第3話「戻ってくる人のための目印」
自分の鍵が「処分不可リスト」に載っている。
その事実は、じわじわと体の奥に染み込んできた。
倉庫の棚に置かれた紙を、俺は何度も見返した。
・玄関の鍵(自宅)
・携帯電話(黒)
書き方は、これまで見てきたリストと同じだ。癖のある字の跳ね、句読点の位置。三枝さんの字ではない。だが、誰のものかと問われても分からない。
「それ、見たか」
背後から声をかけられ、肩が跳ねた。
振り向くと、倉庫の奥にベテランの相原さんが立っていた。六十に近い年齢で、現場にはもうあまり出ない。帳簿や立ち会い専門の人だ。
「……見ました」
「驚いた顔だな。最初はみんなそうなる」
相原さんは煙草の箱を取り出しかけ、思い出したように仕舞った。ここは禁煙だ。
「三枝から聞いたか」
「少しだけ」
「じゃあ、続きを教えとくか。どうせ、もう遅い」
その言い方が、妙に静かで怖かった。
「昔な、勝手に捨てた奴がいた」
「捨てた……処分不可を、ですか」
「そうだ。若いのがな。『こんなガラクタ意味ない』って」
相原さんは棚を指で叩いた。
コン、と軽い音。
「その家で、変なことが起きた。夜になると、廊下を歩く音が止まらない。ドアノブが回る。誰もいないのに、風呂の湯が減る」
「……」
「遺族は最初、ノイローゼだと思われた。だがな、俺たちが行って分かった」
相原さんは、俺の目をまっすぐ見た。
「戻る場所を失ったんだ。目印を捨てられてな」
喉が鳴った。
冗談じゃない。そう言い切れない自分が、すでにどこかおかしい。
「処分不可って……誰が決めてるんですか」
「本人だよ」
「本人?」
「生きてるうちにな。無意識に“残したい物”を決めてる」
相原さんは続けた。
「人は帰宅するとき、全部を覚えてない。だが、鍵の重さ、靴ベラの感触、いつも触る物だけは覚えてる。死んでも、それは残る」
――戻ってくる人のための目印。
その言葉が、胸に落ちた。
その日の現場は、築浅のアパートだった。
四十代の女性。一人暮らし。病死。発見は早かった。
処分不可リストは短かった。
・冷蔵庫奥の小瓶
・ベランダの折り畳み椅子
俺は冷蔵庫を開け、小瓶を探した。調味料の影に隠れるように、小さなガラス瓶が一本。ラベルは剥がれ、蓋の縁が欠けている。中身はほとんど残っていない。
手に取った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
夕方の台所。換気扇の音。誰かが小さく鼻歌を歌っている。
映像じゃない。ただの感覚だ。
ベランダに出ると、折り畳み椅子が壁際に置かれていた。座面は日焼けし、脚の一部が歪んでいる。腰を下ろすと、ぎし、と音がした。
そのときだった。
背後で、網戸がかすかに動いた。
振り返る。
誰もいない。
だが、椅子の隣の床に、影が一つ増えている気がした。
「……戻ってきてる」
思わず、声が漏れた。
しまった、と思った瞬間、空気が重くなる。耳鳴りがする。
俺は立ち上がり、深く息を吸った。
返事をするな。
声をかけるな。
そのまま部屋を出て、椅子を「残す箱」に入れた。
作業後、遺族が部屋を確認に来た。
女性の妹だという人は、何度も頭を下げながら、最後にこう言った。
「なんだか……安心しました。理由は分からないんですけど」
その言葉を聞いたとき、俺は確信した。
戻ってきて、戻り終えたのだ。
夜、帰宅すると、玄関に違和感があった。
鍵の位置が、いつもと微妙に違う。
靴を脱ぎ、部屋に入る。
誰もいない。
それでも、確かに「帰宅の途中の気配」が残っていた。
俺は棚から、自分の予備の鍵を取り出した。
掌に乗せると、不思議と温かい。
処分不可リストの意味が、ようやく分かった。
――これは、死者のための仕事じゃない。
戻ってくる人を、ちゃんと帰らせるための仕事だ。
そして、その「人」には、もう俺も含まれている。




