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咄嗟に出てきたのは須藤が大森に言った消しゴムの噂の話。元々須藤にはこの噂の話を聞こうとしていたのだ。須藤から大森に伝えたと言うことは須藤にとって不機嫌になるような話題ではないということなので話題の転換として問題ないはずだ。
「それ誰から聞いたの?」
「えっと」
須藤さんから感じる謎の威圧感にたじろいでしまう。不機嫌さも一層増して怒っているようにも見える。先輩も視界の隅で右往左往しており、何が何だか分からなくなってきた。
「お」
収集が付かなくなる前に話をちゃんとつけなければならないと思い、大森から聞いたと正直に話そうとした。だが僕の言葉に上から被せるように須藤の小さな声が嫌なほど耳に響く。
「結衣から聞いたんでしょ」
「え?」
「だからあんた、結衣から聞いたんでしょって言ってるの!」
結衣って誰のこと、などと聞ける空気でもない。本当に誰のことか分からない。今日一日しか須藤さんのことを見ていないが誰かと話しているところは見ていないので結衣という人物には皆目見当がつかないのだ。
頭では色々と考えることは出来るのだが、目の前で鬼気迫る表情で僕を詰めてくる須藤に対して言葉にならない声しか出てこない。
「いや、あの」
「なに?あんたも私が悪いって言いたいの?」
「わ、分かんないけど」
「放って置いてよ!」
その怒号と共に胸を突き飛ばされた。倒れ込むほどの強さでも無かったので少し後ずさる程度で済んだが、押されてしまった場所が熱く感じる。誰かに対して怒鳴られた経験なんて殆どなく、暴力を振るわれた経験だってない。感じたことのない衝撃に視界がぼやける。
何一つ上手く出来なかった。僕に会話をする能力があれば須藤は不機嫌にならずに済んだのかも知れない。
僕を突き飛ばした須藤は此方を一切振り返ることもせずに下駄箱で靴に履き替え学校の外へと出ていってしまった。僕も声をかけることなど出来ずにその背中を目で追うことしか出来ない。
1人唖然と須藤の背中を見ていると誰かが歩いてくる音がする。今まで誰とも会わなかったが、校内には生徒が残っているため誰かが下校してもおかしくはない。
その足音は下駄箱に向かうのではなく僕の近くで止まった。その事を不思議に思い、立ち止まった生徒のほうへと振り向いた。
そこにいたのは僕よりも少しだけ背が高い女子生徒。その生徒も僕の隣に立って去りゆく須藤の背中を追っているように見えた。
「大きな声が聞こえたと思ったらまたあの子なんかやったの?」
隣にいるから話しかけるのは当然だろうと僕に話しかけてくる。須藤の知り合いみたいだが見たこともない生徒だ。
「別に何もされてない、ですよ」
「同じ学年なんだから敬語じゃなくていいって」
同じ学年の生徒らしい。僕の事を1年だと分かるのは教師かクラスメイトの人しかいないはずなので横に立っている女子生徒はクラスメイトなのかも知れない。
今日一日で話したことのない女子生徒と2人も会話をしてしまった。須藤のことを何故か怒らせてしまったので横にいる女子生徒の事を怒らせないように慎重に言葉を選ぶ。
「須藤さんを怒らせたみたい」
「あの子のこと狙ってるの?」
「狙ってるって何が?」
「好きなのってこと。顔は可愛いしね」
先輩も恋バナが好きだったことを思い出す。やはり女子高生は何かと付けてすぐに恋バナをしたくなる生き物なのだろうか。
初めて話した僕相手に恋バナをしても面白くもないと思う。そもそも須藤の事を恋愛対象として見るには知り合ってから時間が足りなさ過ぎる。僕と須藤の関係なんて一方的に知っている僕と、その僕に対して怒りを燃やしただけなのだ。
「違う」
「ま、何でもいいけど。あの子はやめておいたほうがいいよ。性格最悪だから」
「だから違うって。別に好きとかそういう訳じゃないよ」
「そ。あの子のことはどうでもいいわ。それじゃあね夜月くん」
一方的に言いたいことだけを言ってから去っていく女子生徒。最後まで彼女は自分の名前を言うことはなく、僕も知ることが出来なかった。相手は僕のことを知っているのに名前を聞くなんて、また怒られてしまう可能性があった。
それよりも、こんなに大変な状況になったのにも関わらず動揺して狼狽えていただけの先輩に対して呆れてしまっていた。意気揚々と「私がサポートする」なんて言っていたにも関わらず全く役に立っていなかったのだ。
辺りを見回して人の影が見えないことを確認してから先輩に話しかける。
「……先輩」
「はい」
いつもは僕の頭の高さを飛んでいる先輩も今だけは腰のあたりを浮遊しており、空中で正座の体勢をしている。自分でも役に立っていなかったことが分かっているようで反省をしているような顔つきのまま僕の方へと近付いてきた。
「助けてほしかったです」
「ごめんなさい」
「何で須藤が急に怒ったのかも分からないですし」
「それは私も分からないです」
「怒ってるわけじゃないですからいつも通りでいいですよ」
「ごめんね。私も急にあんな状況になって動揺しちゃったっていうか」
「そこはお互い様です。僕もあの状況でパニックになって言葉がうまく出てこなかったので」
この場で何方が悪いという話をしても埒が明かない。何方が悪い訳でもなく状況が悪かっただけだ。
冷静になった今考えてみると、須藤に噂の話を聞いた結果不機嫌になってしまったということは何処かで不機嫌になる要素があったということだろう。もしかしたら噂の話自体が須藤にとっては聞かれたくなかった話なのかも知れない。それに須藤が言っていた結衣という名前。僕には誰のことか分からないので明日になったら大森にでも聞くことにする。
後から出てきた女子生徒もクラスメイトみたいなのでそれも確認する必要があるだろう。今後関わることがあるかは分からないが事実確認だけはしておきたい。
「とりあえず今日は疲れたので帰りますね」
「ごめんね。また明日」
何も出来なかった自分に落ち込んでいるのか何時もよりも表情が暗くなっている。先輩は楽しそうに笑っている姿が印象的で今のように気分の沈んでいるような表情は似合わないとすら思う。
「そんなに落ち込まないでください。また明日から一緒に噂のこと調べましょう」
「いいの?」
「いいですよ。それに須藤を怒らせちゃったみたいなのでその解決には女子である先輩の力も借りたいですし。仲良くなりたい訳では無いですが嫌われたくもないので」
怒らせてしまった女子相手にどうしたらいいか経験もなく分からない。今回の件に関して言えば怒らせてしまったのは事実だがすれ違いや勘違いの類のため話せば分かってもらえるかも知れない。それを話すためにどうするのか僕では思いつかないため先輩に協力してもらいたいのだ。
「協力する。今度はちゃんと任せて」
「期待してますね。それじゃ帰ります」




