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夏が本領を発揮してきたのは7月上旬。本気を出さずに過ごしていてくれて構わないのだが、矮小な人間にも全力を出してくる太陽に太刀打ちできずにだらけきっている。
ついこの間まで通学路に咲いていた紫陽花は綺麗に枯れていた。初めて知ったのだが紫陽花は枯れる時に花の状態のまま枯れていた。その後調べてみると花びらが茎にしがみつくことから紫陽花が枯れることをしがみつくと言うらしい。桜が舞ったり、梅がこぼれたり日本人の風情には感心するばかりである。
放課後となり、いつもの通り空き教室へと向かう。先輩には少し遅れてきてほしいと頼んだ。噂の件が片付いてからずっと取りかかっていたことがようやく終わったのだ。その成果を先輩に見てもらいたくて準備をする時間を設けたかったから先輩は教室の外で待機している。
空き教室に入って早々に準備を始める。準備と言っても鞄の中からファイルを取り出して、そこに入っている紙を黒板に貼り付けるだけだ。
簡単な動作を行っているだけなのに、僕の心は焦燥感に駆られていた。本当にこれでいいのかと、最後の最後まで悩んでいたが立ち止まっていても何も始まらないことは経験済みで兎に角、動いていることを先輩に知って欲しかった。
「雪くん。そろそろいいかな?」
丁度準備が終わった頃、教室の外から先輩の声が聞こえる。律儀にも目を手で押さえて何も見えないように声をかけてきた。その体勢で移動することは普通の人なら危ないかもしれないが物に触れられない先輩なら危険な事はひとつもない。本当に見えていないのか、若干教室の壁から顔が出ている。滑稽に見えるがホラー作品みたいだ。
「丁度準備終わりました。来ても良いですよ」
ゴクリと生唾を飲んでから先輩を空き教室に招待する。聞こえていないとは思うが僕の心拍はメトロノームの針が高速で揺れ動くかの用に音を刻んでいる。
先輩に対して改まって何かをするという経験がない。先輩の性格が分かっていても、この後どんな反応をするかまでは分からない。
「分かった。待ちくたびれたよ」
「そんなに待たせてないですよ」
「一日千秋とはこのことだね」
「違いますよ」
入り口を無視して壁から入ってきた先輩。緊張している僕をみて、場を和ませようと冗談を言ってくるがいつものようなキレがない。先輩も普段ならあり得ない状況に緊張しているのかもしれない。飛んでいる位置もいつもより低い気がするのは気の所為ではないだろう。
雨も止んでいるためひくく飛ぶ理由はないのだ。
「それで何をしてたの?」
黒板前に立つ僕の側にふわふわと浮かびながら近付いてくる。この光景にも慣れてしまった。人が目の前を浮いている状況に慣れるなんて思っても居なかったが今では先輩が浮いていないほうが違和感を覚えるほどである。
既に先輩からは僕の背後にある黒板が見えているはずだ。
普段は目が疲れない深緑色をしている黒板も、今では紫陽花の花のように一枚一枚の紙でひとつの作品が作り上げられている。
「これを見てください」
先輩がよく見えるように黒板の前から移動し、先輩の後ろ側に周った。呆けたような顔で黒板を見上げる先輩だけをその場に残して。
黒板一杯に並べられた紙――原稿用紙を先輩に見せる。小学校の読書感想文では使ったことがあるが、それ以来使ったことのなかった紙。昔に買ったは良いものの、思ったより枚数があったため大量に残ったまま机の引き出しにしまい込まれていた。
「これって、なに?どうしたの?」
黒板に貼られた原稿用紙から目線を逸らさずに問いかけてくる先輩。振り返ることもないので声だけが僕の耳に届く。僕からは背中しか見えていないが驚いてくれているのは声からはっきり分かった。
「書きました」
「雪くんが?」
「はい。先輩のために頑張って書きました。当たり前ですけど素人ですのでまだまだ全然上手くは出来てないです」
必死になって書き殴った。分からない言葉は辞書を引いて少しでも良いものが出来るように。書いた内容は先輩も知っている通り消しゴムの噂。
推理をしている時は事実が大切だったが創作になったら話は違う。僕の頭の中で作り上げられた消しゴムのうわさの話を小説として書き出したのだ。
空想で補完してしまっていた僕の推理を、空想の世界では正しい答えとした。あくまで僕の作り上げた作品であって正誤は僕が決められる。
いざ書いてみると登場人物の心情が分からずに苦労した。一人一人が別の思考回路を持っていなければならないので人との関わりが少ない僕にとっては大変だった。それぞれの行動に矛盾がないか、最後のためにしっかりと伏線を張られているかなど考えることが非常に多いのだ。
書き始めは流れで書き上げれると思い、軽い気持ちで始めたのだが深くなるにつれて思考が詰まり手が動かなくなった。先輩のためで無かったら辞めてしまっていたと思う。
それこそ書き上げたと思ったら原稿用紙10枚程度で驚いたものだ。自分の中ではもっと書いたと思っていても読み返してみたら原稿用紙のように薄い内容だった。販売されている書籍を書き上げる人たちの凄さに脱帽してしまった。
「どうして?私のために?」
「ほら、前に言ったじゃないですか。先輩が成仏できるように協力するって。先輩が楽しいと思えれば満足するって言っていたので僕に出来ることは何かなって」
先輩は本を読むことが好きと言っていた。死んでからは物に触れないため読むことも出来ないとも。僕が本を読むことで後ろから覗き見ることは出来るだろうがそれで先輩が満足してくれるとも思えないし、何より僕が先輩のために何かしたとは思えないのだ。
僕が自分の達成感を満たしつつ、先輩のために何か出来ることがないかと考えた結果が、先輩のために僕が物語を書くということだった。
「これ、凄いよ」
黒板に張り付くように先輩は浮かんでいる。
上下に移動していることから並べられた原稿用紙を読んでいることが分かる。本を沢山読むと言っていた割に1枚を読むスピードは早くない。
暫くすると書き上げた原稿の最後にたどり着いた。一通り読んでくれたみたいだが、もう一度最初の1枚目から読み始めてしまった先輩。まじまじと見られると恥ずかしいが喜んでくれて何よりである。
それから何度も往復して読み返す先輩を見て羞恥心が湧き上がってくる。自分の内面を覗き込まれているような面映ゆい感じだ。
「ちょっと恥ずかしいです」
僕が声をかけたことで先輩は原稿を読むのをやめてくれた。本人を目の前にしてじっくりと読むのは程々にしてほしかったので丁度良かった。
後ろに居た僕の方へと先輩が近付いてくる。触れられもしない手を僕の頭上に掲げて腕を動かす。
先輩の手が僕に触れることはないが、頭を撫でられているということは分かった。2回目ということもあるのだが、触れられていないのに妙な温かみを感じたのだ。
「雪くんは、本当にすごい」
「そんなこと無いです。頑張ってはみたんですけどまだまだだって自分でも分かってます」
「思い違いじゃなければ嬉しいけど、私のために書いてくれたってことがすごい分かるよ」
素直な感想が胸に刺さる。先輩のために書いた物語は常に先輩のことを考えて作り上げられた僕の小さな小屋だ。その小屋に鍵はないけれど、先輩が中には入って楽しんでもらうことを目的にしていた。
先輩にはしっかりと伝わったようで心が熱くなる。初めて人のために全力で何かをした。血の繋がった誰かのためではなく、幽霊の友人という奇跡の巡り合わせで会うことのできた存在のために全力を尽くした。
「そっか。そっか。雪くんがこういう風に伝えてくれるんだね」
「手紙の時に喋るのが苦手な僕に文字で伝えることを教えてくれたのは先輩でした。時間をかけて推敲することで相手に伝えられるように考える、その経験を先輩のために使ったんです」
「今日は素直だね」
「僕の晴れ舞台なので」
「本当に、よく出来てる。物語としては雪くんが言うようにまだまだだけど。プロのスポーツ選手を見ても凄いと思うけど頑張っている自分の子供の大会を見て胸が熱くなるような、そんな感覚」
どんな絵画よりも、自分の子供が書いてくれた似顔絵のほうが嬉しいようなものだろうか。小さい頃に幼稚園で書いた母親の絵が未だに大切に取ってあることを僕は知っている。
上手くもない絵をどうして捨てないのか疑問に思っていたのだが、今の先輩を見て得心がいった。上手い下手ではなく、自分のために書かれたものだから心に残るのだ。
僕が先輩を大切に思っている理由も、先輩が僕のために色々としてくれるからかもしれない。そのおかげで前よりも少しだけ曇り空が減って光が差し込むようになった。
先輩が僕に残せるものは無いけれど、心には先輩の優しさが残っている。
「子供扱いしすぎですよ」
「違うよ。私にとっては雪くんの書いてくれたこのお話が一番胸に来た。誰かのためじゃなく、私のために書いてくれたお話だって分かる。もし私が消えたとしても、私の存在がこの話の中に生きてる」
先輩を消したいからこの話を書いたわけではない。でも先輩が消えたいのなら、その願いを叶えるために力になりたいと思ってしまった。自分でも矛盾しているが、僕の書く話を見て消えたいと思わなくなるほど楽しませたい。
「先輩には消えて欲しくないですけど、先輩に笑って欲しい。その結果消えてしまうのなら、先輩がいた事を少しでも形ある物で残したかったんですよ」
「本当にワトソンくんだ。でもまだまだ私は消えないよ」
「消えたら困ります」
寂しかった5年をたったの3ヶ月で埋めることは出来ていないだろう。それでも消えることがなければ終わりのない道のように先輩と過ごす年月は増えていく。虚無に包まれていた5年を塗り替えるくらいに共に過ごしていきたいので消えないという先輩の言葉は何よりも救いになった。
「雪くんのお話も粗が目立つし、何よりワトソンくんには助手として推理のお手伝いをしてもらわなきゃ」
「また何か謎に興味を持つつもりですか?」
謎を解決するのは僕たちの自己満足。相手に答えを教えることもしなければ事実を解明することもない。先輩が推理をするということを楽しんで、それを面白おかしく僕が創作してその推理を事実にする。
それが僕と幽霊である先輩のこれからのあり方になるのかもしれない。
「そうだね。丁度いいや。今日待っている間にクラスの女子が話してたよ。毎週金曜日に――――」
そして先輩が新たな謎に興味を持つ。
僕の書いた話を見て何となく察してくれたのだろう。今回の関わりがあったからこそ僕が筆を執った事。そして今後とも書き続けるには何かしらの面白い出来事が必要だということ。
先輩を楽しませるために僕は筆を執った。その僕に書かせるために先輩は今日も謎を追う。
死んでいるのに人にしがみつく紫陽花のように、今日も僕たちは同じ場所で生きている。




