其の一
空は闇色に塗り潰されている。
その下に広がる森は、本来であれば熱帯らしく濃厚な生命に満ち溢れた場所なのであろう。
しかし、今その濃い闇が支配する森の中は死が満ち溢れていた。
その闇の中をゆっくりと影が動いてゆく。
ほとんど闇と同化しているようで、気配をはなつこともなく音をたてることもない。
獲物に忍び寄る黒豹の動きで、死臭に満ちたその森を渡ってゆく。
まだ少年といってもいいくらいの体格だ。
闇と同化するような、漆黒のコンバットスーツとジャングルブーツを身につけている。
少年は動きを止めた。
兵士たちが近づいてくる。
手に自動小銃を持ち、ハンドライトであたりを照らしながら歩いていた。
少年は、腰から刀を抜く。
無骨な形をした短い日本刀であった。
刀身は分厚く、頑丈そうである。
少年はそれが鎧通しと呼ばれる短刀だと知っていた。
刀身は闇で光らぬよう、煤が塗られている。
見つかるとは思っていないが、兵士たちが三メートル以内にくれば、気配を感じ取られるかもしれない。
その時は、見つかっていなかろうが先手を打って斬れと師に教わっていた。
まあ、そういうものなのだろうと思う。
相手は四人。
話をしながら、リアカーに載せて運んできた死体を無造作に穴へほうりこんでゆく。
死の重みが増して、闇がさらに息苦しい濃さを増す。
幾つも造られた森の中の穴には、死体が折り重なっている。
そこから暗黒の障気が漆黒の夜空に噴き上がってゆくのが見えるようだ。
決して声にならぬ無数の絶望、無数の嘆き、無数の恐怖が目に見えぬ柱となり、天に昇ってゆく。
死体を片付けた兵士たちは、散歩でもするように歩いてくる。
少年のほうへ、近づいてきた。
闇に潜んだ少年は覚悟を決める。
少年は鎧通しの柄の端を開く。
中には、チタン合金製のワイヤーが仕込まれている。
ワイヤーの先には、小さな釣針のような刃がつけられていた。
兵士たちが三メートルのところまで来たときに、少年は素早く後ろへと回る。
ワイヤーを放ち、鍵爪のような刃を先頭の男の首筋に引っ掛けた。
そのままワイヤーを伸ばし首に巻き付ける。
黒く塗られて蜘蛛の糸のように細いが、大人の体重くらいは楽に支えられる強度を持つワイヤーは夜の闇に溶け込んでおり、肉眼ではとても見れない。
先頭の男は唐突に立ち止まる。
「おい」
後ろの男が不審に思い声をかけた瞬間には、少年は行動を起こしていた。
鎧通しで一番後ろの男の延髄をえぐる。
はっとこちらを見る隣の男の口を押さえ、頸動脈ごと首を斬った。
がくんと首が横に倒れ、闇の中に紅い鉄の色をした血がほとばしる。
「なんだ」
前の男が振り向いてハンドライトの光を浴びせようとしたとき、少年は鎧通しでその喉を貫いていた。
闇を紅く裂いてほとばしる血をバックスッテプでかわしながら、ワイヤーを引く。
ごとりと、男の首が地面に落ちた。
ワイヤーはその気になれば、ひとの血肉を切り裂けるワイヤーソウがつけられている。
少年はワイヤーを手元に戻した。
その時、いきなりハンドライトの光を浴びせられる。
いつの間にか、もう四人が五メートルほど向こうに立っていた。
自動小銃がこちらに向けられている。
「貴様」
男の声を聞いたとき、少年は死を覚悟した。
先頭の男に向かって飛び出す。
鎧通しを投げた。
短刀は男の眉間を貫く。
ワイヤーを引いてその短刀を手元に戻す。
ハンドライトの光は少年からそれて、少年はまた闇に溶け込む。
奇妙なことに残りの三人は銃を撃ってこない。
闇に紛れた少年を見失ったのだろうが、それでも普通は発砲する。
そうなればおわりだ。
兵士が大挙してやってきて、少年は狩りたてられて死ぬことになる。
少年は鎧通しを再び投げた。
短刀は一番後ろの男の首を貫く。
ワイヤーが宙を舞い、二人の男たちの首に巻き付いた。
二つの首が地面に落ちる。
少年はワイヤーを引いて鎧通しを手元に戻すと、後ろを振り向く。
そこには日本刀を提げた、白髪の男が立っていた。
野性の狼のように精悍だが、真冬の月のように冷えた気配を纏った男である。
その両の目は、暗く虚ろな闇だけを湛えていた。
盲目の男である。
しかし、間違いなくその男は少年を見ていた。
視覚以外の方法で。
「九十九師匠」
少年は、盲目の男に声をかけた。
師にして、養父でもある男。
九十九と呼ばれた男は、歪んだ笑みを見せる。
「運が良かったな、百。あと数分つくのが遅れたらいかにおれでもおまえを救えなかった」
「はい」
おそらく、九十九は心の一法を使い後ろの男たちを金縛りにして、銃が発砲されるのを防いだのだ。
心の一法。
刀身の光に気を乗せて、瞳を通じて頭の中へ気を叩き込む技である。
それを受けると、数分は意識を失うことになった。
「どうした百。気づかぬお前でもあるまい」
確かに、目の前にいる男たちに気を取られ他の男に気がつかないようでは、今まで生き延びられるはずもない。
百は、ぽつりと答えた。
「闇に酔っておりました」
九十九は声をたてて笑う。
「なるほど、お前にも判っていたかよ」
突然、百は目の前の闇が擬態するのを止めたように、実体化したのを感じた。
闇は生き物のように息づいている。
それは、ずっとそこにいたのだが、百には見えていなかった。
師の言葉を聞いた瞬間に闇はそれまで身を覆っていた被膜を脱ぎ捨てたように、姿を現したのだ。
「ここではひとが、殺されすぎた」
九十九は闇に語りかけるように、言葉を紡いでゆく。
「結果的に禁呪を行い、式神を招いたのと同じことになっている」
百は目の前の闇に恐れを抱いていた。
これは、数百万もの失われた命が産み落としたものであると、判ったからだ。
「九十九師匠、どうしたらいいですか」
百の声には怯えがあったが、九十九は気にも止めず笑みを浮かべたまま言った。
「そいつにおまえの血を飲ませろ、百。そうすれば、契約がなる」
百は、鎧通しで手首を裂く。
血を滴らせる手を、闇に差し出す。
闇は飢えた獣が獲物に飛びつくように、血を流す手を飲み込んだ。
そのまま、血を追い求めるように傷口の中へと入り込んでゆく。
気がついた時には、闇は百の傷口へ吸い込まれていた。
闇を吸い込んだ傷口は扉を閉ざすように塞がってゆく。
九十九は唸り声をあげた。
「何が起きたのでしょう」
百の戸惑った声に、九十九はあくまでも面白がっている口調で答えた。
「驚いたな。闇がおまえの血に溶けてしまったぞ」
百は息をのむ。
「……どうなるのでしょう」
「判らん」
九十九は少し投げやりに言った。
「京八流の外典にもこんなことは書かれてなかったな。とりあえず、封印の呪をかけといてやる。いつの日にか、これの意味が判る日がくるだろうよ」
九十九はそういうと、笑みを見せ歩き出した。
止まっていた時間が、再び動き出したようだ。
百は師の後を追い、闇の中へと消える。