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夏が近付くに連れて気温が上がっていく。梅雨の湿度とともに上がる体感温度は不快感を与え、天はそれを分かっているかのように洗い流すように雨が降る。抱えている感情も雨に流され、心の叫びも雨音に消える。周りの人からの目線も傘を差せば遮ることが出来る。
朝起きた時に聞こえた音は家の壁に勢いよく雨粒がぶつかる音だった。アパートに母親と2人で暮らしている僕は誰に起こされることもなく1人でベッドから起き上がる。物音がしないため母親はまだ寝ているらしく、起こさないように慎重に行動をする。僕が学校から帰る頃に仕事へ行き、僕が寝ている時間に帰ってくるため顔を合わせる機会は少ないが、リビングに行くと朝ごはんが用意されており寝る前に準備していてくれたことが分かる。
母の休日は露骨なほどに僕を誘って出かけようとしてくるが疲れているはずの母親に気を使われたくなくて家から外出をすることは殆ど無い。母と仲が悪いわけでは決して無く、生活の面倒を見てもらっているし感謝をしている。話すこと機会が少なくなったことと思春期が組み合わさって少しだけ気まずくなっているだけなのだ。
用意されていたスープを温めなおし、冷蔵庫からサラダとトーストを取り出して朝食の準備する。顔を合わせず1人で黙々と朝食を食べていると昨日のことを不意に思い出した。1人で過ごしていると余計なことばかり考えてしまう。昨日の内に自分の中で折り合いをつけ、寝れば整理されると思っていた感情がじんわりと心を蝕んでいく。
誰かに声を荒げられたのは初めてだったのでその言葉やその表情が家に帰ってきても目にこびり付いて離れることはなかった。今までのように須藤と話すことも顔を合わせることも無いが変に意識してしまう。今日一日が終わってしまえば何事もなかったと言ってしまえるだろうが、始まる前は変な想像が頭を支配する。
カタツムリくらいしか喜びを感じ得ないジメジメとした気候の中学校へと向かう。雨の日は何時もよりも早く家を出る。車に水を跳ねられないように注意したり、水たまりに気をつけて歩いたりしないと靴の中に水が入り込んで靴下が濡れてしまうから。そのまま1日を過ごすのは酷く不快なのだ。
雨の日は朝なのに世の中が暗く感じる。太陽が遮られている事で陽の光がなく暗いのはもちろんのこと、人々の心も晴れの日よりも気にすることが多いようで重く見えてしまう。差された傘のカラフルさだけが雨の中に映えている。上空から見たら通学路を埋め尽くす傘の彩りが紫陽花のように見えているのかも知れない。
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起きてから考えていたほどには朝の日常に変化はなかった。いつも通り教室へ向かう間に須藤や昨日の女子生徒に出会うこともなく自分の席へと着席する。
少しだけ早く家から出たにも関わらず学校に着いたのは何時もよりも遅かった。晴れの日の同じ時間に家から出ていたら間に合わないことは過去に経験しているのでミスを犯さずに済んだ。遅れて教室に入ると生徒の目と教師の目が一斉に僕の方を向く経験は二度とゴメンだ。
「おはよう」
「おはよう。今日は早いね」
「この雨じゃ部活の朝練も休みだからな」
いつもなら着席する時間には前の席は空席となっていることが多い。今日は雨のせいか部活が休みとなっていた大森がすでに目の前にいる。大森が運動部に所属しているのは聞いていたが外でやる部活なのは初めて知った。知ったからといって何かが変わるわけではない。
「すごい雨だよね」
「そうだな。梅雨だし、この雨じゃ上がったからといって地面が泥濘んでいて部活どころじゃないかもな」
「そうなんだ。大変だね」
どの部活も全国大会に出場するほど強くもないので部活と言っても学生時代の青春を彩る1ページ程度にしか考えていない。その彩りすら僕にはなく白黒の青春になっているがあえて色を付けたいとも思っていない。
大森と雑談をしていると黒板側の入口から、昨日帰り際に話しかけてきた女子生徒が友達と一緒に教室に入ってくるところが見えた。考えていた通り同じクラスの人だったみたいだ。僕が女子生の方を見ていても向こうはこちらの方を見ることはなかったので目が合うことは無い。
「そう言えば大森に聞きたいことがあったんだ」
「珍しいな。夜月から話題を出すなんて」
「気になることがあってね」
「何でも聞いてくれ。答えられることなら答えるぞ」
「ありがとう。大森ってクラスの人の事結構知ってる?」
「全員と仲が良いとは言えないが名前くらいは知っている」
須藤の言っていた結衣という人が何処にいるのかを知っておきたい。まだ先輩がこの教室に来ていないのでサポートをしてもらうことは出来ないが自分から先輩のために動くのも悪くはないだろう。
仮に大森が知らなかった場合、手がかりが無くなってしまうので先輩に調べてもらうしかないだろう。他の人に見えないからこそ堂々と正体を調べてもらうことが出来る。
「下の名前が結衣って生徒知ってる?」
「このクラスでか?」
「うーん。分からないけどクラスの中にいるの?」
「学校中の生徒って言うなら俺には分からないぞ。だがクラスの中には1人だけ結衣って名前の生徒は居る」
大森は指をさすことをせずにその生徒が今いる場所を確認する。
「一番左の列の前から3番目の席にいる背の高い女子いるだろ?」
「うん」
「あいつの下の名前が結衣だったはず」
「苗字は?」
「柊。柊結衣って名前だ」
大森から教えてもらった生徒は昨日出会った女子生徒だった。もしかしたら須藤さんから出てきた結衣という女子の名前は同じクラスの柊のことなのかも知れない。柊が須藤に対して性格が悪いと言っていたことを思い出す。仲が良いわけではないのだろう。寧ろ悪口を言っている辺り険悪な可能性のほうが高い。一方的だが言い合っていた僕の元へとやってきて関わりを止めるように言ってくる程には相手のことをよく思っていない。
「そっか。ありがとう」
「それだけか?」
「それだけ。柊の事が気になってね」
「夜月もそういう感情がちゃんとあるんだな」
「そういう感情って?」
「ん?柊の事が好きなんだろ?」
同じような事を昨日も言われた気がする。ただ話していただけなのに柊には須藤のことを狙っていると勘違いされたし、2日連続で面倒な勘違いをされても困るのだ。あいも変わらず柊のことも知らないので大森のいう感情を僕が持っているはずがないのだ。
「違うよ。柊の事を気になっているであろう人がいるからさ」
「よくわからないが」
「ま、気にしないでよ」
大森には関係のない話だ。昨日起こったことを態々話すほどでもない。すでに須藤は自分の席に座っており、1人で本を読んでいた。かわいい柄のブックカバーを着けているため何の本を読んでいるかはわからない。距離の離れた場所では柊が友人と談笑をしており、昨日までは気づけなかった教室の居場所を感じ取ることが出来た。
「雪くんおはよう。ごめん。遅刻しちゃった」
大森との会話を終えて席に座りネットサーフィンをしながら朝のホームルームが始まるのを待っていると入口を無視して壁を透過するように先輩が現れた。
そのまま僕の方へ来て遅刻の旨を伝えてくるが先輩には遅刻の概念が無いはずだ。この学校には居るがきちんと登録されている在校生ではない。それにこの学校から出ていないのなら既に校内には居た事になり、遅刻どころかこの学校に一番早く居たのは先輩ということになる。
授業の準備をするふりをしてルーズリーフと筆記用具を取り出す。シャープペンを取り出して先輩に対して筆談を始める。クラス内で虚空に向かって話すことは出来ない僕が先輩とどうしても会話をしなければならない時に使う方法だ。
『おはようございます』
「おはよ。昨日の須藤さんのこと考えてたらここに来るの遅れちゃった」
『問題ないですよ。それよりもお昼休みに昨日の件で話したいことがあります』
「なにか分かったの?」
『須藤の言っていた結衣という生徒が分かりました。一番左の列の3番目の席に座っている人です』
「昨日帰り際に話しかけてきた人だね。あの人が須藤さんの言っていた結衣さん?」
『そうかも知れません。他の結衣さんの可能性もありますが』
「分かった。ちょっと調べてみるね」
『どうやって?』
「昨日あんなことがあった訳だし、友達とその話をするかも知れないでしょ?近くに言って話を聞くだけだよ」
『そうですか』
「心配しないで。今度はちゃんと役に立てるように頑張るから」
『了解です』
筆談する僕にに対して声で返答する先輩とでは会話のテンポが悪く、僕だけが大変な思いをしているように感じる。会話の文章量を筆記するのは文字数から面倒なのだ。次からは文字を直接書くのではなくスマホで打ち込んで先輩に直接見てもらうほうがいいかも知れない。
僕のそばを離れてふわふわと柊の方へ飛んでいく先輩。先輩の調べる方法は直接その人の近くに行って会話を聞くという力技らしい。先輩にしか出来ないやり方なので幽霊という特性を存分に生かしているとも言える。




