第1話「処分不可リスト」
遺品整理の仕事は、片づけじゃない。
そう言ったのは面接のときの所長だった。俺は「へえ」と相槌を打っただけで、深く考えなかった。片づけに見える仕事を、別の言い方で格好つけるのはどこにでもある。
現場は郊外の古い団地だった。エレベーターのない四階。冬の階段は、コンクリの冷たさが靴底から伝わってくる。ドアの前に立つと、鼻の奥に古い布の匂いが刺さった。鍵は遺族から預かってある。金属が回る音が、廊下に薄く響く。
「竹田。今日はお前が記録な。写真と、処分の仕分け」
先輩の三枝さんが言った。短く刈った髪に、埃が白く付いている。慣れた人の動きは迷いがない。
部屋は一人暮らしの男のものだった。六十代。孤独死。発見まで数日。特殊清掃は済んでいる。床には消毒の匂いが残り、窓は少しだけ開けられていた。家具は安い合板の棚と、黄ばんだカーテン。テレビの画面には指の跡が何本も伸びている。
段ボールを組み立てていると、三枝さんが俺に紙切れを渡した。A4を四つ折りにした、薄いメモ用紙だった。
「これ。今日の“処分不可”」
「処分不可?」
「捨てるなってこと。残す箱に入れろ」
紙は手書きで、箇条書きが並んでいた。
・腕時計(止まっている/茶色のベルト)
・鍵束(青いタグ付き)
・小さいメモ帳(角が潰れている)
・水色の歯ブラシ(毛先が開いている)
・玄関の靴ベラ(黒/ひび)
俺は思わず顔を上げた。遺品の中でも、価値があるものなら分かる。通帳、印鑑、現金、貴金属。だが書かれているのは、捨てても誰も困らなさそうな物ばかりだ。
「遺族の希望ですか?」
三枝さんは首を振った。
「違う。会社のルールだ」
「ルールって……なんで?」
「聞くな。残せ。それだけ」
そう言って三枝さんは台所へ向かった。流し台の下を開け、迷いなく袋を分け始める。俺は紙を握ったまま、妙に乾いた唇を舐めた。
作業は単調だった。衣類は可燃、雑誌は資源、食器は段ボール。俺は写真を撮り、数量を記録し、遺族が引き取る箱に付箋を貼る。手際が悪いと見られないよう、無駄な動きを削る。こういう仕事は「早い=正義」だ。
紙にある物を探すのは、宝探しみたいで気持ちが悪かった。腕時計はタンスの奥から出てきた。止まった針は二時十七分を指している。鍵束は台所の引き出し、青いタグに掠れたマジックで「物置」と書かれていた。水色の歯ブラシは洗面台のコップに刺さっていて、毛先が鳥の羽みたいに広がっている。
小さいメモ帳を見つけたのは、布団の下だった。寝汗の匂いが染みた敷布団を持ち上げたとき、カサ、と薄い音がして紙が現れた。角の潰れた黒い表紙。俺は手袋の指でそっと開いた。
一ページ目に、震えるような文字があった。
『返事をするな』
心臓が一拍遅れて鳴った。冗談だろ、と笑い飛ばしたかったが、喉の奥が硬くなって声が出ない。次の行には、さらに小さくこう書かれていた。
『戻ってくるまで、捨てるな』
俺はページをめくる。日付が飛び飛びに並んでいて、買い物のメモや薬の名前、誰かの電話番号が書かれている。その間に、同じ文が何度も挟まっていた。
『返事をするな』
『目印を残せ』
『捨てるな』
背中の皮膚がじわりと粟立った。部屋は静かだ。窓の隙間から風が入り、カーテンがわずかに揺れる。なのに、何かがこちらを見ているような気配がした。
「竹田、どうした?」
三枝さんの声で肩が跳ねた。俺は慌ててメモ帳を閉じ、段ボールへ入れた。
「……これ、処分不可のメモ帳です」
「そう。入れとけ」
三枝さんはそれ以上何も言わない。見なかったふりをするように、作業へ戻った。俺は紙切れのリストをもう一度見た。たしかに「小さいメモ帳」とある。偶然なのか?いや、偶然にしては具体的すぎる。
昼を過ぎたころ、玄関で靴ベラを見つけた。黒いプラスチックの先端に、細いひびが走っている。俺が手に取ると、冷たい感触の奥に、妙な温度があった。誰かがさっきまで握っていたみたいな。
思わず、玄関の外へ目をやった。廊下には誰もいない。遠くで子どもの笑い声がして、団地の生活音が戻ってくる。それが逆に怖かった。この部屋だけ、別の時間に取り残されている気がした。
作業が終わり、段ボールが廊下に並んだ。遺族に渡す箱、処分の袋、資源の束。そして、最後に「残す箱」。紙切れの“処分不可”に該当する物だけをまとめた、小さな箱だ。
車に積む前、三枝さんがその箱にガムテープを貼った。封をする手が一瞬だけ、躊躇うように止まる。俺はその指先を見て、背筋の寒さが確信に変わった。
これは、遺族のためじゃない。
「三枝さん。これ、誰のために残すんですか」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
三枝さんはテープの端を押さえたまま、俺を見ずに言った。
「帰ってくるやつのためだよ」
「……帰ってくる?」
「だから、聞くなって言っただろ」
そのとき、俺のポケットの中で、スマホが震えた。通知音は鳴らない設定にしているのに、振動だけがやけに大きい。画面を開くと、メッセージが一件。
送信者は——表示されていない。番号も、名前も空欄。
本文だけが、そこにあった。
『返事をするな』
手のひらが冷えた。俺はスマホを握りしめ、周囲を見回した。廊下、階段、窓。誰もいない。三枝さんは黙ったまま、残す箱を持ち上げて車へ向かう。
背中越しに、かすれた声が落ちてきた。
「いいか竹田。家の中で、名前を呼ばれても——」
言い終わる前に、俺の背後で、室内から「コツ」と音がした。
腕時計の針が、動いたような気がした。




