第八章 今夜は眠れない
「まったく今夜はねむれやしない」
さてこれはお茶会の日の夜のお話し。
森の木々も虫達も寝静まった真夜中に、たった一人だけ眠れずにいる猫がいた。アビコの庵の軒下に住むブッカである。
それもそのはず。ブッカは巨大カップに落っこちた時に、たらふくコーヒーを飲んでしまったのだ。
「う〜ん困ったぞ。まったく眠たくないぞ。まったくなんでぼくだけがこんな目にあわなくっちゃいけないんだ」
それはブッカがウルスのコーヒーを勝手に飲もうとしたあげくに、失敗してコーヒーの中に落っこちてしまい、余計に飲んじゃったうえに、酔っぱらってたっぷり寝てしまった、からなのだが……ブッカにはそれがわからないらしい。まったく困った猫なのだ。
「うーんたいくつだ。そうだ! どうせねむれないんだったら探検でもしようかな」
そうと決まればさすがのブッカ、ぴょんと飛び起き外にでた。外に出てみるとそこはまるで時間が止まったかのような、静かで真っ暗闇の世界だった。
(まったく夜がこんなにステキだったなんて! ぼくはまるで夜の貴公子になったみたいだぞ)
ブッカは子猫とはいえ猫なので、元来夜は好きなのだろう。今宵満月、静謐の闇夜にも目はすぐに慣れた。さて探検といってもいったい何をしようかしらん。ふと庵を見ると、そこはアビコの寝室の窓だった。
ブッカは思わず首を引っ込めたが、こんな時間にはさすがのアビコも起きている訳がない。気を取り直して窓に近づきそっと覗いてみた。するとカーテンの隙間からアビコの寝顔が見えた。どうやら熟睡しているようだ。
(そうだ! これはいい考えだぞ)
ブッカはひらめいた。
(アビコ魔女めはいつもぼくの扱いが軽すぎる。だからちょっとばかしこらしめてやろう。猫が魔女に何かするなんて、愉快痛快じゃあないか)
夜の貴公子となったブッカは気持ちも大きくなっていた。普段なら絶対にしないことをやってやろうというのだ。
ブッカは庵の正面に回り、玄関の戸をそっと開けた。思わずコンコン、ニャーオ、コンコンとやってしまいそうになったが、すんでのところで思いとどまった。
(ふう〜やれやれ、あぶないあぶない)
そして庵にそっと足を踏み入れる。庵の中はしんとしていた。普段見慣れた場所も真夜中だと何かが違って見える。
(不思議だな。夜も昼も真っ暗には違いないのに)
ブッカはルウの部屋の前に立ち、聞き耳を立ててみる。スースーと寝息が聞こえてきた。
(よしよしふたりとも寝てるぞ)
ブッカはこみ上げる笑いを押し殺して、今度はアビコの寝室の扉に手をかけた。音が出ないようにそっと扉を開ける。抜き足、差し足、猫の足でベッドまで近づき、そっとアビコの顔を覗き込む。アビコはぐっすり眠っていた。
(フフフ何も知らずに眠っているよ。さてどうしてくれようか)
ブッカはここまで来たはいいものの、何をどうしてこらしめてやるかまでは考えていなかった。とりあえず一旦部屋を出てジュースでも飲もうと台所へ向かった。山ぶどうのジュースを勝手に注いで飲みながら、さてどうしたもんかと考える。
ふと見ると棚の上のはちみつのビンが目についた。その時ブッカは突然ひらめいた。
(そうだ! あのはちみつを顔中に塗ったくるってのはどうだろう。そして窓を開けておくのさ。そして朝になれば虫たちが甘い匂いに誘われて、おはようのキスをしてくれるだろうさ)
ブッカはもう考えただけで笑いがこみ上げてくる。早くやってしまわないとこっちの腹がよじれそうだ。
さて棚の上のはちみつをどうやって取ろうか。ブッカの背丈では届かないので、椅子を持ってきたがまだ届かない。なにか踏み台になりそうな物はないかと探してみるとお鍋とボウルがあった。
(お、これはいいじゃないか)
ブッカは器用に椅子の上にお鍋とボウルを重ねた。
(どうだい、これでばっちり!)
ブッカは自画自賛しながらその上をよじ登った。そして棚の上にあるはちみつのビンに手をかけた。ビンはチビ猫ブッカの頭くらいの大きさだったので、ブッカにとっては少し大きい。そして重い。両手で落とさない様にしっかりと掴んだ。
(ふう、これでよし)
ブッカはほっとした。と同時にはちみつのなんとも甘い匂いがブッカの鼻先をくすぐる。
(ちょっと味見してみよう)
夜の貴公子ブッカ様には、もはや怖い物なんて何もない。つまみ食いだって誰に遠慮することがあろうか。
ブッカははちみつのビンのふたを回した。が、あれあれ中々開かないぞ。
(こりゃふたが固まってるぞ)
よしそれじゃあと少し力を入れて回してみたが全然だめだ。ブッカは一旦深呼吸をして思いっきり力を入れて回してみた。するとガガガと音がして、勢いよくふたが回った。
(あ、あぶない!)
ようやく開いたふただったが、今度は勢いよすぎてふたがブッカの手を離れ、宙に舞ってしまった。ブッカはそのふたを取ろうと手を伸ばす。ナイスキャッチ! おかげでふたは落ちなかった。が、ブッカは大きくバランスを崩した。椅子の上のお鍋もボウルもグラグラだ。
(おっとっと)
ブッカはなんとか体勢を整えようとしたが、なんてこった! グラグラが止まらない。
(やっやっや)
手をぐるぐる回して必死に体をくねらせるブッカには、すでに貴公子の面影はない。ただの猫だ。チビ猫だ。
あわれ、ただのチビ猫に戻ってしまったブッカには、因果応報、よからぬことを企てた天罰が待ち受けていた。
(も、もうだめだ〜)
ついに大きく後ろにのけ反ったブッカは、はちみつのビンも投げうって、そのまま頭から落ちてしまった。しかしさすがは腐っても猫? ブッカは落ちるさなか空中でくるり一回転して足から見事着地した。
が、そのすぐ後に、はちみつのビンが頭の上に落ちてきた。しかもブッカの頭にすっぽり入っちゃったのだ。
おお、これは念願の味見……どころじゃない! ブッカの口の中には急激に甘い液体が大量に入ってきた。甘い甘いも束の間、すぐに息が出来なくなってしまった。
(ぶぐぐ、ぐ、ぐるじいぃぃ)
真っ暗闇の中で、ブッカは完全にパニックだった。慌てて立ち上がったが、床にこぼれたはちみつに足を取られてすってんころりん、机の角に後頭部から倒れこむ。
がっしゃん!
ぶつかった途端、はちみつのビンが割れた。
(たすかった)
息が出来るようになったブッカだったが、はちみつが固まって目が開かなかった。やっとの思いで立ち上がり手探りでおろおろしていると、今度は割れたビンのかけらが足の裏につき刺さった。
「にゃっごーん!」
まさに断末魔の悲鳴をあげたブッカ。ケンケンしながら飛び回って柱に額をぶつけて「ぎにゃあー」、さらにケンケンでまたも机の角にすねをごちん「ぐにゃあー」、さらにさらに落ちたボウルに足を取られてかまどに頭から突っ込んだ。
「あっちちー!」
くすぶり火にあぶられたブッカはもはや全身灰だらけ。最後は飛び上がった勢いで壁にぶつかりそのまま伸びてしまった。
あまりの物音に、ルウとアビコは目を擦りながら部屋から出てきた。明かりをつけて見ると、まるで嵐の過ぎさったあとのようだった。
「何事だね」
アビコもルウも状況が掴めない。よく見ると、床にははちみつがべっとりで灰がまき散らされている。ビンのかけらも転がっていて、椅子もお鍋も転がっていた。そして、
「まあ、ブッカったら、こんなところで何してるの!」
ルウはブッカに近づき声を掛けたが、はちみつと灰をかぶったチビ猫は白目をむいて伸びていた。
「ちょっとブッカたら。いったいなにがあったの」
しかしブッカは答えない。
「まったくもう、この灰かぶり猫ったら! こんなに散らかしといてぐっすり寝ちゃって」
ルウはあきれ顔で後片付けをはじめた。
「もう! ブッカのせいで今夜は眠れないじゃない」




