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政略結婚に真実の愛を求めるのは間違っているのでしょうか。

作者: 天音 楓
掲載日:2026/01/31

私の人生には、最初から色がなかった。


公爵家の広大な屋敷、美しく整えられた庭園、そしてそこに座る両親。彼らは決して仲が悪いわけではなかった。


ただ、互いを「家を存続させるための共同経営者」としてしか見ていなかった。そこに、情熱や焦がれるような「愛」が入り込む隙間などなかったのだ。


「エルゼ。公爵家の娘として、相応しき方との縁を整えた。感謝しなさい」


父のその言葉に、私はただ「承知いたしました」とだけ返した。それが、私の世界における唯一の正解だったから。


そうして私は、政略結婚をした。


相手は、若くして財務卿の座に就いたヴィクトール伯爵だ。


彼は、私と同じく愛を知らない。


それが、私の世界では普通だったのだ。


結婚してからも、私たちの間には凪のような時間が流れている。


2人きりのときも、会話はなに一つない。


するとしても、予算の配分や外交上の儀礼、つまり仕事関係の話だけだ。


「明日の夜会、貴女の立ち位置は私の左側だ。効率的に挨拶を回るぞ」


「はい。心得ております、閣下」


それでおしまい。


完璧で、効率的で、そしてひどく冷たい。


……だけど、ある日、私は違和感を覚える。


政略結婚。そこになんの意味があるのか。


将来の安泰? 家の繁栄?


そんなものを、私は本当に求めていたのだろうか。


退屈な茶会の席で、女友達が頬を赤らめて口にする「愛」という言葉。


私は話に合わすだけ。


それが、私の胸の奥で小さな棘のように刺さって抜けない。


知らないはずのものを、知りたいと思ってしまった。


私は、無機質な銀縁眼鏡の奥で書類に目を落とす彼の横顔を、初めて「夫」として見つめた。


「……ねえ、ヴィクトール様」


私の口から漏れたのは、業務報告ではない、ひどく曖昧で不確かな音だった。


「あぁ、業務報告は後にしてくれ」


私たちに会話は続くはずもなかった。


*お茶会*


「今日はロザリー様は来られなかったのね」


サリナが、色とりどりのマカロンが並ぶ皿を見つめながら、ふと呟いた。


「ええ、旦那様が熱を出されたみたいで。看病のために付き添うとお手紙をいただいたわ」


「まあ。……相変わらず、ロザリー様と旦那様は仲がよろしくて羨ましいこと」


「……ねぇ、サリナ。彼の熱が出たら看病するものなの?」


「まぁ、普通はするわよね。だって、大切な人が苦しんでいるのよ?」


サリナは当然のことのように言い、紅茶を一口啜った。


その「普通」という言葉が、今の私には鋭いナイフのように突き刺さる。


もし、ヴィクトール様が倒れたら。


私はきっと、執事に命じて領内一の医師を呼び、彼が執務に戻れない期間のスケジュールを冷徹に組み直すだろう。


それは「公爵夫人としての完璧な義務」ではあっても、そこに「祈り」はない。


「……看病、というものが、よくわからないの」


私の告白に、サリナはティーカップを置いた。


いつも快活な彼女の瞳に、深い憐れみの色が混じる。


「エルゼ様。貴女……ヴィクトール様が今、何を考え、何を好んでいるか、一つでもご存知?」


「それは……。彼は効率を好み、無駄を嫌うわ。財務卿として、この国の数字を完璧に把握している。それ以上に知るべきことがあるのかしら」


「違うわ。私が聞いているのは、仕事のスペックではなくて、彼の『心』のことよ」


サリナは身を乗り出し、私の手元にあるマカロンを指差した。


「例えば、彼がこのマカロンを見て、甘すぎると眉をひそめるのか、意外と好んで口にするのか。そんな些細な、なんの役にも立たないことを知ろうとすること。……それが愛の始まりなのよ」


なんの役にも立たないこと。


公爵家の教育では、真っ先に切り捨てられてきたものだ。


けれど、ロザリーが欠席してまで選んだ「看病」という無駄な時間は、サリナの目にはこの上なく尊いものとして映っている。


私は、扇子を握る手に少しだけ力を込め、目の前で楽しげに紅茶を啜る友人に視線を向けた。


「ね、ねぇ、サリナ。……貴女と旦那様も、とても仲がいいわよね?」


「ええ。昨晩も、仕事帰りに私への贈り物を買ってきてくださったわ。それがどうかしたのかしら?」


サリナは不思議そうに目を丸くした。


公爵家の誇り高い娘として、常に完璧な人形のようであった私、エルゼがこんな私的な質問をすること自体が、彼女たちにとっては驚きなのだ。


「その……。愛というものを、教えて欲しいの」


一瞬、庭園の喧騒が遠のいた気がした。


サリナは驚きに目を見開いた後、私の顔をじっと見つめ、やがて優しく微笑んだ。


「貴女、ヴィクトール様との関係に、何か変化を求めていらっしゃるの?」


「……わからないの。ただ、私と彼の間に流れる時間は、あまりに冷たくて、何もない。そこに何の意味があるのか、知りたくなっただけよ」


サリナはそっと私の手に自分の手を重ねた。その体温が、今の私には酷く眩しかった。


「愛は、教わるものではなくて、見つけるものよ。……まずは、ヴィクトール様に『無駄なこと』を話してみてはいかが? 業務報告ではない、貴女自身の心の動きを」


「無駄なこと……」


「そんな気張らなくていいのよ。例えば、午前、なにをしたかしら?」


「書類整理とか……」


「あら、それじゃあなたには難しいのかもしれないわね。なら、きっかけを作りにいきましょ!」


私は手を引かれた。


サリナの明るい声に急かされるようにして、私は生まれて初めて、予定にはない行動へと踏み出した。


*花屋*


街の一角にあるその店は、公爵邸の整然とした庭園とは全く違っていた。


むせ返るような花の香りと、名前も知らない色とりどりの花々が、野生のままの生命力を放っている。


「エルゼ様、見て。このアネモネ、今日の貴女のドレスの色にぴったりじゃない?」


サリナが差し出したのは、鮮やかな、けれどどこか儚げな赤い花だった。


「……綺麗ね。でも、これをどうするの?」


「どうするも何も、お土産よ! ヴィクトール様に贈るの」


「彼に……? 意味がないわ。彼は花を愛でるような余裕はないし、何より、家の温室にはもっと見事な薔薇がいくらでもあるもの」


私が冷静に効率を説くと、サリナはいたずらっぽく笑って私の手の中に花束を押し付けた。


「エルゼ様、それが『無駄』の良さなのよ。温室の完璧な花じゃなくて、貴女が街で見つけて『綺麗だと思ったから』買ってきた、その理由のない一輪に意味があるの。彼の執務机の、一番邪魔になるところに置いてきなさいな」


執務机の、邪魔になるところ。


想像するだけで、ヴィクトールの不機嫌そうな眉間の皺が目に浮かぶ。


「これは何の報告だ?」と、冷ややかな声が聞こえてきそうだ。


けれど、私の手の中に残った花びらの感触は、驚くほど柔らかくて温かかった。


「……やってみるわ。サリナ、ありがとう」


屋敷に戻る馬車の中、私は大切に花束を抱えた。


ヴィクトールに、業務連絡ではない言葉をかける。


それは私にとって、未知の言語を操るよりも勇気のいることだった。


*屋敷*


案の定、ヴィクトールは書斎に籠もっていた。


私は一度大きく深呼吸をして、重い扉を叩いた。


「ヴィクトール様。……今、よろしいでしょうか」


「……エルゼか。業務報告なら手短に頼む。予算案の確認で手が離せない」


相変わらず、私を見ようともしない銀縁眼鏡の横顔。


私は震える手で、色鮮やかなアネモネを一輪、彼の積み上げられた書類のすぐ隣に置いた。


「……ん?これは、何の真似だ?」


ヴィクトールが初めて顔を上げ、不可解なものを見る目で私を、そして花を交互に見つめた。


「報告ではありません。……ただ、綺麗だと思ったので」


私の声は、自分でも驚くほど小さく、そして震えていた。


ヴィクトール様はペンを止めたまま、まるで未知の言語で書かれた古文書を解読するかのように、机の上に置かれた赤いアネモネを凝視している。


「綺麗……?」


彼はその単語を、毒味でもするかのように慎重に繰り返した。


彼の世界に「綺麗」や「醜い」という主観的な価値判断は存在しない。あるのは「有用」か「無用」か、ただそれだけだ。


「そうだ。エルゼ、今日の予算会議で出た懸案事項だがーー」


彼は何事もなかったかのように、視線を書類に戻そうとした。


いつもなら、私はここで「はい、伺います」と深く頷き、隣に座ってペンを取る。


それが私たちの「普通」だから。


けれど、サリナの言葉が耳の奥でリフレインする。


(愛は、そういう無駄な隙間にしか宿らないもの)


私は、彼が書類に落とそうとした視線を遮るように、もう一歩だけ机に歩み寄った。


「会議のお話の前に、ヴィクトール様。……その花は、アネモネというそうです」


「……知っている。植物図鑑に載っている。キンポウゲ科だ」


「そうではなくて。……今日、サリナと立ち寄った街の花屋で見つけました。温室の花とは違い、土の匂いがして、とても力強く咲いていたのです。それを見て、私は……貴方のことを思い出しました」


ヴィクトールの指先が、ぴくりと跳ねた。


無機質な銀縁眼鏡の奥にある瞳が、困惑に揺れている。


「私を? なぜだ。私は花のように鮮やかでもなければ、土の匂いもしない」


「わかりません。ただ、そう思ったのです。……これも、『無駄な報告』でしょうか?」


沈黙が書斎を支配した。


時計の針が刻む音だけが、やけに大きく響く。


ヴィクトールはゆっくりと椅子にもたれかかり、眼鏡を外して眉間を押さえた。


彼が私の前で、これほどまでに「隙」を見せたのは、結婚して以来初めてのことだった。


「……あぁ、無駄だ。ひどく無駄だ、エルゼ」


彼は眼鏡を机に置くと、不器用な手つきで、邪魔だと言わんばかりに置かれたアネモネを一輪、そっと指先でなぞった。


「そ、そうですよね」


私は心の中に涙を流し部屋を出ようとした。


「だが……悪い気分ではない。続けてくれ。その……『街の様子』というやつを」


冷徹な財務卿の顔に、ほんのわずかな、夜明け前のような淡い戸惑いがにじむ。


その瞬間、私たちの無彩色だった世界に、一滴の赤い色が、静かに溶け出した。

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