」

妙は尋ねた。

「怪我をしている人たちは、どうなったの?」

「わしゃ、何も知らんぞ」

 男は、別れ際の時と同じように怒りを含んだ声で答えた。

「誰のせいで、私はこんな所に入れられたんや。あんな真夜中に、誰が治療してくれたと思っとるんや」

妙は男を睨み、怒鳴りつけた。

「そやかて、あんたがわしに口を割らせようと送り込まれたんやろ。わしは、命に代えても絶対喋らんぞ」

「この私が、幕府方の犬だっていうの? とんでもない。いい加減なことを言うな。こっちこそ、あんたらの味方と勘違いされて、捕まったんやからね」

 妙は、大倉に啖呵をきってみせた。

彼は、妙の勢いに飲まれ、少し大人しくなった。大倉正吾と自らを名乗り、自分の家は吉野の庄屋で、代々南朝の御陵を守ってきたと言った。朝廷のためにひと働きをしたいと思って、寅太郎たちの募兵に馳せ参じたものの、途中で仲間とはぐれ、到着したのは本隊が高取軍に大敗した後だった。戦場をうろうろしていたら、寅太郎が組織した別働隊に拾われ、高取城下に火をかけるための枯柴を担ぐ人足として夜襲に加わった。負傷した寅太郎を背負い、必死で高取藩の領地から脱出してきたという。

吉野の十津川などには、普段は田畑を耕したり木こりをしながら暮らしをたてている、郷士と呼ばれる人たちがいた。彼らは直接大名に仕える武士ではないが、苗字帯刀を許されている。南北朝の時代より、彼ら吉野の民はもともと幕府より朝廷に対する忠誠心が強いのだ。檄文を撒いた寅太郎は総裁と名乗っていたそうで、大物の彼を幕府側は必死に追っているらしい。

「総裁はこれから、新しい世の中を作るんやて書いてはった。幕府を早く倒して、京の朝廷を中心にした新しい政府を作らないと、この日本が異国に侵略されてしまうんやて。幕府の考え方は、今の時代にはもう古いんやで。これからは、幕府とは違う新しい考え方を持った政府が必要なんや」

 正吾の言うことは、長男の手紙を思い起こさせる内容だった。

「医者先生は、幕府側に付くんか? 総裁は、民や百姓が笑顔で暮らせる世の中にするんやと言ってはった。年貢を半分にするし、わしらを武士として取立て、扶持米をくれるんやで」

「武士になって出世して、楽な暮らしがしたいのやな」

妙は、皮肉っぽく言った。山の民は耕作できる土地が少なく、年貢を納めるのに苦労していた。大雨で水害が起こるたび、その僅かな田畑も根こそぎ奪われてしまう。彼らにとって、暮らし向きが楽になるなら、幕府とか朝廷とかは関係ないのではないか。

「出世しようという自分の野心だけで、飛び込んだわけじゃないぞ。わしの許婚だった娘は、ひもじい弟と妹を飢えさせんがために、自ら身売りして村を出て行った。そして悪い病をうつされて、死んで村へ帰ってきた。そのやつれた死に顔を見たとき、何もしてやれなかった自分が、どれだけ情けなくて悔しかったか。あんな思いはもうしたくないのや」

妙は、街道筋にガリガリに痩せた物乞いが増えていることを思い出した。彼らのような境遇を、経験したことはない。でも医者として、これまでたくさんの死というものに向き合ってきたつもりだった。

「そのために、代官のように何の罪もない人々を殺してもいいの? 代官様の家族もどんなに悲しんでいるか」

「わしだって、人殺しはしたくない。世の中を変えるためには、仕方ないこともあるんや。代官やあんたは、飢えたことはあるか? あんたみたいな人には、所詮わからへんやろうが」

 まくし立てると、正吾はむすっと横を向いてしまった。

 板戸の外に、人の気配がした。

板戸が開き、あてにしていた顔見知りの役人が入ってきた。妙を見ると、黒光りした顔をてらてらさせ、

「先生、困りますがな。ちゃあんと喋らんことには、出すことはできませんで」

 にやりとして、目配せをした。親指と人差し指を繋げてみせる。妙は呆れて、がっかりと首を振った。急だったので、金子は持ってきていない。そんな返事に、役人は再び素知らぬ様子になり、妙から正吾の方に向き直ると、

「おいっ。取調べだ」

そう言い、正吾の縄を解いた。そして正吾を連れて部屋を出ると、再び板戸に鍵を掛けた。夫が生きていれば、こんな扱いには絶対ならなかったはずだと思うと、閉まった板戸を見つめて溜息が出た。

しばらくして、激しい音とともに男の叫び声が聞こえ、妙は胸の動悸を覚えた。正吾が、かなり厳しく尋問されているらしい。叫び声は何度となく聞こえ、絶叫に近くなってきた。高取藩は、昨日の戦の残党狩りをしているのだ。拷問をされているのかもしれないと思った。

拷問を受けた死体が、目の前に浮かんできた。二十歳の頃、まだ元気だった父に、医学の勉強のためにと代官所に連れて行かれた時のことだ。父に、被せられた筵を捲るように命じられ、恐る恐る足元から捲り上げると、その体は全身のあちこちに真っ黒な痣があり、しかも首から上がなかった。激しい臭気が、妙を襲った。父は、蹲って傍らで吐いている妙に、

「本当に医者になる気ならば、これは避けて通れない道だ。しっかり見ておけ」

と冷たく言い放った。死体など見たくもなかったが、父の命令は絶対だった。

あの時、なぜ代官たちがあんな酷いことをしたのか、何も知らず、知ろうとも思わぬままだった。悪いことをした報いだと思っていた。でも、そうだったのだろうか。もしかして、自分や正吾のような人間だったとしたら。死をもって償うような罪など犯していないものだったとしたら。これまでの自分は、本当は何も知らなかったのか。妙は耳を塞ぎ、目を閉じて蹲った。

何かがぶつかる音がして、板戸が開いた。正吾は両手を縛られたまま、転がるように中に飛び込んできた。床にうつ伏せになったまま、呻いている。治療する薬はなく、着物を少し裂いた切れ端で、半裸の体に滲んだ血を拭いてやる。

「先生、わしは大変なことをしてしまった。もうおしまいや」

 正吾の体は小刻みに震えている。

「総裁のために、吉野の民が笑顔で暮らすためにやったのに、正しいことをやったのに。何でこんな目に合わないといけないんかのう」

 涙声で言う。妙は体を引き寄せ、母のように抱いてやる。

激しく立ち騒ぐ声がし、武士たちが動き回る気配がした後、外はひっそりとして物音も聞こえなくなった。彼らは妙たちを置き去りにして、どこかへ出陣して行ったようだ。

夜になって、ぐっと冷えこんできた。遠く虫の声だけが、微かに聞こえてくる。朝から何も口にしていないので、せめて一杯の水が欲しい。それでも、昨夜からの疲れもあり、いつのまにか眠っていたようだ。 

どかどかと誰か複数の足音が、中に入ってくるのがわかった。起き上がると、辺りはまだ真っ暗だ。提灯が掲げられ、紬の羽織を着た初老の男の顔が浮かび上がった。

 男は横たわった正吾に足音荒く近づくと、いきなり胸ぐらを掴んだ。

「あほんだら。何をさらしとる」

 語気も荒く、殴りつける。

「乱暴は、やめて下さい」

倒れたままの正吾に、思わず駆けよった。このままでは、正吾は本当に死んでしまう。男は強い力で妙を押しのけると、猶も彼の背中を蹴りつけた。正吾はされるがままになっている。

「親の目の届かんところで、こんなことにうつつを抜かしてたとは。お前みたいな阿呆はうちの恥さらしじゃ」

 男は、耳の鼓膜が割れそうな声で怒鳴った。

「まあまあ、そんなとこで。もう、わかりましたさかい」

 提灯をさげて様子を見ていた役人は、男を宥めている。

「いや、まだまだこっちの気がすまん。仕事のイロハもまだ勉強中やのに、勝手に家を抜け出しやがって」

 情けない、情けないと連呼しながら、正吾を猶も蹴り続けた。男は正吾の父親らしい。

妙は、父に打たれた痛みを思いだしていた。拷問を受けた死体を見せられた、少し後のことだった。

華岡青州が紀州で開いた「春林軒」という塾が、評判になっていた。薬を用いて眠らせ、患者の胸を刃物で開いて乳岩を治療するという医者だ。妙はその医学塾に入学したいと、父に願い出た。乳岩は女が罹る病気であり、女医が治療すれば若い娘の患者も恥ずかしがらずに治療を受けることができると思いついた。いずれ後を継ぐと言えば、妙は、きっと父が喜んで家を出してくれると思った。本当は、父の厳しい修行から逃げたかったのかもしれない。母を早くに亡くした妙にとって、父の存在がすべてであったから。父は妙の本心を見抜いていたのか、紀州行きを許そうとしなかった。諦めきれない妙は、塾へ密かに手紙を送ったが、若い女の入れる余地はないと入塾を断られてしまった。塾長から父へ鄭重な断りの手紙が届き、そのことを知ると、父は部屋にいた妙を縁側に引きずり出した。「馬鹿者」と一言叫ぶと、初めて妙を打った。その時掴まれた強い腕の感触は、今も思い出せる。

それから三年後、自ら選んだ婿と娘の婚儀を見届けるように父は亡くなった。その姿が、ふと正吾の父と重なった。

「もうよろしいがな。息子さんが喋ったおかげで、逆賊の所在はわかったし。まもなく、捕まるやろうから」

 役人の言葉に、やっと男は蹴るのを止めた。そして、今度は役人に向かうと、いきなりその場に土下座した。

「こいつはわしがちゃあんと家で蟄居させ、よう言い聞かせますから、堪忍してください。生まれつき頭が少し足らんのです」

 そう言って、床に頭を擦り付けるようにした。

「わしに、そう言われてもなあ」

 役人は正吾の父にことばを濁すと振り向き、今気づいたように妙を見た。

「ああ、先生、変な疑いをかけてすみませんだなあ。本当に申し訳ないこって」

 正吾の父を無視して、別人のように平謝りをした。

「ああーっ。総裁。総裁、わしを許してくれ」

 ぐったりしていた正吾は、何処にそんな元気があったかと思うほどの声で叫び、啜り泣きを始めた。

 妙はやっと軟禁状態から解かれ、正吾の父と一緒に部屋を出された。役人の話では、今や彦根藩や津藩など各藩に追討命令が出され、傷ついた彼らが追い詰められるのは時間の問題だった。

番所の前で、正吾の父は深々と頭を下げた。これから正吾はどうなるのか、お上の沙汰を待つしかないのた。

長い夜が、明けようとしていた。山々の稜線が、迫るように黒々と姿をあらわしている。駕篭に乗り一旦帰ることにした正吾の父を見送り、空を見上げる。青みがかった雲一つない空に向かって、茜色から淡い朱鷺色に薄紫の虹のような彩を帯びて、幻のような光が広がっていった。


明治二十年(一八八七年)秋、妙は駕篭に乗り大倉家の屋敷に向かっていた。

正吾の父はすでに亡くなり、弟の正二郎が後を継いでいる。もし正吾が生きていれば、妙が七十二だから彼も四十代になっていただろう。正吾は京都に送られ、父が恐れていたとおり死罪になった。

兄亡き後、正二郎は杉の植林に力を注ぎ、吉野山の桜を保存したり、奈良公園の森林を整備したりして、今では世間で山林王と呼ばれるまでになっている。正吾のことが縁になり、父が生きていた頃から、彼は子供が病気になるたびに妙を往診に呼び寄せた。正二郎は男女合わせて十人ばかり子供がいるが、幼子が全員無事に育つことが少ない時世に、誰一人夭折することはなく育っている。正二郎は、妙のおかげだと感謝している。

大倉家は伊勢街道から吉野川の源流を遡り、五社峠を越えた山の中腹に屋敷がある。妙は特別に誂えた畳敷きの駕篭に乗り、早朝から一日がかりで山道を往診する。駕篭の中には、薬の調合をしたりちょっとしたものを置ける文机代りの棚が取り付けてある。駕篭かき人足が道のりの途中で休息をとったので、妙はフミが作ってくれたおにぎりの弁当を棚に取り出し食事にする。

向こうに聳える伯母峯峠を越え、東に向かうと寅太郎が最期を迎えた村がある。あの後寅太郎は傷が癒えぬままに、やはりこんなふうに駕篭に乗って逃げ落ちていったのだ。動けなくなり、薪小屋に潜んでいるところを村の老婆に密告された。幕府軍の四十人もの鉄砲隊に囲まれて、蜂の巣になった。後に「天誅組」と呼ばれた彼らのほとんどが、その前後に若い命を散らした。寅太郎はあの「かぎろひ」の空をどこかで見ていただろうか。故郷に似ていると語っていたこの吉野の寂しい山あいに、彼は今も眠っている。彼らの死からたった五年で、徳川幕府は倒れた。もし寅太郎や正吾が生き延びていれば、故郷に戻って正二郎のように新しい生き方ができたかもしれない。

巨岩が川岸を埋めている宮滝から、熊野へ向かう急峻な山道へと分け入っていく。人足の掛け声を聞きながら半時ほど揺られて五社峠を越え、下り始めるとすぐに大倉家の広大な門構えが見えてくる。石畳を敷かれた道は、西陣の帯のように赤や黄色の落葉で彩られている。駕篭から降り門をくぐると、庭には大勢の使用人とともに長身の正二郎の姿があった。その面差しは若い頃から正吾にあまりにも似ていて、妙は初めて会ったとき正吾が放免されたのだと思ったほどである。正二郎は見慣れた着物姿ではなく、洋服を着ていた。明治の世になって洋装の人が増えたとはいえ、妙がこの吉野で見たのは初めてだ。伸ばしはじめた髭が、絵図で見た異国の人を思わせる。

「これは先生。よくお越しくださった。いつも遠いところを申し訳ない」

 そういいながら、正二郎自ら座敷の方へ案内する。以前は、子供たちが庭や家のあちらこちらで跳ね回って遊んでいたが、彼の考えで娘たちまで京都の同志社へ遊学させていると聞く。家を出ることを許さなかった妙の父とは大違いである。

「省行殿は、お達者か?」

 奥座敷に二人向かい合って座り、脈をとっていると正二郎が聞いた。

あの後、成行は故郷に戻らず、大坂で開業した。本道医(漢方医)の妙との考え方の違いが、西洋医学を学んだ彼を大坂に引き止めた。彼にとって自分は母親ではあるが、もはや師ではなかった。嫁を娶り、後を継いだのは弟の省行だ。ちょうどその頃、医院も模様替えをした。彼の意見で障子をガラス窓に変え、畳をあげ板敷きの診察室にした。

「息子が、西洋風にしたほうが衛生にもええって言いますねんで。部屋が明るくなってびっくりしましたわ」

 妙は、昨年生まれた孫の咲を抱いた時の温もりを思い出す。咲は自分に似ていると言われるのが、嬉しくてしようがない。女医になってほしいと、密かな夢を持っている。今では女子が医学校へ通うこともでき、医者の国家試験では女子も受験できる。師匠に手篭めにされる不安はもうない。女も男と対等に医術を学べるのだ。

「はい、口を開けてくださいや」

 正二郎は大きく口を開け、舌を出した。

「お風邪でしょうな。喉が赤く腫れておりますが、たいしたことはございません」

 正二郎は、ほっとしたように笑みを浮かべた。

「まだまだ、わしも寝込んではいられへん。今、吉野に鉄道を通す計画を練っているんや。そうすれば、筏を使っている木材の運搬が、どれだけ安全になることか。いずれきっと実現させるで」 

「ええっ、あの汽車が吉野に?」

会うたびに、途方もないことを言っては妙を驚かせる。もくもくと黒い煙を吐く怪物のような巨大な機関車が、吉野の山々や渓谷を縫って走るとは想像もつかない。その熱っぽい眼差しは、あの尻はしょりの若者をどうしても思い出させる。

「お時間で、ございます」

襖の向こうから、若い男の声がした。

「せっかく来てくれたのに、ゆっくり話ができず残念だ。いつもの薬を出しておいてくれ」

 正二郎はシャツのボタンを留め上着を羽織った。

 立ち上がると、ふと思い出したように、

「今朝の明け方は、『かぎろひ』が立っておったな」

 と言った。

「ご覧になられましたか。『かぎろひ』を見ると私は兄上さまを思い出してしまいます」

 妙の言葉に、

「兄貴や天誅組の人らは、『かぎろひ』みたいなものやったなあ。夜明けの前に消えてしもうた」

 彼はそう言うと、障子を明け縁側に出た。妙も薬箱をそのままに付いて出て、縁側から二人で外を眺める。秋の日差しに松の緑と赤く色づき始めたモミジが見える。

「わしは兄貴と違うぞ。他人のために負け戦はしない。自分のために、勝てる戦をする」

 妙は、そうだろうかと思う。彼は子女を遊学させている同志社を創立した新島襄や、板垣退助など有力な政治家にも資金援助し、政財界を影で動かすと言われている。板垣たちの自由民権運動に肩入れしすぎ、大阪府警に取り調べられたと新聞で読んだばかりだった。

やはり兄弟、同じ血が流れているのだ。正吾の熱い魂が、彼の体内を揺り動かしそうさせるに違いない。 

正吾の魂は、妙の心にも爪痕を残している。今、成行の下で再び外科の勉強をはじめていた。この歳になって、西洋医学を中心にした最新の医療を学ぶことに意味はないかもしれない。でも二十歳の時は諦めたけれど、自分に手術ができていたら寅太郎の人生は違っていたのではないかと考えてしまう時がある。その思いが、妙を突き動かす。

明治のご一新も、ここ吉野では何も変わってはいない。昔のままに百姓は田んぼや畑を耕作し、街道筋の店も旅人が行き交っている。診察室は変っても、妙が仕事を続けるのはこれまで通りだ。正吾の夢見た、民百姓が笑顔で暮らせる世の中は、果たして実現しているのだろうか。

「写真を撮ったことがあるか?」

 ふと妙を振り向き、正二郎は尋ねた。

「魂を吸い取られるというもんもおるが、肖像画を描かすより簡単で、いい記念になるぞ」

 そう、言った。

「今さら、こんな年寄りの姿を、誰が見たがりますかいな」

 妙は、苦笑いで答えた。洋装なのは、写真を撮るためだったらしい。そう言いながらも妙は、いずれは自分もこの世から消えて行くのだろう、消える前に写真というものを撮るのも悪くないかもしれないと考えている。

 これから、また峠を越え、山道を下る旅路が待っている。ここへ来られるのも、今回が最後かもしれない。そう思うと、大倉屋敷の向こうに聳える巨大な奇岩と吉野川のせせらぎの声が、とても懐かしく心に染み入ってくるのだった。


参考文献「実記 天誅組始末」樋口三郎 大友出版印刷 

「医譚 榎本住女史」藤森速水 関西医史学会

「葛村史」         葛村教育委員会

「横切った流星」  松木明知 SCOPE 

「新大和考」    塩塚保記 大和タイムス


※ その他、作品を書くにあたり、榎本医院、天誅(忠)組記念館藤井寺展より、ご協力をいただきました。御礼申し上げます。




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