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下駄箱に向かうまで他の生徒に出会うことはなかった。下校するには中途半端な時間であり人の影すらも感じられない。僕が履いているスリッパの音だけが廊下に響く。近くには先輩がいるのに聞こえる足音が一つという状況にも慣れてしまった。
「今日の雪くんは帰ったら何するの?」
「いつも通りですよ。ご飯食べて勉強してお風呂入って寝るだけです」
「つまんないの」
「家に帰るだけで面白いことなんて起こりませんよ」
空き教室は3階にあるため下駄箱までは距離があり、生徒がいないため先輩と話していた。一応周囲を確認してから会話をしているが、誰かがいた時のためにスマホを手に持っている。誰かと電話をしているフリをすれば変に思われないだろう。僕のスマホに入っている連絡先は親しかないのだが。
「雪くん、雪くん」
「なんですか?」
「彼処にいる子ってさ」
先輩が指をさす方向を見るとそこには1人の女子生徒が俯きながら此方へ向かってきているところだった。彼処にいる子と言われても対象の女子生徒の顔を見たことがなく、初めて見る顔だった。
先輩の知り合いという線は薄いし、何かしらのアクシデントでもあるのだろうか。
「あの生徒がどうしたんですか?」
「え?チャンスじゃん」
「そもそも誰ですかあの人。僕は知らないんですけど」
先輩の手が思いっきり僕の頭を通過した。実態があったのなら叩かれていたのだろう。何が何なのか分からず困惑する僕とは対照的に、先輩は呆れたような顔で僕と女子生徒を交互に見ている。
「同じクラスの須藤さんだよ」
その言葉を聞き、咄嗟に靴箱の陰に隠れ、万が一にも須藤本人に聞こえないように小声で先輩と会話をする。
「あれが須藤?っていうか何で先輩が同じクラスの僕よりも知ってるんですか」
「私は須藤さんの顔を見に行ったからね。どんな子かなって」
噂の話を聞いてからふらふらしていると思っていたが野次馬根性をしっかりと発揮していたようだ。僕の席は教室の後ろ側にあり、教卓の前に座る須藤の後ろ姿しか見えていないため須藤の顔を知らなかった。あまり噂に興味も湧かなかったので視界には入るもののそれ以上の情報を得ようとはしなかった。
「雪くんさっき言ったよね。機会があれば話すって」
「言いましたっけ?」
「言ったよ。雪くんの声は私の耳にしっかりと届いてる。周りに生徒はいないし、須藤さんも1人。声をかけるのならまたとない機会じゃないかな?」
何ヶ月も前の話ならばまだしも、須藤と機会があったら会話をすると約束したのは30分ほど前のことで僕も先輩も忘れているわけがなかった。一縷の望みにかけて誤魔化そうとしてみたものの僕の希望は儚く砕け散った。
いきなり須藤と2人で話す機会が来るとは思っていなかったため心の準備が何も出来ていない。話す内容も考えていないので何を話せばいいか分からない。僕と須藤に接点はなく、僕は一方的に須藤のことを噂関係で知っているだけなのだ。
「また今度にしませんか?何も準備できて無いですし」
「雪くんはそうやって逃げるつもりでしょ」
「そんなことはありませんって」
この場から逃げるつもりなのは確かだが先輩との約束を反故にしたい訳では無い。機械やタイミングを図ってからにしたいのだ。
話す内容を精査し、聞かれそうな質問をリストアップして悪く思われないように話したい。
「雪くんがそんなんじゃ友達出来ないよ。私が声かけてくるからね」
先輩はそう言うと下駄箱から勢いよく飛び出した。そして須藤の方へと大きく手を振りながら近付いて行く。
「おーい。須藤さーん」
「ちょっと待って!」
必死になって先輩を止めようと僕も下駄箱から飛び出したがすぐに自分のミスに気付いた。先輩の姿は他の生徒からは見えないし声も聞こえない。それは須藤にも当てはまる。須藤からすれば慌てた僕がいきなり下駄箱から飛び出してきたようにしか見えないだろう。
先輩は悪戯が成功した子供のように笑っている。先輩と普通に話しているからこそ起こった弊害だ。日常生活では気をつけているものの焦っている時には先輩が幽霊だということを忘れてしまう。
大きく声を出しながら下駄箱から飛び出した僕に須藤が気付かないわけがなかった。
「えっと、夜月くんだよね。どうしたの?」
少し距離があったはずだが動揺して立ち止まっている僕の元へと須藤は歩み寄って来る。
「須藤さん……。いや、なんでもないよ」
説明しようにも何から何まで言えないことばかりで誤魔化すしか無かった。このアクシデントを引き起こした諸悪の根源は宙に浮きながら僕と須藤の会話を見守っている。
会話が気まずくならないように先輩にアイコンタクトでフォローを頼むも両拳を胸の前に持ってきて「頑張って」と伝えてくるだけだった。
「そ。ならいいけど。それよりも夜月くんって私の名前知ってたんだ」
「同じクラスの人だから当然だよ」
今日まで名前も顔も知らなかったなど本人を前に言えるわけがない。大森のせいで始まったこの件だが大森と会話をしていたおかげで須藤と気まずくならないで済んだのは不幸中の幸いだ。
「いつも後ろの方の席に座ってるだけだから皆のこと興味ないと思ってたよ」
「喋るのが苦手で。興味ないとかそういう訳じゃないよ。須藤さんは僕みたいな奴の座ってるところまで把握してるのは凄いよ。須藤さんもその、人付き合いが得意そうには見えないし」
現に教室では常に1人で過ごしている須藤は人付き合いが得意には見えない。コミュニケーション能力が高ければ友人などと休み時間に話すだろう。昼休みは僕が教室から出ていって空き教室にいるので須藤がどのように過ごしているか分からないがクラスの誰かと一緒とは考えにくい。
「……そんなことないよ。それじゃ」
須藤は僕から視線を外して下駄箱の方へと向かおうとする。
「あ、えっと」
「なに?何か用?」
先程までの会話とは打って変わったように不機嫌さを隠そうともしない言動と態度に思わず声をかけてしまった。1人でいる人に掛ける言葉じゃなかったのかも知れない。須藤が僕に対して1人で居ると言ってきたから僕もそれに乗っかっただけなのだ。会話の何処で不機嫌になる要素があったのか分からない。
ちらりと先輩の方を見ても首を傾げているだけで役には立たなそうだ。呼び止めてしまったのだから会話を続けなければならない。
「噂」
「なに?」
「消しゴムの噂って知ってる?縁を切るって奴」




