第一章 アシアト湖に住む魔女 その1
夜明けの国のはじっこにアシアト湖という大きな大きな湖があった。その北のほとりに小さな庵があった。その庵はツタで覆われていたが窓や扉は手入れが行きとどいていた。
その窓の中からルウはこの日も湖を見ていた。
「今日も雨は降らなさそうだわ、おばば様」
ルウは湖に目を向けたまま、後ろで糸紡ぎをするアビコに話かける。
「雨だって降りたくなれば勝手に降りなさるよ。まぁ、あんたが心配するような事じゃないわね」
とアビコは手元から目を逸らすことなく、年老いた魔女特有の皮肉な物言いでルウに答えた。
ルウはおでこぴったりにくっついていた窓から少し離れる。真っ暗な湖の光景は遠くなり代わりに見慣れた自分の姿が映る。前髪からのぞく、くりくりの瞳と目があった。鼻はアビコよりも一段と(ルウ自身はとても気にいっているが)低い。髪は肩ほどの長さで毛先に少し癖があり緩く波うっている。いつも着ているワンピースは外と同じ真っ黒。丸襟付きで胸元の三つの猫目ボタンはルウのお気に入りだ。
ルウはそのお気に入りの自分から目を逸らし、窓越しにアビコを見た。真っ白な長い髪を無造作に束ねた老婆は、いつもの不機嫌そうな顔で仕事を続けていた。そんなアビコに向かって、ルウはひとつ大きく息を吸ってから声をかけた。
「でもトウリ先生が言ってらしたわ、異常気象だって。湖の水位が下がってるんですって」
「ふん、学者なんてものはね、むずかしい言葉であたりまえの事しか言わないもんなのさ」
アビコはにべもなく答える。
ルウはおでこをこつんと窓にやり、真っ暗な外の世界に再び目を移しながら、
「でも湖の水が無くなったら水浴びも魚釣りも出来なくなっちゃうわ」
と小さくつぶやいた。
コンコン、ニャーオ、コンコン
扉が鳴った。ノックの間に「ニャーオ」なんて挟む客人は猫のブッカしかいない。そしてブッカなら主人の返事なんか待たずに勝手に入ってくる。案の定、バタンと扉が開き小さな白黒の縞猫が、猫のくせに背すじをしゃんとして入ってきた。
「やあやあごきげんよう、偉大なる魔女さまとその娘さま。今日もごきげんうるわしゅう」
猫というのは大げさな物言いをするものだが、まだほんの子猫のブッカも例外ではない。アビコはそんな猫の性質を好ましく思っていなかったが、ルウの遊び相手としてはその浅はかさが丁度いいとも思っていた。そんなブッカにルウは腕を組みながら少しいじわるげに言った。
「あら、ブッカさま今朝はずいぶんお寝坊じゃない。朝ご飯にも顔を出さないなんて、めずらしいわ。雨でも降るんじゃない?」
「雨が降ってくれるならいくらでも寝坊するさ。でも残念。今日も降りそうにないね。それに寝坊じゃない。朝のお散歩、湖を見て来たのさ。残念ながらまた水が減ってたよ」
「まあ、やっぱりトウリ先生の言う通りだわ。水位が下がってるのよ、おばば様」
ルウはアビコに向かって言ったが、アビコは今度は何も言わなかった。
「トウリなら湖にいたよ。ほら、あのボロ桟橋のところさ。どうせまた調査ってやつをやってるんだろうさ」
ブッカは戸棚から勝手にコップを出し、これまた勝手に野いちごのジュースを注ぎながら言った。
「何の調査かしら。ねえブッカ、私たちも行ってみない。ねえ、おばば様いいでしょ」
アビコはルウの方を見ずに、一拍置いてから、無言で「うん」と頷いた。アビコは魔女が学者を嫌うのは当然のことだと思っているが、それをまだほんの子供のルウにまで押し付ける気持ちはない。とはいえ心の底には行かせたくない気持ちもあり、とにかく魔女とはへんくつな生き物なのだ。ルウはといえばそんな老魔女の態度には慣れっこだ。ここはおかまいなしに出て行こうと決めた。
「さあブッカ行くわよ」
ルウは勢いよくそう言うとブッカを置いてさっさと外へ出た。
「ええ、さっき行ったばかりなのに。まったくしょうがないなぁ」
ブッカはぶつぶつ言いながらジュースを飲み干し、パンを一欠け持ってルウに続いた。