もう引き返せない
聖女には、忘れてはいけないものが三つある。
神の名。
救った者の名。
そして、救えなかった者の名。
少なくとも、セレネはそう教えられてきた。
けれど、本当に忘れてはいけなかったものが何だったのか、もう分からない。
夜の王都は静かだった。
聖女宮の最上階から見下ろす街には、無数の明かりが灯っている。石造りの家々、商人たちの店。その向こうには、王城の尖塔が夜空を切り取るように立っていた。
セレネは窓辺に立っていた。
白い寝衣の上から肩掛けを羽織っている。暖炉には火が残っているのに、指先だけが冷たかった。
机の上に、一通の手紙がある。
封蝋も宛名もない。
ただ、便箋の表に――セレネへ、と書かれている。
見慣れた文字だった。
何年経っても忘れたことはない。
セレネは椅子を引いた。
座ってからも、しばらく手紙に触れなかった。
触れてしまえば、また昔を思い出す気がした。
それでも、やがて指を伸ばす。
紙は薄く、短い文章しかなかった。
――元気?
たった、それだけ。
セレネは目を閉じた。
すると、遠い昔の景色が浮かんだ。
夕焼けに染まった丘。
古い一本の木。
泥だらけの靴。
そして、一枚の銅貨。
***
セレネがサラと出会ったのは、まだ二人が十歳にもならない頃だった。
町の外れに、小さな市場があった。
市場と呼ぶには粗末で、週に二度ほど商人が荷車を止めるだけだった。
その朝、セレネは母親に頼まれて野菜を買いに来ていた。
けれど、預かったお金を落としてしまった。
ポケットを探しても見つからない。
「どうしよう……」
家に帰れば怒られる。
しゃがみ込んだとき、泥の中に何かが光った。
銅貨だった。
セレネは拾い上げる。
泥を指で拭うと、古びた模様が現れた。
「これ……」
「落とし物?」
突然、後ろから声がした。
振り返る。
少し離れたところに、少女が立っていた。
黒い髪。
細い腕。
擦り切れた靴。
セレネと同じくらいの年齢に見えた。
「多分」
「誰の?」
「分からない」
「じゃあ、届けに行こう」
「どこに?」
「……分からない」
少女は銅貨をじっと見た。
「それ一枚で、何買えるかな」
「パンなら買えると思う」
「じゃあ買おうよ」
「え?」
「半分こしよう」
セレネは少女を見た。
「知らない人なのに?」
「今から友達になればいいじゃん」
あまりにもあっさりと言われたので、セレネは笑ってしまった。
「変なの」
「よく言われる」
少女も笑った。
それがサラだった。
二人は市場の隅にある小さなパン屋へ行った。
銅貨一枚で買えるパンは、一番小さなものだった。
それでも二人には十分だった。
「半分ずつね」
サラが言う。
「うん」
店の主人に頼んで切ってもらう。
ところが、切り分けられたパンはほんの少しだけ大きさが違った。
セレネは大きい方を見た。
サラも見た。
「……」
「……」
「セレネ、大きい方食べていいよ」
「サラこそ」
「私はいい」
「私もいい」
二人はしばらく譲り合った。
最後には、店の主人が呆れた顔で言った。
「二人とも食べればいいだろ」
それで二人は、笑いながらパンを食べた。
硬くて、少し酸っぱいパンだった。
けれど、その日食べたパンの味を、セレネは大人になっても忘れられなかった。
***
それから二人は、いつも一緒だった。
学校へ行くときも。
帰るときも。
雨の日には軒下で雨宿りをし、雪の日には雪玉の大きさを競った。
二人とも負けず嫌いで、よく喧嘩をした。
「絶対、今ずるした!」
「してない!」
「した!」
「証拠は?」
「……ない!」
「じゃあ私の勝ち」
「ずるい!」
そう言ってセレネが怒ると、サラはいつも笑った。
そして、最後には何となく仲直りする。
二人の間には、いつからか決まりができていた。
何かをもらったら半分こ。
お菓子も半分。
果物も半分。
嬉しいことも半分。
悲しいことも半分。
秘密も半分。
「じゃあ、嘘も半分?」
サラがそう言って、少し考えるように首を傾げた。
「嘘は半分にできないよ」
「じゃあ、嘘はつかない」
「それがいい」
二人は小指を絡めた。
「約束」
「約束」
その約束が、後になってセレネの胸を何度も刺すことになる。
その頃の二人は、そんなことを知るはずもなかった。
***
町外れの丘には、古い木が一本あった。
二人はそこが好きだった。
町が一望でき、晴れた日には遠くの山まで見えた。
ある夕方、二人は木の根元に座っていた。
「大人になったら、何する?」
サラが聞いた。
「お金持ちになる」
セレネは即答した。
「どうして?」
「寒いの嫌だから」
「それだけ?」
「ご飯もいっぱい食べたい」
「食いしん坊」
「サラは?」
「町を出たい」
「どこへ?」
「王都」
「じゃあ、一緒に行こうよ」
「本当に?」
「うん」
「セレネはお金持ちになって、私は王都に行く」
「同じことじゃん」
「そうかも」
二人は笑った。
しばらくして、サラが言った。
「でも、王都に行ったら、セレネは私のこと忘れそう」
「忘れないよ」
「本当に?」
「本当」
「友達?」
「ずっと」
「大人になっても?」
「大人になっても」
「何があっても?」
セレネは少しだけ考えた。
「何があっても」
夕日が山の向こうへ沈みかけていた。
二人の影が長く伸びていく。
そのときのセレネは、本気でそう思っていた。
何があっても。
ずっと友達でいられる。
その言葉を疑う理由なんて、一つもなかった。
***
十六歳の春。
セレネは聖女に選ばれた。
町中が騒いだ。
教会の使者がやって来て、両親は何度も頭を下げた。
近所の人々も、口々に祝福した。
セレネは、何が起きているのか分からなかった。
「よかったじゃん」
丘の上で、サラは笑った。
「……寂しくない?」
セレネが聞くと、サラは少しだけ空を見た。
「寂しいよ」
「じゃあ……」
「でも、セレネが行きたいって言ってた場所でしょ」
「王都に行くなんて、まだ決めてなかった」
「でも、行きたいって言った」
「……うん」
「なら、行けばいいよ」
サラは笑った。
「私、待ってるから」
出発の日。
馬車が町を出る直前まで、サラは見送ってくれた。
「手紙書く!」
セレネが叫ぶ。
「毎週ね!」
「分かった!」
「絶対だよ!」
「セレネ!」
「なに?」
「何でも半分こだから!」
セレネは笑った。
「忘れないよ!」
馬車が動き出す。
サラの姿が遠ざかっていく。
セレネは最後まで手を振った。
あのときのセレネは、本当に何も知らなかった。
人が変わることも。
生活が変わることも。
約束を守れなくなる日が来ることも。
***
王都は、道も建物も人の数も、何もかもが大きかった。
聖女宮には、専属の侍女がいた。
食事も服も髪も、何もかも誰かが整えてくれた。
冬でも暖炉は消えない。
最初の頃、セレネは落ち着かなかった。
自分で何かをしようとすると、侍女に止められる。
「聖女様、そのようなことは私どもが」
「でも……」
「お任せください」
何もしなくても生活が回っていく。
それが不思議で、心地よくなった。
最初の手紙は、サラもセレネも長かった。
セレネは王都で見たものを、サラは町の出来事を全部書いた。
近所の犬が子犬を産んだ。
パン屋のおばさんが転んだ。
丘の木に鳥が巣を作った。
どうでもいい話ばかりだったが、それが嬉しかった。
聖女として扱われる毎日の中で、サラだけはセレネを昔と同じように扱った。
『今日は何食べた?』
『ちゃんと寝てる?』
『王都の人って怖くない?』
『今度帰ってきたら、丘に行こう』
そんな手紙が届くたび、セレネは笑った。
けれど聖女としての仕事が増えるにつれ、返事を書く時間がなくなった。
返事は次第に、週に一度から二週間に一度、一か月に一度へと減っていった。
それでもサラは手紙を送り続けた。
ある夜、セレネは机に向かって便箋を広げた。
何を書こう。
そう考えたところで、何も思いつかなかった。
今日も祈り。
今日も儀式。
今日も誰かに頭を下げられた。
今日も笑った。
今日も「聖女様」と呼ばれた。
それだけだった。
セレネは短く書いた。
『元気です。忙しいけど、頑張っています』
それだけだった。
翌朝、返事を送った。
その夜、サラから手紙が届いた。
『そっか。無理しないでね』
短い。
以前なら、もっとたくさん書いてくれた。
セレネは少しだけ寂しくなった。
でも、そのときはまだ、それだけだった。
***
セレネが初めて大金を受け取ったのは、聖女になって二年目の冬だった。
教会の幹部が、大きな袋を机に置いた。
「今年の報酬です」
「こんなに?」
「聖女様の功績を考えれば、当然です」
袋の中には金貨が詰まっていた。
セレネは一枚取り出した。
重かった。
子どもの頃に拾った銅貨とは、まるで違う。
銅貨一枚でパンを買った。
今は、金貨一枚で何日分もの生活ができる。
セレネは笑った。
夢だった。
寒くない家。
お腹いっぱいの食事。
お金に困らない生活。
全部、手に入った。
その夜。
豪華な食事を前にして、セレネはふと思った。
サラは今、何を食べているだろう。
その考えが浮かんだことに、自分でも驚いた。
けれど、すぐに忘れた。
明日は朝から仕事がある。
寝なければならない。
そう思った。
***
サラが王都に来たのは、その翌年だった。
「セレネ」
庭で声をかけられた。
振り返る。
そこにサラがいた。
「……サラ?」
「久しぶり」
セレネは嬉しかった。
本当に嬉しかった。
なのに。
駆け寄ろうとした足が、途中で止まった。
近くに侍女がいる。
教会の人間もいる。
誰かに見られている。
そんなことが頭をよぎった。
サラは、その一瞬を見ていた。
「どうしたの?」
「……何でもない」
「そっか」
二人は庭を歩いた。
昔なら、もっと話せた。
今は、何を話せばいいのか分からない。
「王都、どう?」
「楽しいよ」
「幸せ?」
セレネは少し間を置いた。
「……うん」
「そっか」
サラはそれ以上聞かなかった。
帰り際、サラは振り返った。
「また手紙書く」
「うん」
「返事もしてね」
「……うん」
サラは笑った。
昔と同じ笑顔だった。
けれど、セレネにはそれが少し遠く見えた。
***
その頃から、サラは王国のことを話すようになった。
税金が上がった。
村が困っている。
怪我をしても治療を受けられない人がいる。
魔物に襲われた村への支援が遅れている。
セレネは手紙を読みながら、困った。
王都にいる自分には、知らないことばかりだった。
それでも、王国には王国の事情がある。
戦争にも、街道整備にも、魔物の討伐にも金がいる。
セレネは、そう説明した。
サラから返事が来た。
『事情があるのは分かるよ』
『でも、困ってる人がいるのも本当だよ』
セレネは返事を書けなかった。
次の手紙では、サラはさらに踏み込んだ。
『私、町の人たちと何かできないか考えてる』
セレネは不安になった。
何かできる。
その言葉が、王国にとってどういう意味になるのか。
セレネには分かっていた。
***
やがて、教会の人間からサラの名前が出るようになった。
「反王国的な思想を持つ人物がいるそうです」
セレネは何も言わなかった。
「ご存じですか?」
「……知りません」
嘘だった。
「その人物は、聖女様と幼い頃から親しかったという話もあります」
セレネの心臓が鳴った。
「誰から聞いたんですか」
「調査です」
「……」
「聖女様」
男は静かに言った。
「あなたは王国の象徴です」
その言葉は何度も繰り返された。
王国の象徴。
人々の希望。
聖女としての責任。
個人的な感情より、国を優先しなければならない。
それが正しいことだと、少しずつ刷り込まれていった。
そして、セレネ自身もそう思うようになった。
――そうしなければならない。
――自分には責任がある。
そう思えば、楽だった。
サラとの友情を裏切るのではない。
自分の責任を果たすだけなのだ。
そう言い聞かせることができたから。
***
ある晩。
サラが聖女宮を訪ねてきた。
いつもより顔色が悪かった。
「セレネ」
「どうしたの?」
「最近、町に王国の人が来てる」
セレネは黙った。
「私のことを調べてるみたい」
「……」
「セレネは何か知ってる?」
セレネの右手が、ゆっくり握られた。
その癖を、サラは知っていた。
「知らない」
「本当に?」
「うん」
「……そっか」
サラは笑った。
「じゃあ、いいや」
「サラ」
「何?」
「無茶しないで」
「うん」
「王国と揉めるようなことはやめて」
「……どうして?」
「危ないから」
「私の心配?」
「友達だから」
その言葉を聞いた瞬間、サラの表情が少しだけ柔らかくなった。
「そっか」
サラは笑った。
「じゃあ、まだ友達なんだね」
「……当たり前でしょ」
「ならよかった」
その夜。
サラが帰った後、セレネは泣いた。
何故泣いているのか、自分でも分からなかった。
***
数日後。
セレネは一枚の書類を前にしていた。
サラの活動についての報告書だった。
彼女が誰と会っているのか。
どこへ行っているのか。
何を話しているのか。
その中には、セレネしか知らない情報もあった。
「これを教えていただければ」
教会の幹部が言った。
「サラは殺されずに済む可能性があります」
「可能性?」
「彼女の活動を把握できれば、穏便に拘束できます」
「……」
「もちろん、聖女様が協力しなければ、話は変わります」
セレネは顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「聖女様自身の立場も、保証できなくなるということです」
セレネは黙った。
自分が聖女でなくなれば、部屋も、食事も、報酬も、人々からの尊敬も消える。
怖かった。
セレネは書類を見つめた。
そこにある名前は、サラだった。
自分が一番大切にしていた名前。
子どもの頃、何でも半分こすると約束した相手。
その名前を、自分の手で渡す。
セレネは目を閉じた。
そして、指を動かした。
「……知っていることを話します」
***
サラが捕まった。
セレネは、その知らせを聞いたとき、何も感じなかった。
正確には、感じないようにしていた。
いつも通り朝食を食べた。
いつも通り祈った。
いつも通り聖女として仕事をした。
新聞には、小さな記事が載っていた。
反王国勢力を摘発。
複数名を拘束。
中心人物の一人を確保。
名前は書かれていなかった。
それでも分かった。
サラだ。
その夜、セレネは一人で机に座った。
右手を見る。
震えている。
あの日と同じだった。
「……ごめん」
誰もいない部屋で呟いた。
返事はなかった。
数日後、サラが逃げたという知らせが入った。
護送中に襲撃を受けたらしい。
誰が助けたのかは分からなかった。
ただ、サラは消えた。
そして、その後。
国境付近で魔物の群れが確認された。
村が襲われた。
王国軍が出動した。
また別の村が襲われた。
やがて噂が広がった。
黒い角を持つ少女がいる。
魔物を従えている。
人間を憎んでいる。
王国を滅ぼそうとしている。
セレネは噂を聞くたび、胸の奥が冷たくなった。
ある日。
王城から正式な発表が出た。
――魔王が現れた。
その名前は、サラだった。
***
サラは、最初から魔王になりたかったわけではない。
逃げた後、彼女は森の中で何日も彷徨った。
食べるものも眠る場所もなく、人間に見つかれば捕まる。仲間は散り散りになり、町へ戻ることもできない。
自分が何を間違えたのか、何度も考えた。
それでも、答えは出なかった。
ある雨の夜、サラは森の奥で、一匹の魔物を見つけた。
まだ幼い魔物だった。
足を怪我している。
サラを見ると、怯えて逃げようとした。
「待って」
サラは手を伸ばした。
魔物は唸った。
「怖くないよ」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
怖くないはずがない。
自分だって怖い。
それでも……
「私も怖いから」
サラはその場に座った。
「一緒だよ」
魔物は、少しずつ近づいてきた。
サラは怪我を治した。
それから、その魔物と一緒に森を歩いた。
数日後。
別の魔物が近づいてきた。
さらに一匹。
また一匹。
人間に追われた魔物たちが、少しずつ集まってきた。
サラは彼らを追い払わなかった。
「ここにいていいよ」
それは、昔の自分に言ってほしかった言葉だった。
***
小さな集落ができた。
魔物だけではない。
王国から逃げてきた人間もいた。
戦争で家を失った者。
税を払えず土地を追われた者。
王国軍に家族を殺された者。
行く場所をなくした者。
誰もが傷を抱えていた。
サラは、彼らをまとめた。
食料を分けた。
畑を作った。
家を建てた。
子どもたちの面倒を見た。
それでも王国は、そこを「魔物の巣」と呼んだ。
サラは使者を送った。
争うつもりはない。
ここで暮らすことを認めてほしい。
王国は拒否した。
再び使者を送った。
王国は軍を送った。
最初の戦いで、サラは人間を殺さなかった。
武器を奪い、追い返した。
けれど二度目は違った。
王国軍は集落を焼いた。
家が燃えた。
子どもが泣いた。
サラの仲間が死んだ。
サラは立ち尽くした。
そのとき。
自分の中で、何かが切れた。
「……もう、やめよう」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
次に王国軍が来たとき。
サラは戦った。
魔力が溢れた。
地面が震えた。
空はどんよりと暗くなった。
そして……
額から、黒い角が伸びた。
痛みはなかった。
けれど、その瞬間だけ、妙に静かだった。
戦いが終わった後、誰かが呟いた。
「魔王……」
サラは否定しなかった。
もう、自分が何者なのか分からなかった。
聖女だったセレネとも、昔の少女だった自分とも違う。
生き残り、必要としてくれる人たちを守るために。
彼女は魔王になった。
***
三年後。
王国と魔王領の戦争は、長く続いていた。
そして最後の決戦を前に、聖女セレネは魔王城へ向かうことになった。
国民は歓声を上げた。
聖女が魔王を討つ。
英雄譚になる。
誰も知らなかった。
魔王の正体を。
セレネだけが知っていた。
あの黒い角の下にいるのは、昔一緒にパンを半分こした少女だ。
***
魔王城は静かだった。
セレネは長い廊下を歩いた。
そして、玉座の前に立った。
サラがいた。
黒い角。
黒い髪。
昔より大人びた顔。
けれど、その目だけは変わっていなかった。
「久しぶり」
サラが言った。
「……うん」
「元気だった?」
「うん」
「そっか」
あまりにも普通の会話だった。
セレネは泣きそうになった。
「サラ」
「何?」
「ごめん」
サラは少しだけ笑った。
「何に対して?」
「……全部」
「全部って便利だね」
「……」
「何が悪かったの?」
セレネは答えられない。
「私が情報を渡したこと」
「あなたを裏切ったこと」
「怖くて、自分の人生を選んだこと」
サラは静かに頷いた。
「それなら、分かるよ」
「え?」
「私も自分の人生を選んだから」
セレネは顔を上げた。
「魔王になることを?」
「そう」
「どうして?」
「他に選べなかったから」
「……」
「でも、セレネも同じだったんじゃない?」
セレネは首を横に振った。
「違う」
「何が?」
「私は、選べた」
声が震える。
「あなたを選ぶこともできた」
サラは黙った。
「全部捨てればよかった」
「……」
「聖女じゃなくなっても、お金や王都を失ってもよかった」
涙が落ちる。
「それでも、私は怖かった」
「うん」
「だからあなたを売った」
サラはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐いた。
「それなら、仕方ないよ」
「……え?」
「仕方ない」
「許してくれるの?」
「許すとは言ってない」
セレネは黙った。
「私は、今でも悲しい」
「うん」
「今でも、あのときのことを思い出す」
「うん」
「でも、セレネを憎み続けるのも疲れた」
サラは玉座の前から離れた。
「だから、もういい」
「……サラ」
「ただ」
サラが振り返る。
「昔みたいには戻れないよ」
セレネは目を閉じた。
「……分かってる」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、どうして来たの?」
「会いたかった」
サラは少し驚いた。
「それだけ?」
「それだけ」
サラは笑った。
「変なの」
「昔からでしょ」
「そうだった」
二人は少しだけ笑った。
ほんの一瞬だけ、子どもの頃に戻ったような時間だった。
けれど、すぐに終わった。
***
セレネが帰る前。
サラは小さな袋を取り出した。
「これ」
「何?」
中には銅貨が一枚入っていた。
「……どうして」
「昔、セレネが拾ったの覚えてる?」
「うん」
「あのときのじゃないけどね」
サラは笑った。
「似たようなのを見つけたから」
セレネは銅貨を手に取った。
「半分こ?」
そう聞くと。
サラは少しだけ笑った。
「もう、できないよ」
「……そうだね」
「でも、持ってて」
セレネは頷いた。
「ありがとう」
「うん」
それが二人の別れだった。
***
王都へ戻ったセレネは、英雄として迎えられた。
戦争は終わった。
停戦が結ばれたのだ。
人々は聖女を称えた。
金貨も増えた。
名誉も増えた。
生活は何一つ悪くならなかった。
むしろ、昔より豊かになった。
だからこそ、セレネは苦しかった。
誰にも罰せられなかった。
誰も彼女を責めなかった。
誰も知らない。
魔王が、自分の一番大切だった友達だということを。
自分が、その友達を裏切ったことを。
夜になると、セレネは引き出しを開ける。
そこには銅貨がある。
サラからもらった銅貨。
手のひらに乗せる。
昔の銅貨とは違う。
価値も違う。
けれど、重さだけは同じだった。
セレネはそれを握りしめた。
右手だった。
また癖が出ていた。
嘘をつくとき。
怖いとき。
悲しいとき。
右手を握る。
昔、サラはそれを知っていた。
今でも、きっと知っている。
***
それから何年か経った。
ある朝。
セレネのもとに、一通の手紙が届いた。
封筒を見ただけで分かった。
サラからだった。
中を開く。
そこには、短い一文だけ。
――元気?
セレネは笑った。
泣きそうになりながら。
机に向かう。
便箋を一枚置く。
ペンを持つ。
何を書くべきか。
ずっと考えた。
謝りたい。
会いたい。
昔に戻りたい。
今でも大切に思っている。
いろいろな言葉が浮かんだ。
けれどセレネは、そのどれも書かなかった。
ただ、『元気だよ』とだけ書いた。
それで十分だった。
いや、それしか書けなかった。
手紙を封筒に入れる。
封をする。
窓の外を見る。
遠くの山々が、朝の光に照らされている。
その向こうに、サラがいる。
今も魔王として生きている。
きっと、もう昔の少女ではない。
自分もそうだ。
聖女になった。
多くの人を救った。
多くの人に愛された。
それでも、心の中には、あの日の丘が残っている。
古い木。
夕焼け。
硬いパン。
一枚の銅貨。
そして……
「何でも半分こだから」
あの約束。
セレネは目を閉じる。
大切なものを失ったのではない。
大切なものより、自分の人生を選んだ。
だから、これは誰かに奪われた悲劇ではない。
自分自身で選んだ結末なのだ。
もし、あの日に戻れたなら、サラと町を出ることも、聖女になることを断ることも、すべてを捨てて友達を選ぶこともできたかもしれない。
けれど、戻れない。
戻ったとしても、今のセレネが、同じ選択をしないという保証はない。
だからこそあのときの自分を、完全に憎むこともできなかった。
怖かった。
生きたかった。
幸せになりたかった。
その気持ちは、本物だった。
サラもきっと同じだった。
だから彼女は魔王になった。
自分の人生を生きるために。
その結果、同じ場所には立てなくなった。
セレネは机の引き出しを開ける。
銅貨をしまう。
その横には、古い手紙が何通も残っている。
子どもの頃のサラからの手紙。
王都に来たばかりの頃の手紙。
少しずつ短くなっていった手紙。
最後の一通。
どれも捨てられなかった。
捨てる理由もなかった。
セレネは引き出しを閉じる。
鍵をかける。
そして窓を開けた。
朝の風が部屋に入ってくる。
冷たい。
けれど、嫌ではなかった。
遠くで鳥が鳴いている。
昔、丘の木に巣を作っていた鳥を思い出した。
あの頃は、そんな小さなことだけで一日中笑えた。
今は違う。
たくさんのものを持っている。
けれど、あの頃のようには笑えない。
それでも、あの日々が偽物だったわけではない。
セレネがサラを大切にしていたことも。
サラがセレネを大切にしていたことも。
全部、本当だった。
だからこそ、終わらせたのが自分自身だったことが苦しい。
セレネは窓辺に立った。
朝日が差し込む。
目を細める。
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「元気でね、サラ」
返事はない。
けれど、返事がないことを、もう責める気にはなれなかった。
それぞれの場所で生きていく。
それしかない。
それでも、いつかまた手紙が来たなら、今度はもう少し長く返事を書こう。
そんなことを、ほんの少しだけ思った。
セレネは窓を閉めた。
机の上には、聖女としての仕事が山のように積まれている。
今日もまた、人々はセレネを聖女と呼ぶ。
彼女はその役目を果たすだろう。
サラもまた、魔王として自分の国を守るのだろう。
二人とも、もう子どもではない。
もう、丘には戻れない。
もう、あの日のパンを半分こすることもできない。
それでも、あの丘で交わした約束だけは消えない。
約束を守れなかったからこそ、忘れたくなかった。
セレネはもう一度、引き出しの中の銅貨を思った。
一枚の銅貨から始まった友情。
金貨を手に入れることで終わった友情。
それは、あまりにも皮肉だった。
窓の外で、朝の鐘が鳴った。
セレネは振り返る。
聖女としての一日が始まる。
いつものように。
何もなかったように。
彼女の胸の奥には、あの日の少女がいる。
泥だらけの靴で。
古い丘の上で。
笑っている。
セレネは目を閉じた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
――あの頃は、幸せだった。
それだけは、誰にも奪えない。
けれど、どれだけ願い、後悔しても、選んだ道は消えない。
だから。
もう、引き返せない。
最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。
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