第6話「残す側」
その日から、俺は自分の私物を意識して見るようになった。
どれが“価値がある”かではない。
どれが、無意識に触っている物か。
鍵。
スマホ。
玄関の靴ベラ。
朝、家を出るとき。
夜、帰宅するとき。
考えなくても手が伸びる物。
ある晩、帰宅すると、玄関に違和感があった。
靴ベラの向きが、いつもと違う。
ほんの数センチ、ずれているだけなのに、それがはっきり分かる。
誰かが使った。
そう確信できる程度には、俺はもう“分かる側”になっていた。
翌日、会社に行くと、倉庫の棚に新しい残す箱が置かれていた。
赤い丸が一つ。
そして、その上に――見覚えのある紙。
処分不可リスト。
・玄関の鍵(自宅)
・携帯電話(黒)
・靴ベラ(自宅)
喉の奥が、ひくりと鳴った。
「……これ、誰が書いたんですか」
三枝さんに聞くと、しばらく黙ってから答えた。
「書いた、じゃない。増えたんだ」
「増えた?」
「自分で、残したくなった物がな」
相原さんも、奥から出てきた。
「気づいてるだろ。最近、お前」
「……戻ってますよね」
「ああ。仕事終わりに、何度かな」
俺は否定できなかった。
夜中、気づくと玄関に立っていることがあった。
鍵を握り、ドアを開ける前で、立ち尽くしている。
帰宅しているのに、帰りきれていない。
「怖くないのか」
相原さんが聞いた。
「怖いです」
「それでいい。怖くなくなったら、終わりだ」
その日の現場は、単身用の古いマンションだった。
依頼主は遠方の親族で、立ち会いはない。
処分不可リストは一つだけ。
・玄関の鍵(内側)
俺は、鍵に触れた。
ひんやりしている。
だが、その奥に、確かな“体温の記憶”があった。
作業は淡々と進んだ。
最後に、残す箱をまとめる。
そのとき、胸の奥で、何かが静かに決まった。
俺は、ポケットから自分の鍵を取り出した。
一瞬、迷う。
だが、その迷いこそが答えだった。
鍵を、箱に入れる。
ガタン、と小さな音。
空気が、わずかに揺れた。
誰かが、近くで息を吐いたような気配。
怖さはなかった。
代わりに、不思議な納得があった。
――残す側に、回った。
作業を終え、部屋を出る直前、背後で音がした。
靴が揃えられる音。
鍵が、触れ合う音。
俺は振り返らなかった。
返事もしない。
ただ、ドアを閉めた。
夜、帰宅すると、玄関は静かだった。
靴ベラは、元の位置にある。
それでも、分かる。
この部屋には、もう一つの帰り道ができた。
完全に消えるためじゃない。
迷わず、戻るための道だ。
ベッドに横になり、目を閉じる。
遠くで、鍵の音がした気がした。
――明日も、俺は片づけに行く。
いや、違う。
帰宅を、終わらせに行く。
それが、俺の仕事になった。




