行動目標 生存 3
十月八日 午前六時二十分
「あなたは……だれ?」
一瞬、ナナの言っていることが分からなかった。
ナナの目を見るが、冗談を言っているようには見えない。ナナは、そんな俺を見てキョトンとしている。
まるで、初対面の人間と初めて会話をしているような……。
そして、俺は一つの結論に至った。
端的に言えば、記憶喪失。医学的には健忘と呼ばれる症状だ。
ナナは不思議そうに、固まってしまった俺を見つめてくる。
嘘だろ、なぁ。だれ、なんて聞かないでくれよ。おまえは誰よりも賢くて、強かったじゃないか。
「えっと、あなたのことは、なんて呼べばいいですか?」
だれ、という質問に対して答えない俺を見て、ナナは質問を変えた。
ショックだった。本当に、俺の知っているナナではないのだと、確信が持ててしまった。
俺はお前にとって「なに」だったんだろうな。友達、仲間。恋人ではなかったのだと思う。お互いに信頼できる相手だと信じ、命を預けてきた大切な存在。
しかし、俺はそんなナナを傷つけた。深く、取り返しのつかないほどに。
ナナは強いわけじゃない。必死に強くあろうとしていたんだ。中身は普通の女の子だったんだ。
俺が何も言えないでいると、少し困ったような表情をしたナナが再び口を開いた。
「じゃぁ……お兄さん」
やめてくれよ。俺とお前は同い年じゃないか。だが、ナナをこうしてしまったのは俺だ。俺が目を背けるわけにはいかないんだ。
「……ああ。どうした?」
「私、お腹がすきました」
「……そうだな」
「それから、この服、早く着替えたいです」
「そうだな。よし、着替えてメシにするか」
***
あの日から、ずっと着続けていた迷彩服。これまでの戦闘で返り血をあび、ところどころに赤いシミができていた。
普通の女の子であるナナにとって、決して気持ちの良いものではないだろう。
着替えには心当たりがあった。
中学や高校では、校長室や応接室のようなところに制服が飾ってあることが多い。
クリアリングが済んでいないので、警戒しつつ校舎を進むと、予想通り、校長室の古びたガラスケースの中に、マネキンに着せられた男女の制服があった。
「そういえばナナ、お前今何年生だっけ?」
普通に考えれば、大学一年だ。だが、俺のことをお兄さんと呼んだことから、単なる記憶喪失ではないのではないか、という考えがよぎった。普通、同い年の相手にお兄さんとは呼ばない。少なくとも俺は、同い年で初対面の女性をお姉さんと呼ぶことはない。
「私ですか? 三年生ですよ」
…………やはり、一年分の記憶を失っているようだ。ナナの中では、今は高校三年である、という認識らしい。
「そういえば、春なのに今日はかなり寒いですね」
「春?……なぁ、今日は何月何日だ?」
どうやら、日付の認識もズレているらしい。
「今日は……四月十二日ですよ」
「そうか……高校最後の一年、なんだな」
そう言うと、ナナは少し不思議そうな顔をして言った。
「中学生最後の一年、ですよ?」
…………どうやら、俺の認識は甘かったらしい。
ナナの中では、今日は二千十三年の四月十二日、ということになっているようだ。しかし、なぜこの日付なのだろう。なにか意味があるのではないか。
精神的ショックから引き起こされる健忘は、多くの場合自らの精神、こころを守るために、そのショックの直前までの記憶を失う。しかし、それならばこの世界が死にはじめたあの日を境になるか、あるいは自分に関するほとんどの記憶を失うのではないか。
しかし、ナナが失った記憶は約五年分と、中途半端だ。
五年前。二千十三年。中学最後の一年。春。
「あの、着替えるので外に出ておいてもらえますか?」
「ああ、悪い」
中途半端なんかじゃない。偶然でもない。ナナは、自分という存在を守るために、自身の傷を無かったことにしたのだ。
「終わりましたよ」
血のついた迷彩服ではなく、白を基調とし、紺色の襟がついたセーラー服をまとったナナが出てきた。
「じゃぁ、教室に戻ろうか」
「着替えないんですか?」
「え?」
「その……」
着替える気が無かった俺に対し、ナナが少し言い淀む。
自分の格好を見てみると、土と血にまみれていた。自分では分からないが、すくなからず悪臭を放っているのだろう。
ナナ一人を廊下で待たせるのは避けたかったが、今のナナが異性である俺の着替えに立ち会うとは考えにくく、見渡せる範囲に敵影が無いことを確認し、できるだけ早く着替える。
とりあえず下はスラックスに履き換えたが、男子制服は上が学ランになっていた。学ランの上からショットシェルが入ったベストを着用すると窮屈になることは目に見えていたので、カッターシャツの上からベスト、スラックスのベルトにヒップホルスターを下げる形にした。
はたしてこれが制服と呼べるのか。もし生徒指導の先生がいたらまず間違いなく指導対象だろうな。
***
教室へ戻り、レトルトパックの鶏飯と、いくつかの缶詰を開ける。
ここ数日、なにも食べていないナナは、黙々と食べ進めていく。
時折こちらに視線を向けるのが気になり、箸を置いた。
「……やっぱり、怖いか?」
ナナの視線の先にあるのは、俺の横に置かれた銃だった。
「いえ……必要なもの、ですから」
ナナは、俺が銃を持っていることも、日曜日なのに外に人の気配が感じられないことにも疑問には思っていないらしい。
とすると、世界の惨状を理解しているということになる。
つまり、記憶が完全に失われたわけではない、ということだろうか。
ナナは、銃を必要なものだと言った。
だとすれば、俺のするべきことは一つ。
ナナに、生きるための術を教えることだ。




