犬耳
耳がよすぎるのも面倒なものだ。亜依は長らくそう思っていた。
救急車の音には誰よりも早く気づく。霊柩車も独特の音がするからすぐ分かる。どこに人がいるか見えなくても、話し声は聞こえる。
大きくなるにつれ、人に話すと変な顔をされることも増えたが、両親はそのつど、優しく教えてくれた。
「亜依はね、犬耳なの。他の人が聞こえないくらい低い音や高い音も聞こえるの。だから、まわりの人がびっくりするんだよ」
亜依は両親を信じた。子供としては当然だった。ほかの人が聞こえない音が聞こえる、と誇らしく思っていた。自分には特別な力があると。
四歳だった、あの夜まで。
「亜依、お母さんを起こして」
父の優しい声で、亜依は目を覚ました。
「おとうさん……?」
亜依は体を起こしてまわりを見た。豆電球の灯りでオレンジ色の部屋。隣では、妹の祐紀が寝ている。父は、いない。
「おとうさーん?」
両親は、隣の部屋で一緒に寝ているはずだ。なんで自分で起こさないんだろう。でも、わざわざ頼みに来たんだから、言うことを聞かなくちゃ。亜依は目をこすりながら立ち上がり、部屋の境のふすまを開けた。
両親は並んで寝ていた。
お父さんったら、寝たふりしてる。おどかすつもりかな。亜依は静かに母のそばへ行き、母の体を揺り動かした。
「おかあさん、おかあさん、おきて」
「……ん……亜依? どうしたの? おしっこ?」
「ううん、おとうさんがね、おかあさんをおこして、って」
目を開いた母が、いきなり跳ね上がるように体を起こした。あっという間に父の掛け布団をめくり、肩をつかんで揺らす。
「お父さん!? お父さん!! あきら!!!」
母は電気もつけずに廊下へ走り出ていった。電話をかけているようだ。名前や住所を教えている。誰か来るのかな。亜依は照明のひもを引っ張った。まぶしくて目がしょぼしょぼする。父はそれにも気づかず、ぐっすり眠っているようだった。
それからの亜依の記憶は、飛び飛びになっている。
家の中になんだかたくさんの人が入ってきたこと。
久しぶりに会う親戚のおじやおばたちが、みんな泣いていたこと。
母も祖父母も忙しく動き回っていて、亜依と祐紀は曾祖母と一緒にいたこと。
しばらくして、みんながいなくなって家が静かになったとき、父は、そこにいなかった。
「あいちゃんのパパ、しんだの?」
一週間ぶりに行った保育園で友達に聞かれ、亜依は戸惑った。どう返事したらいいのか分からない。とりあえず、という感じで小さくうなずく。
「うちのばあちゃんもしんだよ」
すると、聞きつけた子どもがわらわらと寄ってきた。
「おれのじいちゃんもしんだ!」
「みうのばあばもしんじゃった」
なんだかいろいろしゃべっているのを、亜依はぼんやりと聞いた。そうか、けっこう死んでる人いるのか。そうなのか……少しずつ「死」が胸に落ちてくる。
「あいちゃん、かわいそう!」
甲高い声が耳に刺さった。リーダー格の女児だ。
「みんな、やめなよ! あいちゃん、パパがしんだんだよ! かわいそうだよ!」
祖父が死んだという男児が、口をとがらせる。
「おれだって、じいちゃんしんだよ」
「パパとおじいちゃんはちがうでしょ!」
「おなじだよ! かぞくだもん!」
次第に、女児たちがリーダーに引っ張られていく。
「あいちゃん、かわいそう」
「パパがしぬなんてやだー」
「かわいそう!」
とうとう泣き出す子まで出てきた。
「あいちゃん、かわいそう……」
「かわいそうー!」
かわいそう、ってなんだろう?亜依はぼんやりと考えていた。
男児が先生を引っ張ってきた。女児たちはどんどん伝染してすすり泣いていた。先生が亜依の肩に手をかけて何か言っていた。何重にも重なる声の中心で、亜依はただただ立ち尽くしていた。
母は、以前にも増して忙しく動き回るようになった。
保育園のお迎えが遅くなり、祖父や祖母が来ることが増えた。近所の幼なじみの家に一緒に帰り、晩ごはんを食べたこともあった。亜依はお姉ちゃんらしく、祐紀の世話をしようとするようになった。
あわただしく季節が変わっていった。
その夜、祐紀がなかなか寝つけない様子だったのを覚えている。
「おねえちゃん……いま、だれかきた」
布団の中で祐紀が言う。
「えー? だれもいないよー?」
この子はときどき不思議なことを言うな。亜依が目を開けてまわりを見回した、その時。
「亜依、お母さんと祐紀をよろしくね」
「おとうさん!!」
亜依は跳ね起きた。あの日と同じ、オレンジ色の部屋を見回す。誰もいない、いや、見えない。
「おかあさん! おとうさんがいる!」
叫びながらふすまを開ける。母は仏壇の前に座っていた。こちらを向いた目が、大きく見開かれる。
「……照……!」
数秒の沈黙の後、母が声をあげて顔を覆った。それは、父がいなくなって以来、亜依が見た初めての母の涙だった。
数ヶ月後、亜依は五歳の誕生日を迎えた。次の土曜日に祖父母も一緒に外食することにしたので、この日は三人でささやかに夕食を終えた。
「亜依、ここにおいで。祐紀も聞きなさい」
母が仏壇の前に座って手招きをする。亜依は子供ながらに真剣な空気を感じて素直に座った。祐紀も隣に座る。
「五歳になったら、話すことに決めていたの」
亜依の耳は、犬耳ではないこと。
亜依は、ときどき死んだ人の声が聞こえていること。
そして、いつ誰の声が聞こえるのかは選べないこと。
母は淡々と説明してくれた。
さらに、母は「見える」、祐紀は「感じる」タイプであることも教えてくれた。
「ありがとうね、亜依」
思いがけない言葉に、亜依は少し驚いた。
「亜依が聞こえなかったら、お父さんが死んだのに気づかなかったし、お父さんが会いに来てくれたのにも気づかなかったよ……ありがとう」
目を赤くして、母は亜依に深々と頭を下げた。
……ああ、自分は役にたったんだ。
この耳をもっててよかったんだ。
「亜依、お母さんと祐紀をよろしくね」
お父さんに頼まれたんだ。
お父さんは死んじゃった……んだ……。
亜依は父が死んでから初めて、心の底から泣いた。