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春の亡霊

作者: 月都七綺
掲載日:2026/03/05



『生まれ変わったら、また会おうね。ぜったい、約束だよ』



 私には、前世の記憶がある。



 深い愛を受けて、とつぜん離れ離れになってしまった人がいた。

 あなたと出会った瞬間。世界のすべてから音が消えて、この人だと思った。



 そんな運命というものが、この世には存在する。



*・゜゜・*:.。..。.:・*:.。. .。.:*・゜゜・**・゜゜・.・ .。.:*・゜゜



 生まれてから十八年。私は、恋というものをしたことがなかった。

 何かを好きという感情がわからなかったし、アイドルやアニメキャラに夢中になる友人への理解も疎かったのだと思う。



「好きです。付き合ってください!」


 私が蒼木夏芽(あおきなつめ)先輩に告白したのは、ちょうど一年前の春のこと。

 大学へ入学して、キャンパス内ですれ違ったとき。全身に電気が流れるような感覚に襲われて、気づいたら引き止めていた。


「えっと、ごめん。誰?」

「私、一年の梅野小春(うめのこはる)といいます。運命を感じたんです。お願いします!」


 高らかな声が廊下に響き渡ったことを、今でも鮮明に覚えている。

 当然のごとく、返事はノーだった。が、夏芽先輩は私にチャンスをくれた。よく知らない同士だから、まずはサークルに入ってみないかって。

 付き合い始めるのに、それほど時間はいらなかった。




「今日は、『君の名前を』を見ようと思うんだけど、いい?」

「サンセーイ!」

「何回見ても、いい映画はいいよね〜」


 私たち映画サークルは、放課後に映画を鑑賞するだけの活動をしている。

 部室の壁に取り付けられたスクリーンの前で、八人がパラパラと座った。私が一番後ろの席へ行くと、夏芽先輩がとなりへ来る。


 今日は近くなれた。そっと手を伸ばして、ひとつ空けた椅子の上で手を繋ぐ。あたたかい先輩の指と、いけないことをしている背徳感にドキドキした。

 誰にも見られてはいけない。この映画サークルは、恋愛禁止という掟があるのだ。



 一時間五十二分。さすがに、ずっと手を繋いでいたわけではないけど、離すタイミングがわからず。前の人がガタンと机の音を立てたとき、とっさに手を引っ込めた。

 みんなは画面に釘付けで、私たちの変化に誰も気づかない。

 バラバラに部室を出て、大学の外で落ち合う。それが、私たちの日課になっている。

 人の少ないカフェは穴場で、二人きりでも人の目を気にしなくていい。


「あの消えるシーンで流れる挿入歌、ヤバいよね」

「映像にあってるよな。何回見ても感動する」

「夏芽先輩、涙もろいもんね」

「小春に言われたくないなぁ。ああゆう運命系に弱いでしょ」


 ハハッと笑って、夏芽先輩がコーヒーを口にする。

 そうだよ。よくわかってるじゃん。その感情を押し込めて、チューとレモンティーをすする。ストローを離すと、ミルキーピンクのリップ痕が残っていた。


 出会ってから、ずっと確認したいことがあった。

 小さく息を整えて、こっちへ向けられている瞳をグッと見つめる。


「私が、前世がわかるっていったら、どうする?」


 わずかに大きくなった目が、一秒ごとに落ち着きを取り戻していく。


「あー、俺も昔やったことある。たしか、中学くらいのとき流行ったよね。なんだったかな」

「占いとかじゃなくて。真面目なやつ」


 ストローをいじりながら、わざと口先を先輩側へ向ける。

 もしも、覚えていないとしたら、どうしたらいいのだろう。


「私たち、前世で……出会ってるんだけど」


 ドクドクと鳴る心臓の音が、何百、何千もの時間に思えた。


「ああ……ごめん。俺、そうゆう記憶、まったくなくてさ」


 気まずそうに、夏芽先輩が視線を下げた。

 やってしまった。それと同時に、頭から岩石を投げつけられたような衝動に襲われる。


「ううん、いい。そんな能力、みんながあるわけないの、わかってるから」


 顔に出さないようにしたつもり。

 でも、目の奥から押し寄せる波には、逆らえなかった。


「……小春?」

「ごめんなさい。気にしないで」


 口だけで笑って、レモンティーを飲み干す。

 運命なんてものは、この世に存在しない。あらためて、現実を突きつけられた気がした。


 映画やSNSなんかで、たびたび運命の瞬間を目撃したことがある。

 夢の中で見た人と実際に出会ったとか、前世で結婚を約束した人と結ばれたとか。

 どれも奇跡的なことだと流し目で見ていたけど、心の奥では思っていた。いつか私も、もしかしたら……って。



『前世の記憶? それ、マジだったらすごいことだよ』


 中学生のとき、初めて友達に話した。それまで、誰にも言ったことはなかった。言う理由がなかった、が正しいのかもしれない。

 ぼんやりとしか顔は見えないけど、抱きしめてくれると優しい匂いがしていた。とても心地良くて、私は好きだった。


『生まれ変わったら、絶対また会おうって約束したんだ』

『それ、ほんとに現れたらエモいね。でも、顔も名前も違うだろうに、どうやって見つけるの?』

『うーん、直感?』

『うわぁ……、神頼みか』

『それを運命って言うんだよ』

『なるほど!』


 お互いに会えば、すぐにわかる。姿形は変わっていても、脳が、細胞が覚えている。

 それは、自分だけじゃないと、根拠のない自信があった。

 今思えば、とんでもない拗らせ女子だったなぁって。



 桜色のネイルをほどこした指で、ミルキーピンクのリップを唇になぞる。

 少し白っぽい発色は、一昔前に流行したようだけど、最近のトレンドカラーにもなっているらしい。


「その口紅、気に入ってるの? よくつけてるよね」


 いつものカフェで、夏芽先輩がふと聞いた。レモンティーを飲み終えた口を拭いて、ちょうどメイクを直していたところ。


「……うん。ずっと、前からだよ。似合ってない?」

「そんなことないよ。ただ、綺麗な色だなって思っただけ。桜みたいで」


 やっぱり、覚えていないんだ。

 オシャレに気を使うようになってから、ずっと愛用しているディオールのリップ。これは、私が前世お気に入りだった口紅の色に似ている。

 夏芽先輩……前世運命を約束した人から、もらった物と同じ色味なの。

 思い出してくれるかもって、何度かアピールしてみたけど、無意味だった。

 こんな難易度の高い記憶力ゲームを出すなんて、私はどうかしてる。勝手に期待して、勝手に落ち込まれても迷惑なだけだよね。


 お会計を済ませて、車の助手席へ乗り込んだ。いらないと言われたけど、そうはいかないとスマホの上に千円札を置く。

 夏芽先輩のことは好きだ。誰にでも優しくて、落ち着いているところとか。小春って、呼ぶ声もいい。

 なのに、少し不安に思うのは、前世のことがあるからだろう。


「じゃあ、また明日」

「明日は講義ないんじゃなかったの?」

「サークルには顔出すよ。小春に会いたいし」

「うん、待ってる」


 一人暮らしのアパートまで送ってもらい、別れた。振っていた手を下ろしながら、モヤモヤとした影が胸の奥から湧き出てくる。

 触れる手、抱きしめられる肌もすべて、約束したあの人のはずなのに、どこか虚しくなる自分がいる。

 一人だけ運命だと舞い上がって、ふとした拍子に孤独になる。


 こんな気持ちになるなら、前世の記憶など消して、夏芽先輩だけを見ていたい。




「天国ってさ、ほんとにあるのかな」


 映画を見終えたとき、サークル仲間の一人がそんなことを言い出した。ちょうど、死後の世界をテーマにした作品だったからだろう。

 部室を出て廊下を歩きながら、「死者の国はあるんだよ」とか、「俺はないと思うぜ。人間死んだら終わりだよ」なんて意見が飛び交う。


 後ろを行く私たちは、会話に参加しなかった。黙って聞いている夏芽先輩の横顔を、チラリと盗み見る。

 なにか言いたそうにしているけど、唇は固く結ばれていた。



「彼岸世界ってさ、俺たちのいる地球よりも、何倍もの速さで日常が進んでるんだよ」


 二人きりになって、ちょうど車へ乗り込んだところ、夏芽先輩がぽろりと言葉をこぼす。

 さっきの意見交換の続きをするかのように、突然言い出したのだ。ふと思い出して、なのかもしれない。


「なんか、まるで見てきたような言い方だね」


 ブルルとエンジンをかける音が、違うと否定しているようだ。


「そうじゃないけど、生まれ変わりってあると思ってて。えっと、前世を覚えてるわけじゃないけど、小春の言うことも信じてるんだ」


 上手く説明できないけど、と付け足しながら、私たちはゆっくりと加速していく。


「うん、ありがとう。バカにされるかなって、ちょっとは怖かったけど、夏芽先輩はそんな人じゃないってわかってるから」


 窓を開けたら、ひんやりした風が吹き込んできた。

 気持ちいいねーと、外の景色を見ながら考える。


 ーー彼岸世界。そのワードが、私には妙に引っかかった。

 その単語を使う人は他にもいるだろうし、特別おかしなことじゃない。


 だけど、たしかに私は【そこにいた】。


 前世、私が死んで夏芽先輩と別れてしまったあと、その彼岸世界と呼ばれる場所で過ごした時期がある。

 病や不慮の事故など、自分の意思ではなく旅立った人は、希望によって生まれ変わることができるのだ。

 私は、もう一度、人となって先輩と巡り会うために頑張っていた。詳しくは覚えていないけど、強い意思があったの。


 必ず、あなたを見つけ出すって。今度こそ、一緒に幸せになるんだって。




「……さくら」

 うとうとと、うたた寝をしかけていた。前日に出かけた日帰り旅行で、二人とも疲れていたのだろう。

 薄暗い部室がより眠気を誘ったのだけど、たった今、頬を引っ叩かれたかのようにパッチリと目が覚めた。


「すっごい眠い。俺、寝てたかも」


 まわりが映画に集中する中、小さくあくびをする夏芽先輩が、ぼそりとつぶやく。

 となりに座る私が、目を見開いて凝視していることに気づいたのは、その数秒あと。


「今、俺……変なこと言ってた?」


 心当たりがあるのか、気まずそうにしている。

 どんな夢を見ていたのか。問いただしてやろうかと思ったけど、一度冷静になって。


「さくらって」

「えっ、あ、違うから! それ、姉の名前で」


 浮気がバレて、慌てて言い訳をする人みたい。

 ひとつ離れた前の席から、ゴホンと咳払いが飛んでくる。いくら映像の音が大きいと言っても、さっきの声量ではさすがに聞こえたのだろう。

 再び静かになったところで、そっと体を寄せた。


「ふーん。夏芽先輩って、お姉さんいたんだ。初耳」


 わざとらしく煽ってみたけど、先輩は何も反論せず黙っていた。

 思い返してみれば、私は夏芽先輩のことをあまり知らない。


 自分について多くを語らない人だから、深く追求することもないし、趣味が映画鑑賞ということくらいしか情報はない。

 家族構成も、今日初めて知った。好きな色、好きな科目。食べ物だって、もしかしたら春巻きより好きなものがあるのかもしれない。

 運命を感じていたから、今まで細かいことは気にならなかった。

 この人しかいないと、心が揺るがなかったから。




「……先輩のお姉さんに、会ってみたい」


 そうお願いしたのは、あの名を聞いた数日後のこと。

 少し間を開けて、わかったと返事をくれたときは、正直戸惑った。断られると思っていたし、そもそも、本当に姉がいるのかと疑っていたから。


 高速道路を使って、一人暮らしのアパートから三十分ほどのところに、夏芽先輩の実家がある。

 助手席から降りて、外の空気を吸う。

 落ち着かないのは、先輩の家族に初めて会うからなのか。指先が震えて、止まらない。これほど緊張したことは、今までなかった気がする。


 黒い壁の一軒家で、木の玄関を過ぎると、手前にトイレとリビングへ繋がるドアがある。リビングには小さな和室がついていて、その奥に洋室があったはず。

 夏芽先輩の匂いだ。優しくて、花に包まれているようで。だから余計に、胸が苦しい。

 出されたアイスティーを口にして、私はため込んでいたものを吐き出す。


「やっぱり、お姉さんなんていないんだよね」


 玄関に靴がなかったし、家の生活感からして、若い女性が住んでいる様子は見えない。


「……それは」


 気まずそうに、先輩が視線を落とす。

 嘘をついてまで、私を実家へ連れてきた理由はなに?

 別れ話なら、いつものカフェかアパートでも済ませられる。


「小春に、ちゃんと知ってほしくて。俺のこと、家族のことも」


 多少の違和感を覚えながらも、小さくうなずいた時だった。


「あら、お客さん?」


 おもむろにドアを開けて入ってきたのは、母親らしき人。肩までの茶髪は綺麗に整えられていて、品のよい顔立ちが夏芽先輩と似ている。


「今日、いないんじゃなかったの」

「急に予定が遅くからになっちゃって。ごめんなさいね。私はすぐにいなくなるから」


 しとやかな笑みが飛んできたから、思わずその場で立ち上がった。


「ゆっくり、していって……ね」


 小さく頭を下げて、もう一度目が合う。

 ドクドクと体の中から音を立て、何かがあふれてくる感覚が分かった。止まらない震えは、すべてを呑み尽くすように、この場の時間を奪う。



「……さく……ら?」


 その人が再び口を開いたときには、抱きしめられていた。

 ほのかに香る花の匂いに、瞼が下がっていく。


 ああーー、この感じ、懐かしい。



「さくらちゃん、なのね」


 ずっと、不思議だった。初めて来たはずの家に、見覚えがあったから。

 彼岸世界に詳しかったこと。これまで姉の話をしなかったこと。さくらと私の前世の名を口にしたことも、全てが線で繋がった。


「母さん⁉︎ こは……る?」


 驚いた表情の先輩が、そっと離れる私たちを交互に見る。この様子だと、先輩は知らなかったのだろう。



「なんで……、泣いてるの?」



 ーー前世、私はこの家の長女・さくらとして生まれて、五年ほど暮らしていた。



* * *



「いい加減にしてくれ。何度言えば分かってくれるんだ。もう、疲れたよ」


 頭を抱えて塞ぎ込む夫の姿を見るのは、今日で何回目だろう。

 ダイニングテーブルの上には、あの頃と同じように食事の用意をしてあるのに。嘆きにも似た声をあげて、夫は手付かずの皿を見つめている。

 温かいはずのリビングは、時間が経ったスープと同じで冷めきっていた。


 この世界が鈍色(にびいろ)になったのは、一ヵ月半前。あなたを失ったあの瞬間から。見るもの全てが似たような色で、鮮やかさも美しさも感じない。

 幸せ色の世界は、ただの灰になってしまったの。


 ひとりで家にいると、たまに声が聞こえる。あなたの着ていた小さな服、そのままになっているおもちゃを眺めていると。

 まるで隠れんぼをしているみたいに、遊んで欲しそうな声が私を呼ぶ。


「ママー」


 空耳だと分かっている。もうあの子はいない。

 だけど、探して欲しいと言っている気がして。あの頃していたように、私はダイニングテーブルの下を覗く。


「いないねぇ。どこに隠れてるのかな」


 ソファーのうしろ、カーテン、それからクローゼットの中。全て探したところで、我に帰る。


 ーーひとりで、なにしてるんだろう。


 急激に切なさと虚しさが込み上げてきて、私は床へ崩れた。



『大きくなったらね、ママといっしょにお化粧するの。さくら、お姫さまになれるかな?』


 ドレッサーの前で化粧をする時間。口紅を持って、私の姿を真似るのが好きだった。

 お気に入りは、ディオールの白っぽいピンクベージュ。母親である私には可愛すぎて、あまり使わない。

 だからあなたにあげると言った時、飛び跳ねて喜ぶ姿が印象的で。愛らしい唇に塗ると、顔がパッと華やかになって美しかった。

 未来の姿を想像して夢が膨らんだのに。

 その口紅と一緒に、あなたは旅立ってしまった。



 久しぶりに鏡の前へ座った。

 目の下は黒く、青白い肌は不健康そのもの。まるで生きる死神みたい。

 少しやつれた顔を覗き込むと、鏡面が揺れた。水面が波打つようにして、現れたのはあなた。


「ママ、おはよう」

「お……はよう」


 おはようだなんて、何日振りに聞いただろう。もう一週間以上、夫とも交わしていない。

 鏡に映るあなたは、あの頃と変わらない屈託な笑顔を見せてくれて。

 時が止まったあの日から、時計が動いた気がした。


「ママ、泣いてるの?」

「さくらちゃんに会えて、嬉しいの」

「さくら、ずっとここにいたんだよ。ママ、全然見つけてくれないもん」

「ごめんね。待っててくれたのね。どうして鏡の中にいるの?」


 もう一度、この腕に抱き締めたい。

 温もりを感じたい。

 ただ、その想いだけだった。


 けれど、あなたは首を横に振る。もう、そちら側の世界へは行けないのだと。


「でもね、さくらたちの住む世界は、とっても近くにあるんだよ」

「さくらたちの……世界?」

「これね、おばあちゃんのお化粧のとこで話してるんだよ。可愛いのがいっぱいあって、さっきもね……」


 少しずつ冷静さを取り戻して耳を傾けてみると、どうやら彼岸世界はあるらしい。

 私たちの住む此岸と似たような空間が、次元で区別された場所に存在する。それも、通常は互いに認識出来ない隣り合わせに。


 それから、私は何かに取り憑かれたように鏡の前へ座るようになっていた。あの子が映っている時間は、一分ほどの僅かで。一日に一度しか現れない。

 決まって世界の扉が開く合言葉は、「おはよう」だ。あちら側には朝がないらしい。漆黒の空の下で、眠ることもないと聞いた。


「さくらちゃん。今日は何をしたの?」

「えっとね、追いかけっこした。しーちゃんと、あっくんと、それからおままごと」


「さくらちゃん。少し髪伸びたね。その髪は、おばあちゃんがしてくれるの?」

「うん、可愛いでしょ! ふたつにしてって言うと、おばあちゃん難しいなって笑ってるよ」


 もう見ることが出来ないと思っていた成長を目の当たりにして、目頭が熱くなる。

 もしかしたら、小学生、高校生、そして成人する姿まで見守ることが出来たら。


「ママも、そっちへ行きたいな。さくらちゃんに会いに、行こうかな」


 瞼からぽろぽろと雫があふれ出す。ほとんど使われなくなった化粧品に囲まれて、私は顔を覆う。

 全てを投げ出して、あなたのいる場所へ連れて行ってもらえるなら。迷いなどない。


「ダメだよ、ママ」


 しっかりとした声が、私をばっさりと切り捨てる。

 少し大人びた表情になるあなたは、穏やかに笑って。


「パパが悲しんじゃうよ」


 よく遊びに行った公園。パパと一緒に不安定な音程で歌を歌ってわらったり。誕生日のケーキを作った時、あなた以上に喜んでくれたのはパパだった。

 思い出されるのは鮮やかな世界で笑う私たちで、色のない現実には誰もいない。


「さくら、ママも大好きだけど、パパも大好き」

「そうね、そうよね」

「だから喧嘩しないでね。パパとママが仲良しなのがいいから」


「さくらね、生まれ変わったらまたパパとママのところに産まれるんだ」

「……うん」

「だから、ふたりで待っててね。早く会えるように、おばあちゃんと頑張るから」

「……ありがとう」


 同じベットで横になっていても、背を向け合っている私たち。笑い合うどころか、ほとんど会話もなくなっていた。

 夜の凍りつく空気が毛布の隙間へ入り込んで、さらに心を冷やしていく。



「……おはよう」

 朝起きて、階段を降りてきた夫へ声を掛ける。しばらく固まって、数回瞬きをした彼が「おはよう」と口を開いた。

 驚いた、と言う表情で私を見ている。朝食の支度が整ったダイニングテーブルを見て、もう一度ぽつりと声が溢れた。


「……ふたつ?」

「だって、あの子はもう……食べないでしょ」

 

 鏡の前で、最後に話した日。約束したから。


 彼岸世界では、ルールがあるらしい。

 人間界とは比べ物にならない速さで成長して、最後の選択肢を与えられる。

 もう一度、人間として生まれ変わりたいか、彼岸世界に残りたいか。

 そうして、また赤ん坊へ旅立っていく者も多いそうだ。


『さくら、いつも見てるから。ママ、頑張って。パパ、頑張ってって』


 子どもに励まされるなんて、母親失格だ。そう思う私へ手を伸ばして、


『これ、ママが持っててね。さくらがいなくても、ママが寂しくないように。さくらのお守り』


 鏡面が波打って飛び出して来たのは、あなたが気に入っていたディオールの口紅だった。

 再び手の中に戻った口紅を、そっと胸に抱く。離したくないと思った。

 このまま、時間が止まってしまえばいいのに。


 ふとあなたのまつ毛が濡れていることに気付く。

 我慢していたのは、私だけではなかった。

 この子こそ、ずっと寂しさを抱えながら気丈に振る舞っていたの。

 ごめんね、さくら。ずっと周りが見えていなくて。もうこの世界にはいられないあなたを、離してあげられないで。


『ママ、そろそろお別れだね』

『……そうね。もう、時間だね』

『いつも寝る前に歌ってくれてた、ゆりかご歌って?』

『いいわよ』


 朝のない世界に住むあなたへ。あの頃を思い出しながら、優しく包み込むように歌う。

 噛み締めるように一言ずつ、嬉しそうな顔を見ながら。

 そして、歌の終わりに。


『……おやすみ、さくら』

『おやすみ、ママ』


 愛らしい笑顔を残して、あなたは消えて行った。

 それから、二度と鏡の向こう側が開くことはなかった。



* * *



『さくらね、生まれ変わったらまたパパとママのところに産まれるんだ』


 あれは、来世で永遠を約束した恋人ではなく、再会を待ち望む母と子の記憶だったんだ。

 会えばすぐに分かる。姿形は変わっていても、脳が、細胞が覚えている。


 ようやく、しっかりと思い出せた。


「いきなり、ごめんなさいね。一気に感情があふれちゃって、つい」


 必死に首をふりながら、ずびんと鼻をすする。


「もう一度、会えて……、嬉しいです」

「あれから、頑張ったのね」


 白味を帯びたピンクベージュの唇が、優しく微笑む。お揃いの色。使っていてくれたんだ。

 頭をなでられて、胸の奥がギュッと苦しくなる。

 さくらの記憶が、鮮やかに流れていく。まるで、忘れかけていた昔の映画を、久しぶりに見返したような。


 やっと見つけたよと、五歳の彼女が、胸の奥でささやいている。

 

「間違ってなかった。勘違いじゃなかった。先輩は……やっぱり、運命の人だった」


 今度は、夏芽先輩に飛びついた。同じ匂いがしていたのは、家族だったから。

 優しく包み込むように、そっと手が添えられる。


「十歳離れてるから、会ったことはなかったけど。小春が……俺の姉さんって、ことになるのか」


 複雑そうに言葉を探しながら、夏芽先輩がつぶやく。


「今の私は小春だよ。十九年、梅野小春として生きてきた。もちろん、これからも。さくらの時の記憶も少し残ってるから、普通の人とはちょっと違うけど。夏芽先輩は、私を好きじゃなくなったの?」


 そのまま見上げると、神妙だった先輩の面持ちが、フッと柔らかくなって。


「そんなわけないよ。すげえなって、逆に、嬉しい」


 不安をかき消すような笑顔に、胸が熱くなる。

 先輩と出逢うまで、何かを好きだとか、夢中になる気持ちがわからなかった。

 お父さんもお母さんも大切だし、大好きだけど家族は別で。何か特別なものを、ずっと探していた気がする。

 黙って見ていた先輩のお母さんが、私たちをギュッと抱きしめる。


「小春ちゃん、産まれてきてくれてありがとう。本当に……ありがとう。おかえりなさい」


 わんわん泣く私の横で、二人まで声を震わせている。

 両親が見たら、おかしな光景に思うのだろう。でもこの奇跡を話したら、きっと一緒に喜んでくれる。


 和室に飾られている女の子の写真が、鏡に反射してキラリと光った。まるで、私と同じ雫を流すように。


「これからも、よろしくね。ずっと、ずっと」


                 end.




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