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「そう言えば夜月って噂とか知ってるか?」
朝のホームルームが終わって1限の準備をしている最中、前の席に座る大森が後ろを振り返って話しかけてきた。詳しくは知らないが部活の朝練を終えてから教室に来るため制汗剤の匂いが僕の鼻をくすぐる。梅雨時の曇天に似つかわしくない爽やかな匂い。
「噂ってどんなの?」
クラスに1人でいる僕が校内に流れる噂を知っているわけがない。横にいる先輩が興味ありげにしているのを見てしまったが最後、大森に詳細を聞かないわけにはいかなくなった。
「俺も詳しくはないんだけどさ。消しゴムの片側に自分の名前、もう片側に好きなやつの名前を書いてから使い切ると恋愛成就するってやつ」
「それ私知ってるよ。まだその噂流れてるんだね」
「いや、僕は全然知らないし聞いたこともない。それがどうかしたの?」
誰かしらがその噂について話しているところを先輩が聞いたことがあるのか定かではないが、大森の自作自演の噂では無いことが先輩によって証明される。
聞いたこともなかったが先輩はいつからこの学校にいるのだろうか。死んでからここにいると言っていたが何時死んだのかも僕は知らない。「いつ亡くなったんですか?」と簡単に聞くほど僕たちの関係は深くない。それを聞くことで先輩に不躾なやつと思われるのも嫌なので聞けず終いだ。
亡くなった人に自分の最期を聞くことなど本来できることではない。人と関わる事が苦手な僕でも物事に関する興味は強い。野次馬根性が染み付いていると言っても過言ではない。
大森の話す噂の内容は聞き飽きるほどレパートリーが多くなっている消しゴムで行う恋愛成就のもの。大人になれば教室で誰かと勉強をして消しゴムを使うという機会は限られてくるため、学校生活を送っている今でしか起こることがない噂。
「恋愛成就のやり方と同じやり方をして相手との関係を断つっていう噂も聞いたんだよ」
「ふーん」
「その噂の方は聞いたことないかも」
「皆に聞いたけど誰もその噂を知らないんだよ。俺も人から聞いただけでさ」
「大森はその噂を信じてるの?」
「噂の内容自体は信じてない。でも同じことをして別の結果が望まれているっていうのが気になるだけだ」
消しゴムの両面に名前を書いて使い切ると恋愛成就するか相手との縁を断ち切ることができるかの2分の1ならリスクに対してリターンが小さすぎる。そんな噂なら広がることはないはずだ。大森以外の誰も知らない内容なら噂とも言えないだろう。
「大森くん以外知らないのに大森くんに教えてくれた人がいたってことでしょ?それが誰か聞いてほしいな」
女子高生は恋バナが好きとはいうが先輩も例に漏れず大森の話に身を乗り出して興味津々な構えをとる。正直僕はこの手の恋愛話には興味がない。背中合わせに書かれた名前が縁の要になっている話には少しだけ興味が湧く。
先輩がいつもより楽しそうなので僕も協力をすることにした。代わり映えのない日常に起こる小さな非日常を僕も先輩も潜在的に求めているのだろう。
「大森に噂を教えてくれた人って誰?」
「気になるのか?」
「まあね」
「夜月もおまじないとか占いとかに興味があるタイプだとは知らなかったな」
僕が好きなのではなく隣にいる先輩が楽しそうだから話に乗っているとは口が裂けても言えない。いきなり幽霊の先輩が興味を持ったからだと伝えようものなら僕自身が噂になってしまうだろう。
「ま、それは今いいよ」
「中学からの付き合いだけど知らないことはまだまだあるもんだな」
「それはそうだよ。どんなに仲が良い人でも知らないことのひとつやふたつは絶対に存在するって。ましてや僕と大森は同じ中学出身で軽く話す程度の仲だし」
「それもそうだな。話を元に戻そうか」
「えっと、大森に噂を教えてくれた人を知りたいんだけど」
大きな声で言うのは憚られる内容なのか、口に手を添えて手招きをする。机から少しだけ身を乗り出して耳を大森の方へと向けた。
他の人には聞こえない声量で大森は話し出す。
「教卓の前の席の女子に教えてもらった」
乗り出た身体を下に戻して椅子に座る。
大森から言われた教卓を見るとその前には一人の女子生徒が座っていた。クラスの中でも僕と同じように友達が居ない人。名前は覚えていないが事務連絡以外で彼女が喋っているところを見たことがない。
「ごめん。名前とか知らないや」
ここまで会話に参加していなかった先輩から大きなため息が漏れる。顔を見なくてもクラスメイトの名前くらいは覚えておけという言葉が吐かれた息から滲み出てくるようだ。
もう2カ月も経つのにクラスメイトの名前を覚えていないのは単に必要がなかったから。言われれば誰か分かると思うがすぐに名前が出てこない。自分から名前を呼ぶこともない。
「あいつの名前は須藤燈。最近は1人でいることが多いな」
「その須藤さんがどうして大森に噂の話なんてしたの?話してるところあんまり見たことないけど」
大森は基本的に男子と喋っていることが多く、女子と話しているところを見たことがない。所謂1軍に属する人間なのだが浮ついた話も聞いたことがない。運動部なため体つきもよく顔も悪くないしモテているとは思う。
「化学の授業って席が決められてるだろ?」
科学室で行う授業ではテーブルごとに5、6人が分けられている。そのグループで実験を行ったり提出物などを作る。大森と須藤さんはそのグループが同じらしく話すタイミングがあったのだろう。
「うん」
「いつも通り授業受けてたら須藤に話しかけられたんだよ。他の4人が片付けしてて俺たちが実験結果を纏めるみたいな話になってな」
「それで?」
「俺が書くものを間違えたから消しゴムを使って修正をしようとした時、縁を断ち切る噂を聞いた。須藤も誰かから聞いたって言っていた気がするがよく覚えてない」
テレビで人の記憶についての実験を観たことがある。人は相手から直接話を聞くよりも、第三者として誰かが話している情報を又聞きするほうが記憶に残りやすいらしい。話を全てではなく断片的に聞いてしまうことで脳が重要なことだと認識してしまうと言っていた。その情報自体は覚えているのに誰が言っていたかは覚えていない事が多いらしい。
須藤も誰かが話しているところを又聞きする形で噂を仕入れてしまったため、誰が話していたかも知らないようで噂の出どころは分からなくなっていた。
「そんな噂、私が校内ウロウロしてても聞いたことがないなあ。恋愛成就のおまじない自体も、使い切ることで悪縁を消し去るからって意味があったと思うけど」
先輩はふわふわと浮かんだまま顎に手を当てて考え込んでいる。他の人から見えていないからと言って面白い動きをするのは勘弁してほしい。僕には先輩の姿が見えているためおかしな行動をしていたら目で追ってしまうのだ。
「変わった噂だね」
「あくまで噂は噂。別にそれがどうってことはないけどな」
「なんで僕に態々そんなこと言うのさ。噂の話なんて大森に興味はないんでしょ?」
「面白いとは思ってるけどな。単純に後ろの席にいるっていうのと他の人の話も聞いてみたかったって言うだけだ。それと夜月って最近楽しそうだからな」
大森の目には僕が楽しそうに見えているらしい。僕は今も昔も変わっていないし、特別何か楽しい事が起こったわけでもない。朝起きて学校に来て家に帰る生活は数年間変わっていないのだ。
「楽しそう?僕が?」
「何ていうか分かんないけどさ。中学の時のお前ってもっと暗かった気がするんだよ。会話してても興味なさげと言うかちゃんと話を聞いてんのか分かんないみたいな」
「昔からちゃんと聞いてたし会話もしてたでしょ」
「それは分かってる。でも話す時に慎重に話してる感じがしたんだよ。兎に角ここ先最近は前よりも明るくなったっていうか話しかけやすくなった。なんかあったのか?」
ここ最近に起こったことと言えば先輩と出会ったことくらいしか特筆することはない。先輩と出会ったことで僕が以外と人を求めていると言うことが分かったし、会話をすること自体はそこまで苦に思わない事も分かった。
中学の時に大森とどのようにして話していたのか全然思い出すことが出来ない。僕からすれば今と何も変わっていないと思うが当の本人が変わったというのなら何かしら変化しているだろう。
何かあったかと言われても正直に答えることは出来ない。僕以外には見えていない存在の証明は何をしたって無駄なのだ。僕が能動的に何かを起こしたわけじゃなく受動的に変化しただけだろう。それは全て――。
「なんかあったってほどじゃないけど、友達が出来た」
ふわふわと浮かんで悩み込んでいる先輩に聞こえないように、少しだけ身を乗り出してから大森の耳元でそう伝える。僕以外には見ることの出来ないたった1人の友達のこと。




