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自転車を漕ぐ。太陽はどこまでもついてくる。逃れられない。汗で髪が湿っているため、私は自転車を止めた。古いアパートの陰に入り、籠に入れていた鞄から水筒を取り出す。カランと氷が音を出す。冷たい水が喉を潤す。アパートは土色の壁で築何年か想像もつかない。間取りは相当に狭そうである。鉄製の階段は錆びていて歩く度にきしんだ音を出すだろう。
もしも、と私は想像する。もしあの女がこのアパートに住んでいるシングルマザーだったら、私は彼女を許せるだろうか。旦那のDVで離婚し、二人の子どもを連れてこのアパートに住んでいる彼女を想像してみる。スーパーマーケットのパート勤務で客に怒鳴られる彼女が、忙しいのに子ども会の役員をやらされ、渋々、店にやって来たのだとしたら。私は彼女を許せるだろうか。許せるかもしれないし、許せないかもしれない。それでも、情状酌量の余地はあるだろうと思うと、口元が歪んだ気がした。
目の前の通りにある舗装された道路を見る。アスファルトの灰色。もう、今日は帰ろうかという気分になる。暑い中、私は何をやっているのだろう。「ばっかみたい」と声に出して呟いた瞬間、道路を挟んだ向かい側、グレーの新築の二階建ての家の扉が開いた。
あの女が、いる。息子らしき小学生の子どもを相手に微笑んでいる。「パパー」とあの電話の金切り声からは想像もつかない優しい声で家の中に声をかける。眼鏡をかけた人の良さそうな顔をした男が出てくる。三人は楽しげに笑いながら、家の駐車場の黒い大きな車に乗り込む。そして、そのまま車は何事もなく走り去っていく。笑顔の家族を乗せて。
ぜーぜーという荒い音がどこかから聞こえた。私の、喉からだった。膝に手をついた。喉からこみあげてくるものを吐き出そうとした。視界がぼやけた。汗が止まらない。喉にせりあがってきた何かを、やっとの思いで吐き出した。肝臓のような赤黒い大きな塊を吐き出したはずだった。しかし、私の目には湿った茶色に雑草の緑が映っているだけだった。うずくまって、膝を抱え込む。時間は流れていく。私は立ち上がれない。
どれだけの時間が過ぎただろう。太陽の位置がさほど変わらないところから、大した時間ではないはずである。私は脚の震えを押さえて立ち上がり、もう一度、握りしめていた水筒の水を飲む。口の端から零れてきたものをぐいと左腕で拭う。そして、自転車でその場から走り去った。