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もう引き返せない

作者: finalphase
掲載日:2026/10/30

聖女には、忘れてはいけないものが三つある。

神の名。

救った者の名。

そして、救えなかった者の名。

少なくとも、セレネはそう教えられてきた。

けれど、本当に忘れてはいけなかったものが何だったのか、もう分からない。

夜の王都は静かだった。

聖女宮の最上階から見下ろす街には、無数の明かりが灯っている。石造りの家々、商人たちの店。その向こうには、王城の尖塔が夜空を切り取るように立っていた。

セレネは窓辺に立っていた。

白い寝衣の上から肩掛けを羽織っている。暖炉には火が残っているのに、指先だけが冷たかった。

机の上に、一通の手紙がある。

封蝋も宛名もない。

ただ、便箋の表に――セレネへ、と書かれている。

見慣れた文字だった。

何年経っても忘れたことはない。

セレネは椅子を引いた。

座ってからも、しばらく手紙に触れなかった。

触れてしまえば、また昔を思い出す気がした。

それでも、やがて指を伸ばす。

紙は薄く、短い文章しかなかった。

――元気?

たった、それだけ。

セレネは目を閉じた。

すると、遠い昔の景色が浮かんだ。

夕焼けに染まった丘。

古い一本の木。

泥だらけの靴。

そして、一枚の銅貨。


***


セレネがサラと出会ったのは、まだ二人が十歳にもならない頃だった。

町の外れに、小さな市場があった。

市場と呼ぶには粗末で、週に二度ほど商人が荷車を止めるだけだった。

その朝、セレネは母親に頼まれて野菜を買いに来ていた。

けれど、預かったお金を落としてしまった。

ポケットを探しても見つからない。

「どうしよう……」

家に帰れば怒られる。

しゃがみ込んだとき、泥の中に何かが光った。

銅貨だった。

セレネは拾い上げる。

泥を指で拭うと、古びた模様が現れた。

「これ……」

「落とし物?」

突然、後ろから声がした。

振り返る。

少し離れたところに、少女が立っていた。

黒い髪。

細い腕。

擦り切れた靴。

セレネと同じくらいの年齢に見えた。

「多分」

「誰の?」

「分からない」

「じゃあ、届けに行こう」

「どこに?」

「……分からない」

少女は銅貨をじっと見た。

「それ一枚で、何買えるかな」

「パンなら買えると思う」

「じゃあ買おうよ」

「え?」

「半分こしよう」

セレネは少女を見た。

「知らない人なのに?」

「今から友達になればいいじゃん」

あまりにもあっさりと言われたので、セレネは笑ってしまった。

「変なの」

「よく言われる」

少女も笑った。

それがサラだった。

二人は市場の隅にある小さなパン屋へ行った。

銅貨一枚で買えるパンは、一番小さなものだった。

それでも二人には十分だった。

「半分ずつね」

サラが言う。

「うん」

店の主人に頼んで切ってもらう。

ところが、切り分けられたパンはほんの少しだけ大きさが違った。

セレネは大きい方を見た。

サラも見た。

「……」

「……」

「セレネ、大きい方食べていいよ」

「サラこそ」

「私はいい」

「私もいい」

二人はしばらく譲り合った。

最後には、店の主人が呆れた顔で言った。

「二人とも食べればいいだろ」

それで二人は、笑いながらパンを食べた。

硬くて、少し酸っぱいパンだった。

けれど、その日食べたパンの味を、セレネは大人になっても忘れられなかった。


***


それから二人は、いつも一緒だった。

学校へ行くときも。

帰るときも。

雨の日には軒下で雨宿りをし、雪の日には雪玉の大きさを競った。

二人とも負けず嫌いで、よく喧嘩をした。

「絶対、今ずるした!」

「してない!」

「した!」

「証拠は?」

「……ない!」

「じゃあ私の勝ち」

「ずるい!」

そう言ってセレネが怒ると、サラはいつも笑った。

そして、最後には何となく仲直りする。

二人の間には、いつからか決まりができていた。

何かをもらったら半分こ。

お菓子も半分。

果物も半分。

嬉しいことも半分。

悲しいことも半分。

秘密も半分。

「じゃあ、嘘も半分?」

サラがそう言って、少し考えるように首を傾げた。

「嘘は半分にできないよ」

「じゃあ、嘘はつかない」

「それがいい」

二人は小指を絡めた。

「約束」

「約束」

その約束が、後になってセレネの胸を何度も刺すことになる。

その頃の二人は、そんなことを知るはずもなかった。


***


町外れの丘には、古い木が一本あった。

二人はそこが好きだった。

町が一望でき、晴れた日には遠くの山まで見えた。

ある夕方、二人は木の根元に座っていた。

「大人になったら、何する?」

サラが聞いた。

「お金持ちになる」

セレネは即答した。

「どうして?」

「寒いの嫌だから」

「それだけ?」

「ご飯もいっぱい食べたい」

「食いしん坊」

「サラは?」

「町を出たい」

「どこへ?」

「王都」

「じゃあ、一緒に行こうよ」

「本当に?」

「うん」

「セレネはお金持ちになって、私は王都に行く」

「同じことじゃん」

「そうかも」

二人は笑った。

しばらくして、サラが言った。

「でも、王都に行ったら、セレネは私のこと忘れそう」

「忘れないよ」

「本当に?」

「本当」

「友達?」

「ずっと」

「大人になっても?」

「大人になっても」

「何があっても?」

セレネは少しだけ考えた。

「何があっても」

夕日が山の向こうへ沈みかけていた。

二人の影が長く伸びていく。

そのときのセレネは、本気でそう思っていた。

何があっても。

ずっと友達でいられる。

その言葉を疑う理由なんて、一つもなかった。


***


十六歳の春。

セレネは聖女に選ばれた。

町中が騒いだ。

教会の使者がやって来て、両親は何度も頭を下げた。

近所の人々も、口々に祝福した。

セレネは、何が起きているのか分からなかった。

「よかったじゃん」

丘の上で、サラは笑った。

「……寂しくない?」

セレネが聞くと、サラは少しだけ空を見た。

「寂しいよ」

「じゃあ……」

「でも、セレネが行きたいって言ってた場所でしょ」

「王都に行くなんて、まだ決めてなかった」

「でも、行きたいって言った」

「……うん」

「なら、行けばいいよ」

サラは笑った。

「私、待ってるから」

出発の日。

馬車が町を出る直前まで、サラは見送ってくれた。

「手紙書く!」

セレネが叫ぶ。

「毎週ね!」

「分かった!」

「絶対だよ!」

「セレネ!」

「なに?」

「何でも半分こだから!」

セレネは笑った。

「忘れないよ!」

馬車が動き出す。

サラの姿が遠ざかっていく。

セレネは最後まで手を振った。

あのときのセレネは、本当に何も知らなかった。

人が変わることも。

生活が変わることも。

約束を守れなくなる日が来ることも。


***


王都は、道も建物も人の数も、何もかもが大きかった。

聖女宮には、専属の侍女がいた。

食事も服も髪も、何もかも誰かが整えてくれた。

冬でも暖炉は消えない。

最初の頃、セレネは落ち着かなかった。

自分で何かをしようとすると、侍女に止められる。

「聖女様、そのようなことは私どもが」

「でも……」

「お任せください」

何もしなくても生活が回っていく。

それが不思議で、心地よくなった。

最初の手紙は、サラもセレネも長かった。

セレネは王都で見たものを、サラは町の出来事を全部書いた。

近所の犬が子犬を産んだ。

パン屋のおばさんが転んだ。

丘の木に鳥が巣を作った。

どうでもいい話ばかりだったが、それが嬉しかった。

聖女として扱われる毎日の中で、サラだけはセレネを昔と同じように扱った。

『今日は何食べた?』

『ちゃんと寝てる?』

『王都の人って怖くない?』

『今度帰ってきたら、丘に行こう』

そんな手紙が届くたび、セレネは笑った。

けれど聖女としての仕事が増えるにつれ、返事を書く時間がなくなった。

返事は次第に、週に一度から二週間に一度、一か月に一度へと減っていった。

それでもサラは手紙を送り続けた。

ある夜、セレネは机に向かって便箋を広げた。

何を書こう。

そう考えたところで、何も思いつかなかった。

今日も祈り。

今日も儀式。

今日も誰かに頭を下げられた。

今日も笑った。

今日も「聖女様」と呼ばれた。

それだけだった。

セレネは短く書いた。

『元気です。忙しいけど、頑張っています』

それだけだった。

翌朝、返事を送った。

その夜、サラから手紙が届いた。

『そっか。無理しないでね』

短い。

以前なら、もっとたくさん書いてくれた。

セレネは少しだけ寂しくなった。

でも、そのときはまだ、それだけだった。


***


セレネが初めて大金を受け取ったのは、聖女になって二年目の冬だった。

教会の幹部が、大きな袋を机に置いた。

「今年の報酬です」

「こんなに?」

「聖女様の功績を考えれば、当然です」

袋の中には金貨が詰まっていた。

セレネは一枚取り出した。

重かった。

子どもの頃に拾った銅貨とは、まるで違う。

銅貨一枚でパンを買った。

今は、金貨一枚で何日分もの生活ができる。

セレネは笑った。

夢だった。

寒くない家。

お腹いっぱいの食事。

お金に困らない生活。

全部、手に入った。

その夜。

豪華な食事を前にして、セレネはふと思った。

サラは今、何を食べているだろう。

その考えが浮かんだことに、自分でも驚いた。

けれど、すぐに忘れた。

明日は朝から仕事がある。

寝なければならない。

そう思った。


***


サラが王都に来たのは、その翌年だった。

「セレネ」

庭で声をかけられた。

振り返る。

そこにサラがいた。

「……サラ?」

「久しぶり」

セレネは嬉しかった。

本当に嬉しかった。

なのに。

駆け寄ろうとした足が、途中で止まった。

近くに侍女がいる。

教会の人間もいる。

誰かに見られている。

そんなことが頭をよぎった。

サラは、その一瞬を見ていた。

「どうしたの?」

「……何でもない」

「そっか」

二人は庭を歩いた。

昔なら、もっと話せた。

今は、何を話せばいいのか分からない。

「王都、どう?」

「楽しいよ」

「幸せ?」

セレネは少し間を置いた。

「……うん」

「そっか」

サラはそれ以上聞かなかった。

帰り際、サラは振り返った。

「また手紙書く」

「うん」

「返事もしてね」

「……うん」

サラは笑った。

昔と同じ笑顔だった。

けれど、セレネにはそれが少し遠く見えた。


***


その頃から、サラは王国のことを話すようになった。

税金が上がった。

村が困っている。

怪我をしても治療を受けられない人がいる。

魔物に襲われた村への支援が遅れている。

セレネは手紙を読みながら、困った。

王都にいる自分には、知らないことばかりだった。

それでも、王国には王国の事情がある。

戦争にも、街道整備にも、魔物の討伐にも金がいる。

セレネは、そう説明した。

サラから返事が来た。

『事情があるのは分かるよ』

『でも、困ってる人がいるのも本当だよ』

セレネは返事を書けなかった。

次の手紙では、サラはさらに踏み込んだ。

『私、町の人たちと何かできないか考えてる』

セレネは不安になった。

何かできる。

その言葉が、王国にとってどういう意味になるのか。

セレネには分かっていた。


***


やがて、教会の人間からサラの名前が出るようになった。

「反王国的な思想を持つ人物がいるそうです」

セレネは何も言わなかった。

「ご存じですか?」

「……知りません」

嘘だった。

「その人物は、聖女様と幼い頃から親しかったという話もあります」

セレネの心臓が鳴った。

「誰から聞いたんですか」

「調査です」

「……」

「聖女様」

男は静かに言った。

「あなたは王国の象徴です」

その言葉は何度も繰り返された。

王国の象徴。

人々の希望。

聖女としての責任。

個人的な感情より、国を優先しなければならない。

それが正しいことだと、少しずつ刷り込まれていった。

そして、セレネ自身もそう思うようになった。

――そうしなければならない。

――自分には責任がある。

そう思えば、楽だった。

サラとの友情を裏切るのではない。

自分の責任を果たすだけなのだ。

そう言い聞かせることができたから。


***


ある晩。

サラが聖女宮を訪ねてきた。

いつもより顔色が悪かった。

「セレネ」

「どうしたの?」

「最近、町に王国の人が来てる」

セレネは黙った。

「私のことを調べてるみたい」

「……」

「セレネは何か知ってる?」

セレネの右手が、ゆっくり握られた。

その癖を、サラは知っていた。

「知らない」

「本当に?」

「うん」

「……そっか」

サラは笑った。

「じゃあ、いいや」

「サラ」

「何?」

「無茶しないで」

「うん」

「王国と揉めるようなことはやめて」

「……どうして?」

「危ないから」

「私の心配?」

「友達だから」

その言葉を聞いた瞬間、サラの表情が少しだけ柔らかくなった。

「そっか」

サラは笑った。

「じゃあ、まだ友達なんだね」

「……当たり前でしょ」

「ならよかった」

その夜。

サラが帰った後、セレネは泣いた。

何故泣いているのか、自分でも分からなかった。


***


数日後。

セレネは一枚の書類を前にしていた。

サラの活動についての報告書だった。

彼女が誰と会っているのか。

どこへ行っているのか。

何を話しているのか。

その中には、セレネしか知らない情報もあった。

「これを教えていただければ」

教会の幹部が言った。

「サラは殺されずに済む可能性があります」

「可能性?」

「彼女の活動を把握できれば、穏便に拘束できます」

「……」

「もちろん、聖女様が協力しなければ、話は変わります」

セレネは顔を上げた。

「どういう意味ですか」

「聖女様自身の立場も、保証できなくなるということです」

セレネは黙った。

自分が聖女でなくなれば、部屋も、食事も、報酬も、人々からの尊敬も消える。

怖かった。

セレネは書類を見つめた。

そこにある名前は、サラだった。

自分が一番大切にしていた名前。

子どもの頃、何でも半分こすると約束した相手。

その名前を、自分の手で渡す。

セレネは目を閉じた。

そして、指を動かした。

「……知っていることを話します」


***


サラが捕まった。

セレネは、その知らせを聞いたとき、何も感じなかった。

正確には、感じないようにしていた。

いつも通り朝食を食べた。

いつも通り祈った。

いつも通り聖女として仕事をした。

新聞には、小さな記事が載っていた。

反王国勢力を摘発。

複数名を拘束。

中心人物の一人を確保。

名前は書かれていなかった。

それでも分かった。

サラだ。

その夜、セレネは一人で机に座った。

右手を見る。

震えている。

あの日と同じだった。

「……ごめん」

誰もいない部屋で呟いた。

返事はなかった。

数日後、サラが逃げたという知らせが入った。

護送中に襲撃を受けたらしい。

誰が助けたのかは分からなかった。

ただ、サラは消えた。

そして、その後。

国境付近で魔物の群れが確認された。

村が襲われた。

王国軍が出動した。

また別の村が襲われた。

やがて噂が広がった。

黒い角を持つ少女がいる。

魔物を従えている。

人間を憎んでいる。

王国を滅ぼそうとしている。

セレネは噂を聞くたび、胸の奥が冷たくなった。

ある日。

王城から正式な発表が出た。

――魔王が現れた。

その名前は、サラだった。


***


サラは、最初から魔王になりたかったわけではない。

逃げた後、彼女は森の中で何日も彷徨った。

食べるものも眠る場所もなく、人間に見つかれば捕まる。仲間は散り散りになり、町へ戻ることもできない。

自分が何を間違えたのか、何度も考えた。

それでも、答えは出なかった。

ある雨の夜、サラは森の奥で、一匹の魔物を見つけた。

まだ幼い魔物だった。

足を怪我している。

サラを見ると、怯えて逃げようとした。

「待って」

サラは手を伸ばした。

魔物は唸った。

「怖くないよ」

自分でも、何を言っているのか分からなかった。

怖くないはずがない。

自分だって怖い。

それでも……

「私も怖いから」

サラはその場に座った。

「一緒だよ」

魔物は、少しずつ近づいてきた。

サラは怪我を治した。

それから、その魔物と一緒に森を歩いた。

数日後。

別の魔物が近づいてきた。

さらに一匹。

また一匹。

人間に追われた魔物たちが、少しずつ集まってきた。

サラは彼らを追い払わなかった。

「ここにいていいよ」

それは、昔の自分に言ってほしかった言葉だった。


***


小さな集落ができた。

魔物だけではない。

王国から逃げてきた人間もいた。

戦争で家を失った者。

税を払えず土地を追われた者。

王国軍に家族を殺された者。

行く場所をなくした者。

誰もが傷を抱えていた。

サラは、彼らをまとめた。

食料を分けた。

畑を作った。

家を建てた。

子どもたちの面倒を見た。

それでも王国は、そこを「魔物の巣」と呼んだ。

サラは使者を送った。

争うつもりはない。

ここで暮らすことを認めてほしい。

王国は拒否した。

再び使者を送った。

王国は軍を送った。

最初の戦いで、サラは人間を殺さなかった。

武器を奪い、追い返した。

けれど二度目は違った。

王国軍は集落を焼いた。

家が燃えた。

子どもが泣いた。

サラの仲間が死んだ。

サラは立ち尽くした。

そのとき。

自分の中で、何かが切れた。

「……もう、やめよう」

誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

次に王国軍が来たとき。

サラは戦った。

魔力が溢れた。

地面が震えた。

空はどんよりと暗くなった。

そして……

額から、黒い角が伸びた。

痛みはなかった。

けれど、その瞬間だけ、妙に静かだった。

戦いが終わった後、誰かが呟いた。

「魔王……」

サラは否定しなかった。

もう、自分が何者なのか分からなかった。

聖女だったセレネとも、昔の少女だった自分とも違う。

生き残り、必要としてくれる人たちを守るために。

彼女は魔王になった。


***


三年後。

王国と魔王領の戦争は、長く続いていた。

そして最後の決戦を前に、聖女セレネは魔王城へ向かうことになった。

国民は歓声を上げた。

聖女が魔王を討つ。

英雄譚になる。

誰も知らなかった。

魔王の正体を。

セレネだけが知っていた。

あの黒い角の下にいるのは、昔一緒にパンを半分こした少女だ。


***


魔王城は静かだった。

セレネは長い廊下を歩いた。

そして、玉座の前に立った。

サラがいた。

黒い角。

黒い髪。

昔より大人びた顔。

けれど、その目だけは変わっていなかった。

「久しぶり」

サラが言った。

「……うん」

「元気だった?」

「うん」

「そっか」

あまりにも普通の会話だった。

セレネは泣きそうになった。

「サラ」

「何?」

「ごめん」

サラは少しだけ笑った。

「何に対して?」

「……全部」

「全部って便利だね」

「……」

「何が悪かったの?」

セレネは答えられない。

「私が情報を渡したこと」

「あなたを裏切ったこと」

「怖くて、自分の人生を選んだこと」

サラは静かに頷いた。

「それなら、分かるよ」

「え?」

「私も自分の人生を選んだから」

セレネは顔を上げた。

「魔王になることを?」

「そう」

「どうして?」

「他に選べなかったから」

「……」

「でも、セレネも同じだったんじゃない?」

セレネは首を横に振った。

「違う」

「何が?」

「私は、選べた」

声が震える。

「あなたを選ぶこともできた」

サラは黙った。

「全部捨てればよかった」

「……」

「聖女じゃなくなっても、お金や王都を失ってもよかった」

涙が落ちる。

「それでも、私は怖かった」

「うん」

「だからあなたを売った」

サラはしばらく何も言わなかった。

やがて、小さく息を吐いた。

「それなら、仕方ないよ」

「……え?」

「仕方ない」

「許してくれるの?」

「許すとは言ってない」

セレネは黙った。

「私は、今でも悲しい」

「うん」

「今でも、あのときのことを思い出す」

「うん」

「でも、セレネを憎み続けるのも疲れた」

サラは玉座の前から離れた。

「だから、もういい」

「……サラ」

「ただ」

サラが振り返る。

「昔みたいには戻れないよ」

セレネは目を閉じた。

「……分かってる」

「本当に?」

「うん」

「じゃあ、どうして来たの?」

「会いたかった」

サラは少し驚いた。

「それだけ?」

「それだけ」

サラは笑った。

「変なの」

「昔からでしょ」

「そうだった」

二人は少しだけ笑った。

ほんの一瞬だけ、子どもの頃に戻ったような時間だった。

けれど、すぐに終わった。


***


セレネが帰る前。

サラは小さな袋を取り出した。

「これ」

「何?」

中には銅貨が一枚入っていた。

「……どうして」

「昔、セレネが拾ったの覚えてる?」

「うん」

「あのときのじゃないけどね」

サラは笑った。

「似たようなのを見つけたから」

セレネは銅貨を手に取った。

「半分こ?」

そう聞くと。

サラは少しだけ笑った。

「もう、できないよ」

「……そうだね」

「でも、持ってて」

セレネは頷いた。

「ありがとう」

「うん」

それが二人の別れだった。


***


王都へ戻ったセレネは、英雄として迎えられた。

戦争は終わった。

停戦が結ばれたのだ。

人々は聖女を称えた。

金貨も増えた。

名誉も増えた。

生活は何一つ悪くならなかった。

むしろ、昔より豊かになった。

だからこそ、セレネは苦しかった。

誰にも罰せられなかった。

誰も彼女を責めなかった。

誰も知らない。

魔王が、自分の一番大切だった友達だということを。

自分が、その友達を裏切ったことを。

夜になると、セレネは引き出しを開ける。

そこには銅貨がある。

サラからもらった銅貨。

手のひらに乗せる。

昔の銅貨とは違う。

価値も違う。

けれど、重さだけは同じだった。

セレネはそれを握りしめた。

右手だった。

また癖が出ていた。

嘘をつくとき。

怖いとき。

悲しいとき。

右手を握る。

昔、サラはそれを知っていた。

今でも、きっと知っている。


***


それから何年か経った。

ある朝。

セレネのもとに、一通の手紙が届いた。

封筒を見ただけで分かった。

サラからだった。

中を開く。

そこには、短い一文だけ。

――元気?

セレネは笑った。

泣きそうになりながら。

机に向かう。

便箋を一枚置く。

ペンを持つ。

何を書くべきか。

ずっと考えた。

謝りたい。

会いたい。

昔に戻りたい。

今でも大切に思っている。

いろいろな言葉が浮かんだ。

けれどセレネは、そのどれも書かなかった。

ただ、『元気だよ』とだけ書いた。

それで十分だった。

いや、それしか書けなかった。

手紙を封筒に入れる。

封をする。

窓の外を見る。

遠くの山々が、朝の光に照らされている。

その向こうに、サラがいる。

今も魔王として生きている。

きっと、もう昔の少女ではない。

自分もそうだ。

聖女になった。

多くの人を救った。

多くの人に愛された。

それでも、心の中には、あの日の丘が残っている。

古い木。

夕焼け。

硬いパン。

一枚の銅貨。

そして……

「何でも半分こだから」

あの約束。

セレネは目を閉じる。

大切なものを失ったのではない。

大切なものより、自分の人生を選んだ。

だから、これは誰かに奪われた悲劇ではない。

自分自身で選んだ結末なのだ。

もし、あの日に戻れたなら、サラと町を出ることも、聖女になることを断ることも、すべてを捨てて友達を選ぶこともできたかもしれない。

けれど、戻れない。

戻ったとしても、今のセレネが、同じ選択をしないという保証はない。

だからこそあのときの自分を、完全に憎むこともできなかった。

怖かった。

生きたかった。

幸せになりたかった。

その気持ちは、本物だった。

サラもきっと同じだった。

だから彼女は魔王になった。

自分の人生を生きるために。

その結果、同じ場所には立てなくなった。

セレネは机の引き出しを開ける。

銅貨をしまう。

その横には、古い手紙が何通も残っている。

子どもの頃のサラからの手紙。

王都に来たばかりの頃の手紙。

少しずつ短くなっていった手紙。

最後の一通。

どれも捨てられなかった。

捨てる理由もなかった。

セレネは引き出しを閉じる。

鍵をかける。

そして窓を開けた。

朝の風が部屋に入ってくる。

冷たい。

けれど、嫌ではなかった。

遠くで鳥が鳴いている。

昔、丘の木に巣を作っていた鳥を思い出した。

あの頃は、そんな小さなことだけで一日中笑えた。

今は違う。

たくさんのものを持っている。

けれど、あの頃のようには笑えない。

それでも、あの日々が偽物だったわけではない。

セレネがサラを大切にしていたことも。

サラがセレネを大切にしていたことも。

全部、本当だった。

だからこそ、終わらせたのが自分自身だったことが苦しい。

セレネは窓辺に立った。

朝日が差し込む。

目を細める。

そして、誰にも聞こえない声で呟いた。

「元気でね、サラ」

返事はない。

けれど、返事がないことを、もう責める気にはなれなかった。

それぞれの場所で生きていく。

それしかない。

それでも、いつかまた手紙が来たなら、今度はもう少し長く返事を書こう。

そんなことを、ほんの少しだけ思った。

セレネは窓を閉めた。

机の上には、聖女としての仕事が山のように積まれている。

今日もまた、人々はセレネを聖女と呼ぶ。

彼女はその役目を果たすだろう。

サラもまた、魔王として自分の国を守るのだろう。

二人とも、もう子どもではない。

もう、丘には戻れない。

もう、あの日のパンを半分こすることもできない。

それでも、あの丘で交わした約束だけは消えない。

約束を守れなかったからこそ、忘れたくなかった。

セレネはもう一度、引き出しの中の銅貨を思った。

一枚の銅貨から始まった友情。

金貨を手に入れることで終わった友情。

それは、あまりにも皮肉だった。

窓の外で、朝の鐘が鳴った。

セレネは振り返る。

聖女としての一日が始まる。

いつものように。

何もなかったように。

彼女の胸の奥には、あの日の少女がいる。

泥だらけの靴で。

古い丘の上で。

笑っている。

セレネは目を閉じた。

そして、ほんの少しだけ笑った。

――あの頃は、幸せだった。

それだけは、誰にも奪えない。

けれど、どれだけ願い、後悔しても、選んだ道は消えない。

だから。

もう、引き返せない。



最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。


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