政略結婚に真実の愛を求めるのは間違っているのでしょうか。
私の人生には、最初から色がなかった。
公爵家の広大な屋敷、美しく整えられた庭園、そしてそこに座る両親。彼らは決して仲が悪いわけではなかった。
ただ、互いを「家を存続させるための共同経営者」としてしか見ていなかった。そこに、情熱や焦がれるような「愛」が入り込む隙間などなかったのだ。
「エルゼ。公爵家の娘として、相応しき方との縁を整えた。感謝しなさい」
父のその言葉に、私はただ「承知いたしました」とだけ返した。それが、私の世界における唯一の正解だったから。
そうして私は、政略結婚をした。
相手は、若くして財務卿の座に就いたヴィクトール伯爵だ。
彼は、私と同じく愛を知らない。
それが、私の世界では普通だったのだ。
結婚してからも、私たちの間には凪のような時間が流れている。
2人きりのときも、会話はなに一つない。
するとしても、予算の配分や外交上の儀礼、つまり仕事関係の話だけだ。
「明日の夜会、貴女の立ち位置は私の左側だ。効率的に挨拶を回るぞ」
「はい。心得ております、閣下」
それでおしまい。
完璧で、効率的で、そしてひどく冷たい。
……だけど、ある日、私は違和感を覚える。
政略結婚。そこになんの意味があるのか。
将来の安泰? 家の繁栄?
そんなものを、私は本当に求めていたのだろうか。
退屈な茶会の席で、女友達が頬を赤らめて口にする「愛」という言葉。
私は話に合わすだけ。
それが、私の胸の奥で小さな棘のように刺さって抜けない。
知らないはずのものを、知りたいと思ってしまった。
私は、無機質な銀縁眼鏡の奥で書類に目を落とす彼の横顔を、初めて「夫」として見つめた。
「……ねえ、ヴィクトール様」
私の口から漏れたのは、業務報告ではない、ひどく曖昧で不確かな音だった。
「あぁ、業務報告は後にしてくれ」
私たちに会話は続くはずもなかった。
*お茶会*
「今日はロザリー様は来られなかったのね」
サリナが、色とりどりのマカロンが並ぶ皿を見つめながら、ふと呟いた。
「ええ、旦那様が熱を出されたみたいで。看病のために付き添うとお手紙をいただいたわ」
「まあ。……相変わらず、ロザリー様と旦那様は仲がよろしくて羨ましいこと」
「……ねぇ、サリナ。彼の熱が出たら看病するものなの?」
「まぁ、普通はするわよね。だって、大切な人が苦しんでいるのよ?」
サリナは当然のことのように言い、紅茶を一口啜った。
その「普通」という言葉が、今の私には鋭いナイフのように突き刺さる。
もし、ヴィクトール様が倒れたら。
私はきっと、執事に命じて領内一の医師を呼び、彼が執務に戻れない期間のスケジュールを冷徹に組み直すだろう。
それは「公爵夫人としての完璧な義務」ではあっても、そこに「祈り」はない。
「……看病、というものが、よくわからないの」
私の告白に、サリナはティーカップを置いた。
いつも快活な彼女の瞳に、深い憐れみの色が混じる。
「エルゼ様。貴女……ヴィクトール様が今、何を考え、何を好んでいるか、一つでもご存知?」
「それは……。彼は効率を好み、無駄を嫌うわ。財務卿として、この国の数字を完璧に把握している。それ以上に知るべきことがあるのかしら」
「違うわ。私が聞いているのは、仕事のスペックではなくて、彼の『心』のことよ」
サリナは身を乗り出し、私の手元にあるマカロンを指差した。
「例えば、彼がこのマカロンを見て、甘すぎると眉をひそめるのか、意外と好んで口にするのか。そんな些細な、なんの役にも立たないことを知ろうとすること。……それが愛の始まりなのよ」
なんの役にも立たないこと。
公爵家の教育では、真っ先に切り捨てられてきたものだ。
けれど、ロザリーが欠席してまで選んだ「看病」という無駄な時間は、サリナの目にはこの上なく尊いものとして映っている。
私は、扇子を握る手に少しだけ力を込め、目の前で楽しげに紅茶を啜る友人に視線を向けた。
「ね、ねぇ、サリナ。……貴女と旦那様も、とても仲がいいわよね?」
「ええ。昨晩も、仕事帰りに私への贈り物を買ってきてくださったわ。それがどうかしたのかしら?」
サリナは不思議そうに目を丸くした。
公爵家の誇り高い娘として、常に完璧な人形のようであった私、エルゼがこんな私的な質問をすること自体が、彼女たちにとっては驚きなのだ。
「その……。愛というものを、教えて欲しいの」
一瞬、庭園の喧騒が遠のいた気がした。
サリナは驚きに目を見開いた後、私の顔をじっと見つめ、やがて優しく微笑んだ。
「貴女、ヴィクトール様との関係に、何か変化を求めていらっしゃるの?」
「……わからないの。ただ、私と彼の間に流れる時間は、あまりに冷たくて、何もない。そこに何の意味があるのか、知りたくなっただけよ」
サリナはそっと私の手に自分の手を重ねた。その体温が、今の私には酷く眩しかった。
「愛は、教わるものではなくて、見つけるものよ。……まずは、ヴィクトール様に『無駄なこと』を話してみてはいかが? 業務報告ではない、貴女自身の心の動きを」
「無駄なこと……」
「そんな気張らなくていいのよ。例えば、午前、なにをしたかしら?」
「書類整理とか……」
「あら、それじゃあなたには難しいのかもしれないわね。なら、きっかけを作りにいきましょ!」
私は手を引かれた。
サリナの明るい声に急かされるようにして、私は生まれて初めて、予定にはない行動へと踏み出した。
*花屋*
街の一角にあるその店は、公爵邸の整然とした庭園とは全く違っていた。
むせ返るような花の香りと、名前も知らない色とりどりの花々が、野生のままの生命力を放っている。
「エルゼ様、見て。このアネモネ、今日の貴女のドレスの色にぴったりじゃない?」
サリナが差し出したのは、鮮やかな、けれどどこか儚げな赤い花だった。
「……綺麗ね。でも、これをどうするの?」
「どうするも何も、お土産よ! ヴィクトール様に贈るの」
「彼に……? 意味がないわ。彼は花を愛でるような余裕はないし、何より、家の温室にはもっと見事な薔薇がいくらでもあるもの」
私が冷静に効率を説くと、サリナはいたずらっぽく笑って私の手の中に花束を押し付けた。
「エルゼ様、それが『無駄』の良さなのよ。温室の完璧な花じゃなくて、貴女が街で見つけて『綺麗だと思ったから』買ってきた、その理由のない一輪に意味があるの。彼の執務机の、一番邪魔になるところに置いてきなさいな」
執務机の、邪魔になるところ。
想像するだけで、ヴィクトールの不機嫌そうな眉間の皺が目に浮かぶ。
「これは何の報告だ?」と、冷ややかな声が聞こえてきそうだ。
けれど、私の手の中に残った花びらの感触は、驚くほど柔らかくて温かかった。
「……やってみるわ。サリナ、ありがとう」
屋敷に戻る馬車の中、私は大切に花束を抱えた。
ヴィクトールに、業務連絡ではない言葉をかける。
それは私にとって、未知の言語を操るよりも勇気のいることだった。
*屋敷*
案の定、ヴィクトールは書斎に籠もっていた。
私は一度大きく深呼吸をして、重い扉を叩いた。
「ヴィクトール様。……今、よろしいでしょうか」
「……エルゼか。業務報告なら手短に頼む。予算案の確認で手が離せない」
相変わらず、私を見ようともしない銀縁眼鏡の横顔。
私は震える手で、色鮮やかなアネモネを一輪、彼の積み上げられた書類のすぐ隣に置いた。
「……ん?これは、何の真似だ?」
ヴィクトールが初めて顔を上げ、不可解なものを見る目で私を、そして花を交互に見つめた。
「報告ではありません。……ただ、綺麗だと思ったので」
私の声は、自分でも驚くほど小さく、そして震えていた。
ヴィクトール様はペンを止めたまま、まるで未知の言語で書かれた古文書を解読するかのように、机の上に置かれた赤いアネモネを凝視している。
「綺麗……?」
彼はその単語を、毒味でもするかのように慎重に繰り返した。
彼の世界に「綺麗」や「醜い」という主観的な価値判断は存在しない。あるのは「有用」か「無用」か、ただそれだけだ。
「そうだ。エルゼ、今日の予算会議で出た懸案事項だがーー」
彼は何事もなかったかのように、視線を書類に戻そうとした。
いつもなら、私はここで「はい、伺います」と深く頷き、隣に座ってペンを取る。
それが私たちの「普通」だから。
けれど、サリナの言葉が耳の奥でリフレインする。
(愛は、そういう無駄な隙間にしか宿らないもの)
私は、彼が書類に落とそうとした視線を遮るように、もう一歩だけ机に歩み寄った。
「会議のお話の前に、ヴィクトール様。……その花は、アネモネというそうです」
「……知っている。植物図鑑に載っている。キンポウゲ科だ」
「そうではなくて。……今日、サリナと立ち寄った街の花屋で見つけました。温室の花とは違い、土の匂いがして、とても力強く咲いていたのです。それを見て、私は……貴方のことを思い出しました」
ヴィクトールの指先が、ぴくりと跳ねた。
無機質な銀縁眼鏡の奥にある瞳が、困惑に揺れている。
「私を? なぜだ。私は花のように鮮やかでもなければ、土の匂いもしない」
「わかりません。ただ、そう思ったのです。……これも、『無駄な報告』でしょうか?」
沈黙が書斎を支配した。
時計の針が刻む音だけが、やけに大きく響く。
ヴィクトールはゆっくりと椅子にもたれかかり、眼鏡を外して眉間を押さえた。
彼が私の前で、これほどまでに「隙」を見せたのは、結婚して以来初めてのことだった。
「……あぁ、無駄だ。ひどく無駄だ、エルゼ」
彼は眼鏡を机に置くと、不器用な手つきで、邪魔だと言わんばかりに置かれたアネモネを一輪、そっと指先でなぞった。
「そ、そうですよね」
私は心の中に涙を流し部屋を出ようとした。
「だが……悪い気分ではない。続けてくれ。その……『街の様子』というやつを」
冷徹な財務卿の顔に、ほんのわずかな、夜明け前のような淡い戸惑いがにじむ。
その瞬間、私たちの無彩色だった世界に、一滴の赤い色が、静かに溶け出した。
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