第十一章 眠れる力 その6
ガグリの長兄は混乱していた。なぜウルスが行ってしまうのか。なぜ誰もそれを止めないのか。なぜ弟はウルスが誰かを助けにいくことがわかったのか。なぜ自分だけが何もわからないのか!
思えばガグリの長兄にはわからないことだらけだった。いつもいつも自分だけが理解出来ないことばかり。だから外が、外の世界が怖かったのだ。ガグリの長兄にとって初めて見る物、初めて会う者、そのすべてが恐怖の対象だった。
すべてが怪物に見えた。
しかし湖の底の怪物はとても美しい船で、岩の怪物はウルスという優しき山の巨人だった。それに魔女という怪物の正体はルウという名の普通の女の子だったのだ。
知ってしまえば、触れてしまえば、何てことないことだった。
怪物とはなんだ? それは恐怖だ。知らないという恐怖。ガグリの長兄の混乱の正体は、その恐怖だった。しかし長兄は世界を知るすべを知ったのだ。知らないこと、わからないことは知ればいい、触れればいいのだ。だから長兄は走る。知るために走る。恐怖を振り払うために走る。ウルスが何をするのか、どこへ行くのか、それを見届けるために走るのだ。
* * *
トウリが再び目を覚ましたのは空の上だった。
「こ、ここは一体……」
「じっとしてないと危ないよ」
驚いてあたふたするトウリにアビコが一喝する。トウリは状況を把握しようと丸眼鏡をずり上げた。
(どうやらカラスの背に乗せられているようだ。しかしこんな大きなカラスは初めて見た。おお! それにアビコ殿はほうきで飛んでおられるぞ! これは魔法か。魔法の力なのか)
「あんまりジロジロ見るんじゃないよ」
アビコが不愉快そうにフンとため息をついた。トウリは、
「いや、申し訳ない」
と言いながら、ようやく安堵の表情を浮かべた。
「ありがとうございます。アビコ殿」
「フン、まったくだよ」
アビコは前を飛びながら振り返ること無く返事した。その後ろ姿をトウリはじっと見つめた。
「……なんだかじっと見られると飛びにくいね」
アビコは前を向きながら露骨に嫌な顔をした。
「いや、失礼。遠い昔のことを思いだしておりまして……」
トウリが目を逸らさずそんなことを言ったが、アビコは無言だった。しかしトウリは構わず話を続けた。
「……私は西の都の近くの貧しい農村で生まれました。あれは私がソビィほどの年頃の出来事です。西の都に王がやって来たことがありました。私は王を一目見ようと都へ行きました。そこで見た光景は今でも忘れられません。それはパレードでした。ええ、その当時まだ国王に即位したばかりの若き新王を歓迎する盛大なパレードです。田舎の少年にはまさに夢の一時でした」
トウリはアビコから目を逸らし天を仰いだ。
「そして私は見たのです。王に従う屈強な兵士の中で、可憐な一人の年若い魔女を。その魔女は美しい白銀に輝く髪を無造作に後ろで束ね、ただ一点の虚空を見つめ、馬車に揺られていました。私はただ見蕩れるだけでした。過ぎ去ってゆくその後ろ姿を。その美しい白銀の髪を」
そしてトウリはふうと息を吐いた。こんな機会がなければアビコと話すことも出来なかったであろう。ようやくその機会を得た。そしてずっと秘していた心の澱を吐露することができたのだ。
アビコは無言で飛んでいた。無造作に束ねた白髪を風に揺らしながら。
「いや、申し訳ない。老いぼれのくだらん昔話です。気になさらんでください」
トウリは照れくさそうに頭を掻いた。アビコに反応は無い。長く気まずい沈黙が流れる。
その沈黙を破るような突風が吹いた。トウリはカラスの上でバランスを崩し慌ててしがみつく。カラスが『クエ』と鳴いた。
アビコが静かに口を開いた。
「それだけ話せるならもう平気だね。少し飛ばすよ。なんだか妙な胸騒ぎがするんでね」
* * *
後ろでブッカの声が聞こえた。船を守るなんて言ってたけど、さっさと逃げろと言ってやりたい。しかしまったく余計な一言を……猫ってヤツはいつもこうだ。それにしてもルウってヤツは一体なんて速さだ。まったく追いつけない。まさかこれも魔法かと思ったが、なんてことはない、ただ僕が遅いだけなのかもしれない。これからは運動もしないとな。学問とは本の中だけにあらず。山へ入ってみてそれは身に染みて感じた。僕はまだまだだ。そんなことは魔女に言われなくてもわかっていたさ。もっと力をつけないと。とにかくさっさとルウと……出来ればガグリを連れて逃げないと。こんなところで焼け死んでたまるか!




