第2話「価値のない物ほど、残される」
現場を出てからも、腕時計の針のことが頭から離れなかった。
あの止まっていたはずの針が、本当に動いたのか。錯覚だと言い聞かせても、あの「コツ」という音の感触が耳の奥に残っている。
会社に戻る車内で、三枝さんはいつもより無口だった。ラジオもつけない。ワイパーの音だけが、一定のリズムでフロントガラスを叩く。
「さっきのメッセージ……」
言いかけて、俺は口を閉じた。
聞くな。残せ。それだけ。
あの言葉が、喉に蓋をする。
倉庫で荷下ろしをし、「残す箱」は棚の一番奥に置かれた。段ボールには品名も現場名も書かれていない。ただ、赤いマジックで小さく丸が一つ描かれているだけだ。
「これ、いつまで置くんですか」
「タイミングが来るまでだ」
「そのタイミングって……」
「来たら分かる」
それ以上は、何を聞いても返ってこなかった。
数日後、次の現場でも同じ紙切れが渡された。
処分不可リスト。
内容は違うが、傾向は同じだった。壊れた傘、欠けたマグカップ、読まれた跡だらけの文庫本。どれも金にならず、思い出としても中途半端な物。
気づいたのは、作業が半分ほど進んだころだった。
リストにある物はすべて、「その人が最後によく触っていた場所」に置かれている。
傘は玄関のドア横。
マグカップは流し台の一番手前。
文庫本は枕元。
生活動線。
人が無意識に通る、帰宅の道筋。
試しに、リスト外の物を手に取ってみた。新品同様の皿。ブランド物の財布。何も感じない。重さも冷たさも、ただの物だ。
次に、処分不可の文庫本を持ち上げた瞬間だった。
紙の匂いに混じって、かすかな煙草の臭いが鼻をかすめた。誰かが、すぐ隣でページをめくったような気配。俺は反射的に本を閉じた。
胸が、いやに速く上下する。
その夜、会社の給湯室で三枝さんを捕まえた。
カップ麺にお湯を注ぐ背中に向かって、俺は言った。
「処分不可って、価値がない物ばっかりですよね」
「だからだ」
「だから?」
「価値があると、遺族が持ってく。残らない」
湯気越しに見る横顔は、疲れているようにも、諦めているようにも見えた。
「残らないと、どうなるんですか」
「迷う」
三枝さんは短く言った。
「人は死んでも、すぐに消えない。特に一人暮らしはな。帰る場所が分からなくなる」
「……だから、目印を?」
「そうだ。自分の痕跡がないと、帰り着けない」
冗談めかした口調ではなかった。
仕事の説明をする、ただそれだけの声。
その晩、自宅に帰ってからも、頭が冴えて眠れなかった。スマホを伏せ、通知を切る。
名前を呼ばれても、返事をするな。
メモ帳の文字が、暗闇に浮かぶ。
夜中、トイレに起きたときだった。
玄関の方から、かすかな音がした。
鍵が触れ合うような、金属の乾いた音。
俺は足を止めた。心臓が、耳の裏で鳴る。
玄関を見ない。声を出さない。
ただ、立ち尽くす。
しばらくして、音は消えた。
何事もなかったように、部屋は静まり返っている。
翌日、出勤すると、倉庫の棚に置いたはずの「残す箱」が、少しだけ前に出ていた。
誰かが触ったように。
箱の上に、新しい紙が置かれている。
見覚えのある、手書きの文字。
・玄関の鍵(自宅)
・携帯電話(黒)
最後に、小さく一行。
『価値のない物ほど、残される』
俺は紙を握りしめ、初めて理解した。
これは他人事じゃない。
この仕事は、死んだ人のためだけじゃない。
――戻ってくる人間は、まだ生きている側にもいる。




