第5話「処分されたもの」
ミスは、音もなく起きる。
だから一番、始末が悪い。
その日、現場は古い木造アパートだった。取り壊しが決まっているらしく、依頼も急ぎだった。
新人の吉川が同行した。二十代前半、要領はいいが、仕事を「片づけ」としか見ていない。
処分不可リストは短かった。
・玄関の靴(右/かかとが潰れている)
・台所の布巾(赤)
俺は一瞬だけ、嫌な胸騒ぎを覚えた。
どちらも、帰宅の最後に触れる物だ。
「靴は……これですね」
吉川が言い、ビニール袋を開けた。
「ちょっと待て」
「え?」
「それ、残す」
「え、でも汚れてますし……」
俺が言い終える前に、三枝さんが別の部屋から声をかけた。
「吉川、言われた通りにやれ」
吉川は小さく舌打ちし、袋を置いた。
そのとき、俺は見逃した。
赤い布巾が、すでに可燃ごみの袋に入っていたことを。
作業は順調に終わった。
問題は、その夜だ。
倉庫に戻ると、空気が重かった。
いつもは静かな棚の奥から、何かが「引っかく」ような音がする。
俺は、嫌な予感を抑えきれず、残す箱を確認した。
靴はある。
だが、布巾がない。
「……三枝さん」
声が、かすれた。
「布巾、見てませんか」
三枝さんの顔色が変わった。
吉川を呼び、問い詰める。
「あ、あれですか?さっき捨てましたけど……」
「どこに」
「燃えるゴミの……回収、もう終わってます」
その瞬間、倉庫の照明が、ふっと暗くなった。
空気が、張りつめる。
耳鳴りが、強くなる。
「……まずい」
三枝さんが低く言った。
「戻れなくなった」
床に、湿った足音が響いた。
誰も歩いていないのに、確かに「歩く順番」が聞こえる。
靴箱の前。
台所。
そして――止まる。
そこで、迷っている。
俺は、残す箱から靴を取り出した。
右足だけの、かかとの潰れた靴。
「まだ、これがある」
「足りない」
三枝さんは首を振った。
「帰り道が、途中で切れてる」
そのとき、吉川が震える声で言った。
「さっきから……呼ばれてます」
「名前を言うな」
「でも……」
倉庫の奥で、何かが倒れた。
金属音。
続いて、低い、息のような音。
俺は、走った。
燃えるゴミの集積所へ。だが、もう何もない。回収後の、空っぽの檻だけが残っている。
戻る途中、背後で声がした。
「……ただいま」
反射的に、返事をしそうになった。
喉が開く。
その瞬間、胸が締めつけられた。
返事をするな。
俺は、靴を床に置いた。
玄関の位置を想像し、靴先を揃える。
「……ここだ」
声に出してはいけない言葉を、心の中でだけ並べる。
帰る順番。
触れる感触。
空気が、わずかに動いた。
足音が、靴の前で止まる。
だが、それ以上は進まない。
三枝さんが、静かに言った。
「もう一つ、必要だ」
「……布巾」
「そうだ。最後に触れる物だ」
その夜、俺たちはアパートの台所へ戻った。
既に空き部屋のはずなのに、流し台は濡れていた。
俺は、引き出しの奥から、予備の赤い布巾を見つけた。
同じ色。
同じ大きさ。
代わりになるかは、分からない。
それでも、置くしかなかった。
布巾を、元の場所に戻す。
次の瞬間、空気が、ほどけた。
長い溜息のような音。
それから、鍵が回る気配。
静寂が戻った。
倉庫へ戻る車内で、誰も喋らなかった。
吉川は泣いていた。
会社に着く直前、三枝さんが言った。
「覚えとけ。俺たちは整理してるんじゃない」
「……」
「帰宅を、終わらせてるんだ」
俺は、ポケットの中の鍵を強く握った。
自分の帰り道が、どこまで残っているのか。
――処分されたものは、戻れない。
その事実が、重く胸に残っていた。




