第4話「遺族が知らない、最後の帰宅」
現場の空気は、いつも玄関で分かる。
鍵を回した瞬間、冷たいか、重たいか。それだけで、その家がどこまで“戻っている”かが伝わってくる。
その日の部屋は、静かすぎた。
新築から十年ほどの分譲マンション。廊下には柔軟剤の匂いが残り、生活の痕跡がまだ新しい。亡くなったのは二十代後半の女性。事故死。発見は当日。部屋は荒れていない。
処分不可リストは、いつもより丁寧な字で書かれていた。
・冷蔵庫の奥の調味料(白い瓶)
・洗面所の割れたコップ
・ベランダの壊れた椅子
似た内容に、俺は嫌な予感を覚えた。
――戻る途中で、迷っている。
冷蔵庫の白い瓶は、ドアポケットの一番奥にあった。賞味期限の切れたドレッシング。振ると、底に固まった中身が動かない。捨てても誰も困らない。だが、そこに「帰宅」の線が通っているのが、もう分かってしまう。
洗面所のコップは、縁が欠けていた。水垢が残り、底にヒビが走っている。歯ブラシを立てるには、少し不安定だ。それでも、毎朝ここに戻ってきたのだろう。
最後に、ベランダへ出た。
壊れた椅子は、以前の現場よりも古かった。座面の布が裂け、金属の骨が覗いている。俺が触れると、きし、と弱々しい音がした。
その瞬間、背後で空気が動いた。
振り向くと、ベランダのガラス戸がわずかに開いている。
さっきまで、閉まっていたはずだ。
胸の奥が、嫌な速さで鳴り始めた。
俺は、声を出さずに室内へ戻った。
作業を続けるうちに、違和感は増していった。
残すはずの物の位置が、微妙に変わっている。
白い瓶が、少し手前に出ている。
割れたコップが、洗面台の中央に置かれている。
誰かが、使っている。
俺は気づいた。
これは「戻ってくる気配」じゃない。
戻って、まだ帰りきれていない状態だ。
昼過ぎ、三枝さんが俺にだけ、小さく言った。
「今日は長くなる」
「……ええ」
「夜まで残るぞ」
日が落ち、部屋の中が暗くなった。
照明をつけると、光の輪の外が妙に濃くなる。
そのとき、背後で足音がした。
ベランダから、室内へ。
裸足がフローリングに触れる、湿った音。
俺は息を殺した。
返事をするな。
声をかけるな。
足音は洗面所へ向かい、水の音がした。
コップが触れ合う、かすかな音。
そして――椅子が、軋んだ。
俺は、残す箱を開けた。
中にある三つの物を、そっと床に置く。
白い瓶。
割れたコップ。
壊れた椅子。
それぞれを、元の場所より「ほんの少しだけ」分かりやすく配置する。
帰り道を、なぞるように。
空気が、すっと軽くなった。
足音が止み、水音が消える。
しばらくして、玄関の方で「カチャ」と音がした。
鍵が回る音だ。
俺は、動けなかった。
見送るべきか、見てはいけないのか、分からない。
やがて、部屋は完全に静まった。
翌朝、遺族が立ち会いに来た。
母親らしき女性は、部屋に入るなり、涙をこぼした。
「……帰ってきた気がします」
理由は分からない、と何度も繰り返しながら、彼女は言った。
安心したように、何度も頷いた。
俺は何も答えなかった。
答えるべき言葉は、ない。
帰り際、三枝さんが俺の肩を叩いた。
「よくやった」
「……これで、終わりですか」
「ああ。最後の帰宅は、終わった」
車に乗り込む前、俺は部屋を振り返った。
ベランダの椅子は、朝日を受けて静かに影を落としている。
――遺族が知らなくてもいい。
この部屋には、確かに「帰り終えた時間」があった。
そして俺は、無意識にポケットの中の鍵を握りしめていた。




