其の十
黄がコマンドルームに入ってきた。
長身で精悍な顔つきのおとこ。
グレーのジャケットというビジネスマンふうのスタイルだけど、身体は見事に鍛え上げられているのが判った。
顔つきは軍人らしい武骨なものではあるけれど、意外と整ったいいおとこでもある。
この島国にいる草食系の若者には逆立ちしても持てないであろう、鋭く剥き出しの刃物みたいなぎらついた感じがあった。
ふむふむ。
こういうやつをびびらせるのは、面白そうとか思うけれどとりあえず今はにっこりと微笑みかける。
結構知的で思慮深そうな輝きを秘めた、黒曜石の瞳であたしに一瞥を投げるけれどすぐ光也に向き直った。
へぇ、あたしには興味無いってか。
光也は、天使の笑みを浮かべて黄に手を差し伸べる。
「ようこそ、黄大人。夜遅くにわざわざ来ていただき、おそれいります」
黄はその手を無視し、かってに椅子に座る。
傲慢まるだしなので、ある意味可愛いと思う。
若いということなのだろう。
まあ、若いっていえば、あたしたち高校生だし、黄からみれば子供なんだろうけどね。
光也のほうが、この情報局の軍人よりおとなびて見えるところが笑えてしまう。
「君たちを顧問として迎え入れることに、CIAの承諾を得ることができた」
「それは何より」
黄は鼻で笑ってみせる。
「裏返せば、おれたちに開示しても問題ない程度のものしか君たちは持っていないということじゃないのか」
黄は煙草を取り出すと、火を点ける。
ここが禁煙であることは理解した上での所作であるのは、容易に想像がつく。
判りやすい子供ぶりだ。
あたしは笑いを堪えるのが、つらくなってくる。
光也は、意に介さずにっこりと笑う。
「では僕たちとの契約は破棄されるつもりですか」
「判らん」
黄は憮然として言った。
「判断ができない。だからここへ来た。いっとくがおれは判らないものは嫌いだ」
つまりあたしたちが嫌いだということね。
あたしはもう、笑いを堪えることに全神経を向けることになってしまう。
光也は平然と笑みを崩さない。
だめでしょ、それ。
むしろ挑発しているじゃん。
「例えばだ」
黄はぎらつく瞳を光也に向けて、問いかける。
「君たちの魔法で、近代兵器で武装した一個大隊を殲滅することはできるのか?」
「もちろん」
光也は、少し楽しそうに笑いながら応える。
「できますよ。ただ、代償が必要です」
「代償?」
「昔ながらの言い方をすれば、生贄。魔法的存在を駆動するために必要なのは生命の燃焼ですからね」
「どれだけの代償が必要なんだ、一個大隊を相手にするなら」
「一個大隊ぶんの生命があれば十分です」
黄は、苦笑した。
「つまり、同じ犠牲を自分の側にも出すことが必要なんだな。馬鹿馬鹿しい。そんな魔法意味がないだろう」
黄は、煙を光也に向かって吐き出す。
「現代的にはそういう考えもありますね。元々魔法というのは、モースの贈与論の世界で成立していたものですから」
「ポトラッチか」
「経済成長を至上とするなら、むしろ軍事力はたんなるリスクヘッジとなる。核兵器が現実には使用されないように、魔法も単なる抑止力としての効果しかありません。現実に使用すれば使う側、使われる側双方に供儀が必要になる。それは近代経済原理では無意味かもしれない。でもカール・ポランニーが研究対象としたような祝祭が正常に機能していた時代にはちゃんと意味があった」
「ふん」
黄は肩を竦める。
「ポランニー? そんなものに興味は無い」
「あなただって、ドラッカーやサミュエルソンばかり読むわけじゃあないでしょう。たまにはサーリンズもいかがです?」
黄は口を歪める。
「サーリンズ? おれはクルーグマンのファンだぜ」
ぷっ、ぷふふっ。
あたしはとうとう、笑ってしまった。
黄は不思議なものを見るように、あたしを見る。
光也は責めるような眼差しを、あたしに投げてきた。
あたしは、舌を出す。
ごめんちゃい。
黄は立ち上がった。
煙草を投げ捨て、足で踏みにじる。
「じゃましたな」
「見ていかないのですか?」
「何をだよ」
「魔法です」
黄は、呆れ顔になる。
「誰が死ぬんだ、お前か?」
「ええ。僕の寿命を10年ぶんほど使いましょうか」
光也は、あたしを見る。
「ワラキア公に来てもらおう」
「おーけい、ちょい待ち」
あたしはシートに身を沈める。
もう一度、シモン・マグスに接続した。
頭の中に、電飾が灯ったように思考が活性化される。
「あの娘は?」
「花苑院家の末裔です。あなたも第二次対戦中、ナチスにアルフレート・ローゼンベルクという魔道師がいたのはご存知でしょう」
「まあな」
「ナチスは魔道の軍事利用を考え現実に実行した。その際に、日本の陰陽師と技術交換を行うため日本から魔道師を受け入れたんです。それが花苑院月子。彼女の曾祖母ですよ」
あたしの回りが極彩色の世界になる。
無数の緋色に輝くルーン文字が駆け巡っていった。
魔法は、あたしがエレオーレスを召喚したときとは比べ物にならないほどのレベルで励起されてゆく。
あたしにだけ見える、緋色に輝くルーン文字たちは空間を歪めこの世の理を切り裂いていった。
現実が粉砕され、七色に輝きながら崩れてゆく。
あたしは、無意識のうちに笑みをこぼす。
轟音と炸裂する色彩は、この部屋を満たしてゆく。
それは世界の終わりの日に、この世が死に絶える悲鳴を見るようだ。
その全てを見ることができるのは、あたししかいないのは勿体ないけれど、あたしはその世界の壊れた深淵から闇を引きずりだそうとしていた。
エレオーレスとは比べ物にはならないほど、邪悪で凶悪でさらに大きな力を持つもの。
「彼女、花苑院理図は三才にして古の大魔道師、シモン・マグスを召喚した。その代償として彼女の父親は天に召されましたけれどね」
「シモン・マグス? 聖書にでてくる魔法使いのことか?」
「ええ。正史では使徒ペテロに破れたことになっていますが」
「違うのか?」
光也は微笑んだだけで、応えない。
「その時、彼女は身体に大量のルーンを刻み込まれた。その大半はここのシステム内にインプットされていますが。彼女は現代に存在する最高の魔法使いのひとりです」
光也と黄の中間に、闇が出現した。
立ち上がった夜のように、闇はひっそりと佇む。
次第にその闇は濃さを増し、物理的存在となってゆく。
あたしは、叫ぶ。
「今世の理を超え血の生贄により現世を打ち砕きしもの、ドラクルの息子よ。古の約定に従い、我との血の契約を果たす時が来たり。我が前に出よ」
その轟音と、狂った光の乱舞は一瞬あたしの脳内から現実に漏れ出た。
幾千もの緋色のルーンが渦巻きのように、立ち上がった影の回りを駆け抜ける。
そして影が裂け、ひとりのおとこが歩み出た。
黄はうめき声をあげる。
「幻覚なのか?」
「そうとっても、かまいませんよ」
おとこは、灰色のマントを身につけている。
その下からオフシルバーの鈍い輝きを見せる、プレートメイルがのぞいていた。
痩せて濃い髭に被われたその顔は、詩人のような繊細さを持っていたが、その瞳が持つ暗黒の太陽のごとき凶悪な力は見るもののこころを打ち砕く。
がちゃりと音を立てて、長身のおとこは一歩踏み出す。
その身に纏うのは、歴史世界という血塗られた空間が持つ暗黒の瘴気であった。
触れただけで、ひとを狂死させかねないような邪悪で凶暴な破壊の予兆を身にまとい、おとこはあたしたちを見る。
その闇をさらに深める真夜中の太陽のような瞳は、まず黄を貫き、光也を見て、最後にあたしを突き刺す。
「おまえか、おれを呼び出したのは。血塗られた戦場からこの地の底のような世界に呼び出したのは、おまえのような小娘だというのか」
「そうよ、ワラキア公。あたしにあなたの名を捧げなさい」
ふっ、とワラキア公は笑みを漏らす。
「処女がおれの主となるか。それもまた重畳。我はワラキア公ヴラド・ドラクラだ」
黄は打ちのめされたように、嗄れた声を出す。
「あんたは、ワラキアのカズィクル・ベイだというのか」
ドラクラと名乗ったおとこは、口を歪める。
「串刺し公か。その通り名もあるようだ」
ドラクラは、楽しげに笑う。
「で、貴様等はおれに何を捧げる?」
光也は、涼しげな笑みを浮かべたままドラクラに言った。
「僕の生命を。10年ほど」
「ふむ、小僧。それでは何が望みだ」
「そこにいるおとこに、あなたの剣で名を刻んでください」
「おい」
黄が少し焦った声を出す。
「死なせないように気をつけて」
「ふん」
ドラクラは、剣を抜く。
S字を長く伸ばしたように湾曲した長剣、ヤタガンソードである。
黄は、無意識に後退し距離を開けようとしたが、ドラクラの動きはひとのものではない。
一瞬消え去り、黄の目の前に姿を表す。
あまりの高速移動に空気が裂かれ、ごうと音を立てた。
黄が恐怖の色を見せなかったのは、さすがと言ってあげるべきなんでしょうけれど。
ヤタガンソードが振るわれた時に少し悲鳴をあげてしまった。
ふふっ、可愛いよ。
もっと鳴かしてあげたくなる声。
シャツをつけた胸に、緋色の血文字が刻まれる。
Drăculea
恐怖とともに幾度も囁かれ続けたその名は、名を持つものに相応しい血で刻まれた。
黄は、かろうじて平静さを装って言葉を絞り出す。
「こんなことは、暗示でも可能だろう」
「ええもちろん」
その死の気配が濃厚に満ちた場所とそぐわない、光也の涼やかな声が語る。
「暗示でもひとを傷つけられるし、ひとを殺せる。どう呼ぶなんて興味ないでしょう、あなただって。肝心なのは殺せることだ。そうでしょう? 黄大人」