表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

第5話「処分されたもの」

ミスは、音もなく起きる。

だから一番、始末が悪い。

その日、現場は古い木造アパートだった。取り壊しが決まっているらしく、依頼も急ぎだった。

新人の吉川が同行した。二十代前半、要領はいいが、仕事を「片づけ」としか見ていない。

処分不可リストは短かった。

・玄関の靴(右/かかとが潰れている)

・台所の布巾(赤)

俺は一瞬だけ、嫌な胸騒ぎを覚えた。

どちらも、帰宅の最後に触れる物だ。

「靴は……これですね」

吉川が言い、ビニール袋を開けた。

「ちょっと待て」

「え?」

「それ、残す」

「え、でも汚れてますし……」

俺が言い終える前に、三枝さんが別の部屋から声をかけた。

「吉川、言われた通りにやれ」

吉川は小さく舌打ちし、袋を置いた。

そのとき、俺は見逃した。

赤い布巾が、すでに可燃ごみの袋に入っていたことを。

作業は順調に終わった。

問題は、その夜だ。

倉庫に戻ると、空気が重かった。

いつもは静かな棚の奥から、何かが「引っかく」ような音がする。

俺は、嫌な予感を抑えきれず、残す箱を確認した。

靴はある。

だが、布巾がない。

「……三枝さん」

声が、かすれた。

「布巾、見てませんか」

三枝さんの顔色が変わった。

吉川を呼び、問い詰める。

「あ、あれですか?さっき捨てましたけど……」

「どこに」

「燃えるゴミの……回収、もう終わってます」

その瞬間、倉庫の照明が、ふっと暗くなった。

空気が、張りつめる。

耳鳴りが、強くなる。

「……まずい」

三枝さんが低く言った。

「戻れなくなった」

床に、湿った足音が響いた。

誰も歩いていないのに、確かに「歩く順番」が聞こえる。

靴箱の前。

台所。

そして――止まる。

そこで、迷っている。

俺は、残す箱から靴を取り出した。

右足だけの、かかとの潰れた靴。

「まだ、これがある」

「足りない」

三枝さんは首を振った。

「帰り道が、途中で切れてる」

そのとき、吉川が震える声で言った。

「さっきから……呼ばれてます」

「名前を言うな」

「でも……」

倉庫の奥で、何かが倒れた。

金属音。

続いて、低い、息のような音。

俺は、走った。

燃えるゴミの集積所へ。だが、もう何もない。回収後の、空っぽの檻だけが残っている。

戻る途中、背後で声がした。

「……ただいま」

反射的に、返事をしそうになった。

喉が開く。

その瞬間、胸が締めつけられた。

返事をするな。

俺は、靴を床に置いた。

玄関の位置を想像し、靴先を揃える。

「……ここだ」

声に出してはいけない言葉を、心の中でだけ並べる。

帰る順番。

触れる感触。

空気が、わずかに動いた。

足音が、靴の前で止まる。

だが、それ以上は進まない。

三枝さんが、静かに言った。

「もう一つ、必要だ」

「……布巾」

「そうだ。最後に触れる物だ」

その夜、俺たちはアパートの台所へ戻った。

既に空き部屋のはずなのに、流し台は濡れていた。

俺は、引き出しの奥から、予備の赤い布巾を見つけた。

同じ色。

同じ大きさ。

代わりになるかは、分からない。

それでも、置くしかなかった。

布巾を、元の場所に戻す。

次の瞬間、空気が、ほどけた。

長い溜息のような音。

それから、鍵が回る気配。

静寂が戻った。

倉庫へ戻る車内で、誰も喋らなかった。

吉川は泣いていた。

会社に着く直前、三枝さんが言った。

「覚えとけ。俺たちは整理してるんじゃない」

「……」

「帰宅を、終わらせてるんだ」

俺は、ポケットの中の鍵を強く握った。

自分の帰り道が、どこまで残っているのか。

――処分されたものは、戻れない。

その事実が、重く胸に残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ルールが破られたとき、何が起きるのか。 それを派手な惨劇ではなく、“帰り道が切れる”という感覚で描いた点が非常に強い。 赤い布巾という、ごくありふれた物にここまでの重みを持たせる筆力に唸らされる。 「…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ