合格の意味とは
大学のシステムに疑問を覚えたのは、入学してしばらく経ってからだった。
きっかけは、大きな事件でも、誰かとの衝突でもない。履修登録の画面を、何度も更新していた、あの静かな時間だった。
大学に入るまで、受験というものは通行証のようなものだと思っていた。
試験を受け、点数を取り、合格する。そうすれば、その大学で学ぶ資格を得られる。
少なくとも、学びたいものを学ぶための入口には立てる。そう信じていた。
だから勉強した。
学問が好きでたまらなかったわけではない。それでも、将来や選択肢や、そういう曖昧なもののために、問題集を開いた。
眠い目をこすりながら、意味も分からないまま覚えた公式や年号が、無駄になるとは思っていなかった。
時間も使ったし、金も使った。
受験料も入学金も授業料も、安くはなかった。
「大学は高い」と、誰かが言っていたが、その言葉は、入学してから少しずつ重みを持ち始めた。
大学は、自分で学びたいことを選べる場所だと、誰もが言っていた。
高校までとは違い、決められた時間割はなく、興味のある授業を自由に履修できる。
主体性が求められる場所なのだと、何度も説明されてきた。
ところが、実際に画面に表示されたのは、「定員超過」「抽選」「履修不可」という、冷たい文字の並びだった。
受けたいと思った授業ほど、なぜか受けられない。
シラバスを読んで、これは面白そうだと思ったものに限って、最初から弾かれていた。
理由は、分からなくもない。
人気の授業には人が集まる。教室には限界がある。教員の数も、無限ではない。
理屈としては、納得できる部分もあった。
それでも、腑に落ちなかった。
なぜ、受験をして、合格して、お金を払ったのに、学びたい授業を選べないのか。
この大学に入るための競争は、確かに存在していた。
定員があり、倍率があり、ふるいにかけられてきたはずだった。
その時点で、もう一度選別は終わっているのではないのか。
なのに、入学してから、さらにふるいにかけられる。
今度は点数ではなく、抽選という名の運や、履修登録開始時刻にログインできる環境や、回線の速さで。
友人は言った。
「仕方ないじゃん。みんな同じ条件なんだし」
その言葉は、正しいようで、どこか雑だった。
大学は、自由だと言われている。
だが、その自由は、選べるふりをした制限の上に成り立っているように見えた。
選択肢はあるが、選べるとは限らない。
それは自由というより、ただの可能性の展示に近かった。
履修できなかった授業の代わりに、興味のない授業を選ぶ。
空いた時間を埋めるために、内容をよく知らない講義を登録する。
それでも単位は同じで、学費も同じで、成績表には同じように並ぶ。
学びたいと思う気持ちは、評価されない。
評価されるのは、出席率と、レポートの形式と、締切を守ったかどうかだけだ。
何を学びたかったのかは、どこにも記録されない。
疑問は、誰かに強く訴えるほどの怒りにはならなかった。
抗議するほどでもない。署名を集めるほどでもない。
ただ、心の奥で、ずっと小さく、しかし確実に引っかかっている。
この場所は、本当に学ぶための場所なのか。
それとも、制度に従い、与えられた選択肢の中から無難なものを選ぶ練習をする場所なのか。
受験のとき、ここに入れなかった人たちの顔が、ふと浮かぶ。
彼らが落ちた理由と、自分が受けられない授業の理由は、どこか似ている気がした。
どちらも、本人の意志とは関係のない場所で、決まっている。
画面を閉じても、その問いだけは消えなかった。
大学生活が進めば進むほど、慣れていくはずなのに、違和感だけは薄れなかった。
この疑問に名前が付く日は、まだ来ていない。
ただ、それは確かに、ここに存在していた。




