心を封じられた聖女は、再び人間に戻る。
――『彼が危篤である』という報せを受けたのは、聖女となってから三年経った、ある寒い冬の日だった。
私の名は、リュシア。
この国の聖女であり、形式的には王子妃という立場だった。
私は二十年前、辺境の田園風景が美しい田舎の村『トラス』で生まれた。
…目を瞑ると思い出すのは村一面に広がる金色の麦畑。
美しい紫色のラベンダー畑に、沢山の村の人達の笑顔。
――そして彼と共に過ごした愛おしく、優しい日々。
『リュシア。悲しい時はちゃんと泣いた方がいい。そして、本当に嬉しい時だけ笑え。
…君はきちんと心を持った一人の人間だ。これから聖女になってもどうか、それだけは忘れないで欲しい。』
はぁっ、はぁっ…と、荒い息を吐きながら、私はただ彼の元へと駆けた。
(っ嫌だ…!!死なないで!!)
私は滲んでくる涙を懸命に堪える。
バンっ!!と勢いよくドアを開ける。
…そこには既に意識がない、すぐにでも命の灯火が消えてしまいそうな傷だらけの彼が横たわっていた。
「…エルディン師匠。」
私はふらふらと彼の元へと向かう。
するとそんな私に彼の部下であり、魔導師でもあるフィンが鎮痛な目を向ける。
「…リュシア様。良かった、何とか間に合ったのですね。」
「…ええ。」
私はエルディン師匠の頬に、そっと震える手を添え、癒しの魔術を発動させる。
温かな光が裂け目を縫うように傷を閉じ、血の色はみるみる引いていった。
――それでも、胸の鼓動は浅いままだ。
皮膚の下、心臓のあたりに黒い蔦の紋が絡みついている。光はそこだけを避けるように滲んでは、ほどけなかった。
…聖女の癒やしは血肉にしか届かない。
「…呪いを受けたんです。魂喰いの類いだ。外傷は癒せても、魔法ではもう……」
フィンは唇を噛み、小さな皮袋を差し出した。
「…これは?」
私は目を見開く。
「いつも団長が肌身離さず持ち歩いていたものです。貴女に昔貰ったものだと。開けてみて下さい。」
袋をひっくり返すと、かつて彼に私があげた『沈黙の石』が出てきた。
「…驚いた。当時渡した時はバカにしていたのに。」
私は彼がまだ、この石を持っていてくれていたことに驚く。
(…師匠。貴方は一体この石に、どんな事を願っていたのですか?)
◇◇
――六年前の春。
丁度村の人達が春小麦の種まきをはじめ、美しい新緑が芽生え始める時期だった。
辺境の田舎であるトラスに、何故か突然王都から大勢の使者がやってきた。
都会の洗練された制服に身を包んだ魔導師達。
村は一時大騒ぎになった。
彼らはどうやら、『聖女』を探しているらしい。
村の娘達は次々と水晶のような魔道具で、属性や魔力量などを強制的に測られた。
困惑する人、自分こそはと期待する人、色んな娘がいた。
けれど、何の因果か『聖女』であると秘密裏に認定されたのは当時十四歳になる私だった。
「…ねぇ、魔導師のおじさん、本当に私が聖女なの?どうしても信じられないんだけど。」
当時私の魔力を計測した、四十代くらいの魔導師に尋ねる。
「…ああ。そうだよ。
君は『聖女』になるんだ。国を守る、誉ある存在にね。」
言葉とは裏腹に、彼はまるで傷ましいものを見るように目を逸らした。
(……なら、この人は何故こんな顔をするの?)
しかもいずれ村での修行が終わったら、王都に行かなければならないらしい。
(…私はこの村で、ずっと村の人達と幸せに暮らしていくのだと思っていたのに。)
そして私が『聖女』に認定されると、魔導師達は村人達の『聖女探しに関する記憶』を、全て魔法で消してしまった。
両親にだけ記憶は残されたものの、『絶対に口外しないように』と、契約書まで書かされた。
父も母も私も、ただ困惑していた。
そんな中、魔法に関する知識が何もない私に師匠が付けられた。
宮廷魔導師団に所属する、二十歳の団員である。
――それが、エルディン師匠だった。
彼は美しい銀髪に碧眼の、整った顔の青年だった。
…こんな辺鄙な村にはなかなかいないようなタイプである。
「宜しく。リュシア。
僕も魔導師団には入ってまだ三年目で。…正直聖女に関する事はよく知らないんだよね。
組織内でも何故か機密事項になっていて。
とりあえず村の人には、僕は『王都から来た神官』ってことにされる。
そして、僕は君に魔法を三年間教えることになっている。」
そう言われて私は眉を下げる。
「…あの。なんだか、すみません。」
「…え?何が?」
私の言葉に彼は訝し気な顔をする。
「いや、だって。師匠は十八歳で魔導師団に入所したのですよね?
本当は凄く優秀な方のはずなのに。
それがこんな田舎で、私なんかの師匠になるなんて、なんだか申し訳なくて…。」
すると、彼は目を見開いてから、顔を赤くして頭をボリボリと掻いた。
「あー…。いいのいいの。子供はそんなことに気にしなくて。
僕、ごちゃごちゃしてる王都があんまり好きじゃないんだよね。
実家も一応爵位は持ってるけど、一番上の兄が継ぐから向こうでやりたいことも特にないし。
ま、これから宜しく。」
そう言って照れくさそうに笑った。
(…良かった。なんだかいい人そう。)
「はい。宜しくお願いします。」
私は満面の笑顔で頭を下げるのだった。
◇◇
夏になり、紫色のラベンダーの花が少し散り始めた。
今は黄色い向日葵と、美しい黄金の稲穂が風にそよそよとたなびく。
エルディン師匠が村の小さな教会に住むことになったので、村のみんなで一生懸命改装した。その甲斐あって、とてもいい部屋に仕上がったと思う。
師匠ははじめは戸惑っていたものの、最後には顔を綻ばせてお礼を言っていた。
――師匠の魔法の教え方はとても上手かった。
どうやら彼は、相手が理解しやすいように言葉を噛み砕くのが得意なようである。
私は短期間で基本的な生活魔法を殆ど身に付ける事が出来た。
指から水を出せるようになった時は、両親は井戸から水を汲んでこなくても良くなって大喜びだった。
他に、身体中に魔力を纏わせて身体強化したり、簡単な治癒魔法なども発動できるようになっていた。
「…驚いた。
百五十年ぶりに『聖女』が出現したって聞いた時は半信半疑だったんだけど。君、本当に才能あるよ。」
そう言われて、私は目を丸くする。
「…そうなんですか?でも、確かに『聖女』って伝承くらいでしか聞いた事がないですね。」
すると、彼は微妙な顔で頷く。
「うん。王家になぜか聖女の情報が秘匿されているんだ。
普通の人間ならこれくらいの期間だと、せいぜい簡単な生活魔法を発動するのがやっと…くらいなんだけどね。」
「うーん、でも私の習得が早いのは、きっと師匠の教え方が上手だからもありますよ!」
私が元気よく答えると、何故か師匠は照れくさそうに頭を掻いた。
「いや、そんなことないでしょ…。」
「いえ!絶対そうですって!」
(…へへっ。師匠に何かお礼がしたいな。)
そう思った私は、トラス村の奥の泉近くで採掘出来る、『沈黙の石』をこっそりと拾ってきた。
白くて丸くて少しキラキラした可愛らしい石だ。
この石は村で、
『誰にもバレないように石に願いを込めて。
もし願いを自分が実現できたら、命を一度守ってくれる。』
と言われていた。
『願いを叶える石』ではなくて、あくまでも『願掛けする石』。
願いを誰かに言ってしまったら無効な上、自分が願いを叶えることを出来なければ、力が働く事はない。
だから迷信のような感じで村では笑い話にされていた。
(…でも、なんだかんだで試験を受けたり、目標がある人にはずーっと重宝されてきたんだよね。
魔導師って戦地に行ったりすることもあるらしいし。少しでも気休めになったら嬉しいかも!)
そう思った私は、エルディン師匠に『沈黙の石』をプレゼントした。
「は?何これ。…石?」
石を渡すと彼はポカーンとした顔をした。
「はいっ。『沈黙の石』って言うんです。村じゃ迷信扱いですけど。師匠のこと、守ってくれたら嬉しいなって。」
笑顔で私が言うと、彼は可哀想な人を見る目で私を見てきた。
「…まあ、あれか。十四歳ってそういうの信じたくなる時期だよね…。
僕の友人もさ。
君と同じくらいの頃、夢の中で神と交信して空を飛べるようになったとか言って、木からダイブして。
…右足骨折してた気がする。」
その言葉に、私は恥ずかしいのと憤慨するのとで赤くなる。
「師匠っ!ひどいですっ。私は師匠がもし戦地に行く機会があれば、少しでも慰めになればって思っただけなのにっ。」
「ははっ、ごめんごめん。…ま、ありがたく貰っとくね。」
そう言って彼は笑っていた。
◇◇
秋になり、春小麦は収穫され、今度は冬小麦の種まきが始まった。
山は赤や黄色に美しく色づき始め、上を見上げると、真っ青な空を黄色い木々が美しく彩っている。
村ではブドウやりんご、きのこやサーモン等が旬を迎え、収穫祭が行われた。
収穫祭で出るご馳走の中でも、近所に住むマーサおばあちゃんの作るキノコとひき肉のクリームパイが絶品なのである。私は毎年密かに楽しみにしていた。
村の中心にある噴水広場では、伝統的な衣装に身を包んだ村人達が民族楽器を演奏したり、楽しげに踊っている。
村で一番の力持ちの農夫、アントニオさんは、腕相撲大会で圧勝していた。
この日は屋台なども出て、旅商人や観光客なども大勢訪れる。
「ねえ、神官のかっこいいお兄ちゃんっ!みんなで一緒に踊ろうよ!」
二人で祭りを見ていたら、村の子供達が師匠を引っ張っていってしまった。
(師匠、嫌がってた割にダンス上手いなぁ。)
そう思いながら、陽気な音楽に合わせて子供達と一緒に踊る師匠をにまにまと見る。
戻ってきたエルディン師匠は笑顔だった。
「…この村は、凄くいい所だね。」
「ええ。大好きな村なんです。」
満足気に頷く私を、彼は優しく見つめる。
「いいな。僕もこういう、あたたかな場所に生まれたかった。」
(…師匠?)
どこか寂し気な顔をする師匠が、やけに印象的だった。
「僕の実家はさ。家族と言っても、こんな風に寄り添ったり助け合うことなんてなかった。
…僕達子供は、…何というか、父親の出世の為の『コマ』な訳。
だから、僕はそこから早く抜け出したくて、魔導師団に入ったんだ。
僕の二番目の兄だってそうだ。」
橙色の灯りが踊る人々を照らす中で、エルディン師匠の声だけが妙に沈んで聞こえた。
横顔を見つめながら、何故か急に彼を抱きしめたくなった。
理由はわからないけど、彼が孤独に震えてるように見えたのだ。
「…なら、これからそういう人を作ればいいじゃないですか!ほら、私と師匠も家族ではないですけれど。
…助け合うことは出来ますよ。
私、師匠に何かあったら、絶対に助けますから!」
私がそう言うと、彼は目を見開いたあと、クシャっと顔を歪ませた。
「ありがとう。…じゃあ、約束だ。
僕も君に何かあったら、絶対に助ける。」
そう言った彼は、先程よりどこか、スッキリとした顔をしていた。
◇◇
そして、師匠が村に来てから初めての冬になった。
村は真っ白な雪に覆われる。
空から降る雪は枯れ木に積もり、まるで真っ白な花が一面に咲いたようだ。
村の家々には暖炉の火が灯るようになった。
私はこの頃には治癒魔法を、少なくとも建物内全員の軽傷を治せる程度には使いこなせるようになっていた。
「いや、本当に凄いな。…三年経たずに全部覚えちゃうんじゃないの?」
師匠は私が新しい魔法を使えるようになる度に、照れ臭くなる程褒め称えてくれた。
それが嬉しくて一人でこっそり魔法を練習する度に、いつの間にかどんどん上達していった。
また、王都からの指示で、何故か禁術と言われる反転魔法も学び始める事になった。
「…本当は僕も君にこんな事を教えたくないんだけど。上からの指示だから仕方ないね…。
…あいつら、本当に何を考えているんだか。」
エルディン師匠の憤慨したような顔に思わず目を見張る。
何故なら彼が人を悪くいうのを見るのは初めてだったからだ。『あいつら』というのは一体誰の事だろう。
「いい?リュシア。『癒し』を反転させるのは危険だ。何が起こるかわからないから。
もし、反転させるなら基本の火、水、土、風のどれかだ。とりあえず、土を反転させて、この花をドライフラワーにしてみようか。
反転魔法というのはね、単純に反対の作用が働くわけではない。普通の魔法が『与える』ことに対して『奪う』ものなんだ。
人間には決して使ってはいけない。」
私は師匠の言葉に青褪める。
(…ひいっ!こわ…。)
絶対に『癒し』の反転魔法は使うまいと心に誓った。
ちなみにこの時沢山作ったドライフラワーはご近所に配った。みんな、クリスマスのいい飾りが出来たと喜んでいた。
――そしてその数日後、クリスマスがやってきた。
ホットワインやソーセージ、それに秋に収穫したフルーツを加工したジャムを使ったお菓子等を並べて、村の皆でお祝いをする。
私は師匠に母と作った手作りのクッキーを大きな瓶に詰めてプレゼントした。
シナモンとくるみとバターが沢山入ったざくざくしたもので、彼は凄く喜んくれた。
…どうやらエルディン師匠は甘党らしい。
師匠は、私にクリスマスプレゼントに可愛らしい白銀の髪飾りをくれた。
「いつも頑張ってる、君に。」
男の人からプレゼントを貰うのは初めてだった。
弟子だとしか思われていないのは知っていたのに、なんだかドキドキした。
「あ、ありがとうございますっ。いいんですか?!」
「うん、もちろん。」
私がアタフタとお礼を言うと師匠はニッコリと笑ってくれた。
その様子を両親は微笑ましそうに見ている。
私はその髪飾りを凄く気に入って、彼と会う時は毎日付けていた。
彼は会う度に髪飾りに見ると嬉しそうにしていた。
――ニの月は師匠の誕生日だったので、トラス村の木でペン立てを作ってみた。
組み立てるだけだと何だか味気ないかな…と思い、せっかくなので表面に犬のレリーフを掘ってみた。
「え、何これ。オーク?」
「なっ!違いますっ!犬ですけどっ!!」
師匠がわざとらしくそう言ったので私が怒ると、彼は何故か楽しそうに笑った。
◇◇
そして春がまた来て、少しずつ花々が咲き誇る。
赤、白、黄、ピンク…今年は、チューリップが美しく咲き誇り、家々の庭を彩る。
村人達はまた小麦の種まきをする。
――私は十五歳になり背が伸びた。
それに髪が伸びて、少しずつ身体が女性らしくなっていった。
エルディン師匠は時々、村の女の子から告白されているようだ。
(…まあこの村にエルディン師匠みたいに綺麗な男の人、いないもんね。)
この前は村一番の美人で、師匠と同い年のエルサさんが彼に告白をしたらしい。
それを聞いて、なんだか胸がザワザワとした。
「…あの。師匠。
エルサさんにはなんて返事をしたんですか?」
私が質問すると、師匠は苦笑する。
「君の魔術訓練が終わったら王都に帰るのに、付き合うわけがないだろう?」
その言葉で何故かホッとする。
――この気持ちは一体、何なのだろう。
私は自覚し始めたこの気持ちにそっと蓋をしたのだった。
◇◇
――その年の秋だった。
農産物を街に売りに行っていた両親の馬車が滑落して、二人は行方不明になった。
村の人達が必死に探してくれて、漸く二人を見つけてくれたのだが。
「…お父さん、お母さんっ!!!」
私の元に帰って来た二人は、既に傷だらけで物言わぬ状態になっていた。
…いくら聖女でも既に死んでしまった人間を甦らせる事は出来ない。
「…どうして!!あんなに私っ、…頑張って魔法の練習をしたのにっ!!
――っ、どうして二人を生き返らせる事が出来ないのっ!!」
泣きじゃくる私を、エルディン師匠はそっと抱きしめてくれた。
表情は見えないけれど、声は低く、苦し気だった。
「…リュシア。せめて二人を綺麗な身体にしてあげようか。」
彼は私の頬に伝う涙を、そっと拭う。
「…ぅ、ふぐ、はい。」
私は涙でぐちゃぐちゃになった顔で聖魔法を展開すると、両親の身体を真っ白な光が包み込んだ。
傷だらけだった二人の身体が元に戻った。
…まるで二人がただ穏やかに寝ているだけのように見えて、嗚咽が止まらなくなる。
「お願い、目を開けて…。開けてよ…。」
――その日彼はそんな私のそばに、ただ黙ってずっと一緒にいてくれた。
◇◇
そして春がきて、私は十六歳になった。
父と母が死ぬ間際に大事に植え付けていた、白と紫色のクロッカスの花が庭一面に美しく芽吹いた。
(お父さん、お母さん…。)
――両親が亡くなった日以来、私をずっと一番側で支えてくれていたのはエルディン師匠だった。
師匠がそばにいてくれたおかげで、本当に少しずつ私は両親の死を受け入れることが出来るようになってきていた。
他の村の人達もみんなで私が寂しい思いをしないように、それぞれ気遣ってくれた。
マーサおばあちゃんは何度もシチューやパイを持ってきてくれたし、子供達は私に元気を出して欲しいからと何度も遊びに来てくれた。
――それでも、今でもたまに。
玄関のドアを開けてひょっこりと二人が帰って来てくれるんじゃないかな、という錯覚を起こすことがある。
今日だって、あのドアを開けて『もう十六歳になったんだね。』と笑ってくれそうな気がするのだ。
「リュシア。誕生日おめでとう。」
家族がいなくなってから迎える初めての誕生日。
今日はエルディン師匠が私をお祝いしてくれている。
…あの日から彼はなんだか妙に優しくなった。
そして、そのことが申し訳なくて、私はあの日以来泣かなくなった。
「ありがとうございます。」
そう言って私は顔を綻ばせる。
…彼が誕生日にくれたのは、可愛らしい白銀のネックレスだった。
そして、なんと師匠は誕生日ケーキまで作ってくれた。
「…ごめん、はじめて作ったからそんなに上手くは出来なかったけど。味はまずくない、と思う。」
そう言って彼は耳を赤くした。
「いえいえ!師匠が作ってくれたっていうだけで凄く嬉しいですっ。」
私は慌ててフォークでケーキを口の中に運ぶ。
クリームが不器用に垂れたそのケーキは、見た目は悪いけれどとっても優しい味がした。
「美味しい…。」
そう言って笑おうとしたのに、ぽとり、ぽとりと頬を涙が伝って来た。
(…あれ?)
「ご、ごめんなさい。どうしてですかね…。とっても美味しくて、嬉しいのに。
師匠がせっかく祝ってくれてるのに…。
涙が勝手に…。」
私がそういうと、彼は真剣な目で私の顔を覗き込んでくる。
「リュシア。悲しい時はちゃんと泣いた方がいい。
そして、本当に嬉しい時だけ笑え。
…君はきちんと心を持った一人の人間だ。これから聖女になってもどうか、それだけは忘れないで欲しい。」
その言葉に泣きたくないのに、涙が出る。
「はい…。でも、今日は本当に嬉しいんですよ?…師匠にお祝いしてもらえて、とっても嬉しいのに…。
どうしてですかね…。」
すると、エルディン師匠は私の頭を優しく撫でてくれた。
「…君はきっと今、色んな感情がごちゃ混ぜになっているんだと思う。
嬉しい気持ちと、悲しい気持ち。
でも全て、君の心の中にある大切な気持ちだ。
今は散らかっていても、きっとそのうち整理できる時が来ると思う。
大丈夫。僕も手伝うから。
…君に何かあったら助けるって約束しただろ?」
そう言われて私は泣き笑いのような顔で頷く。
「…はいっ!」
◇◇
そして、季節は巡る。
私はエルディン師匠と一緒に過ごすうちに少しずつ、笑う事が出来るようになってきていた。
一緒に料理を作ったり、魔法の練習をしたり。
初夏には一緒に美しい一面のラベンダー畑を見に行った。
畑の持ち主が両親のことを知っていたのか、気を遣って『元気を出せよ。』とラベンダーの花束をプレゼントしてくれた。
その花は家に帰って師匠と一緒にポプリにした。
…けれど約束の3年間が近づくにつれて、この村で彼と過ごすことが出来る時間が、どんどん残り少なくなって来てしまってきている。
最近彼は、魔法の訓練をする私の顔をじっと見ながらスケッチをするようになった。
「…僕さ。本当は小さい頃画家になりたかったんだ。
まあ、そんなことは勿論できなかったんだけど。
…あと少ししか君と一緒にいられないから、いっぱい君の事を描き残しておこうと思って。
泣き顔も笑顔も、真剣な顔も。
君は本当に、絵に描ききれないくらい表情豊かだね。」
そう言ってエルディン師匠が笑っていた。
その言葉に私の胸がキュッと締め付けられる。
一日、一日。
私達は一緒にいる時間を噛み締めるように大切に過ごすようになった。
ラベンダーが散って、今年も向日葵が一面に咲き誇る。
秋になると山々が色づき、再び黄金の稲穂が畑を覆う。
そして、収穫が終わると真っ白な雪が降る。
――クリスマスには二人でチキンを焼いてお祝いした。
私は師匠に頑張って一人で作ったクッキーをあげて、彼は私に可愛らしいリボンをくれた。
そして、ニの月の師匠の誕生日には、初めてマフラーを作ってみた。
「うう、本当にごめんなさい…。もう少し上手くできれば良かったんですけど。」
私が眉を下げると、彼はマフラーをそっと首に巻いた。
「ううん。あったかい。冬は毎日使わせてもらうよ。」
そう言って笑う彼の顔に胸が締め付けられる。
…とても下手くそだったのに、師匠は何故かとても喜んでくれたのだった。
――そして、遂にまた春になった。
…明日は私の十七歳の誕生日だ。王都から迎えが来て、私達はこの美しいトラス村を出ていくことになる。
「いよいよ明日か。
…大丈夫。きっと君なら立派に聖女を務めることが出来る。
はい、これ。一日早いけど誕生日プレゼント。」
彼はそう言って私の髪をかきあげ、耳に白銀のピアスを付けてくれた。
シャラン、と揺れるピアスに胸が高鳴る。
師匠は寂しそうに笑って、そっと私の頬に指を這わせた。
――その瞬間。
切なさと愛しさ。
そして、どうしようもない寂しさが込み上げて、自分でもおかしなことを口走ってしまった。
「嫌です…。」
その言葉に師匠は目を見開く。
「…え?」
「私、師匠と一緒に居られなくなるなんて、絶対に嫌ですっ!
…っ私、ずっと貴方と一緒に居たいです、
――私、貴方のことが…。」
すると、彼の人差し指がそっと黙らせるように唇に触れる。
「…それ以上、そんなこと言っちゃいけないよ。
本当は凄く嬉しいけれど。
…君は聖女になるんだから。」
そう言われて、私はボロボロと涙をこぼす。
「…っ、師匠…。」
そんな私に彼はそっと触れるだけの口付けをした。
「…リュシア。綺麗になったね。
今のは、二人だけの秘密だよ。」
そう言って彼は何かを堪えるように微笑んだ。
私は、驚いたせいか涙はすっかりと引っ込んでしまった。
――けれど代わりに、胸の奥がじんわりと熱くなった。
真っ赤になった私を、彼はそっと優しく抱きしめてくれたのだった。
◇◇
そして次の日。
私とエルディン師匠は使者に別々に王都に連れて行かれた。
(師匠…。)
最後に会った時の、彼との口付けが忘れられなくて、胸の奥がぎゅうっとなる。
私は『聖女』らしい、光沢のある真っ白なワンピースに着替えさせられ、使者に馬車に乗せられた。
…初めて見る窓からの景色に圧倒される。
トラス村にはなかった、沢山の大きくて高い建物。
街中を行き交う大勢の人々。
至る所にお店がひしめき合い、ザワザワと騒がしい。
(…こんなに人が沢山いるのは、初めて見たわ。)
私は思わず目を丸くする。
「聖女様。凄いでしょ。
こんなに刺激的な場所を見ちゃったら、きっともう田舎の村になんて帰りたいと思わなくなりますよ。」
そう言って、使者の方が得意気に話してくる。
(そうかしら…。確かに発展はしているけれど、なんだかうるさいし、景色も建物ばかりで味気ないような…。
トラス村のような美しい山や、黄金の稲穂なんて見られないだろうし、村の人達の笑い声も聞こえない。
なんだか、行き交う人々の顔に余裕もないし、歩くのがとても早い。
…おまけに肥料とは違うような独特の悪臭もするし。)
しかし、私は胸の内を明かすことはせず無理矢理口角を上げる。
「…そうですね。」
私は『笑いたい時だけ笑え。』という師匠の教えを初日から破ってしまい、胸の中で苦笑する。
馬車はやがて城の敷地内に入っていく。
他の建物より一際大きく、堅牢な石造りの城に圧倒される。
(…なんて大きな建物なの。)
「着きましたよ。」
そう言われて、私は馬車を降りる。
すると、ズラリと出迎えに来た侍女や神官が無表情でこちらを見てくる。
――まるで品定めでもしているかのように。
(…なんだか、全員が仮面をつけているみたい。)
「聖女リュシア様ですね。
…どうぞこちらに。」
神官の中の一人が案内をしてくれたので、少しホッとしてからお辞儀をする。
「…あ、あの。これから宜しくお願いします。」
そう言って無理矢理口角を上げると、冷たい声で言い返される。
「貴方はこれから『聖女』になるのです。
――聖女には、笑顔など必要ない。
泣き顔も怒りも喜びも、聖女には相応しくありません。さあ、早く来なさい。」
その言葉に私は固まる。
「…はい。」
私は顔を引き締めて、ローブの下に身につけた師匠から貰った白銀のネックレスをギュッと握る。
どこに行って誰に会うのかもわからぬまま、心細い気持ちで神官についていく。
コツ、コツ、コツ。
ざっ、ざっ、ざっ。
何人もの無機質な足跡だけが石作りの床に響く。
やがて、王城の中でも恐らく貴族が行き来する華やかなエリアへと入っていった。
「…ねえ、あれってもしかして…。」
「まあ、噂の聖女様?」
「…ぷっ。田舎の村出身らしいわよ。」
「…ああ、通りで地味ね。」
華やかなドレスに身を包んだ令嬢達がコソコソと私を馬鹿にしているのが聞こえる。
(…エルディン師匠と、村のみんなに会いたい。)
先程来たばかりだと言うのに、早くも私は村に帰りたくなっていた。
すると、恐らく謁見室だと思われる豪華絢爛な部屋に通された。
そこで跪づくように言われ、私は無表情のまま同じ姿勢で何十分も待つように指示された。
(…会うのが誰かわからないけれど。早く来てくれないかな。)
そう思っていると、ようやく一際煌びやかな衣装を着た人達が部屋に入って来たのが見えた。
「――面を上げよ。」
そう言われて恐る恐る顔を上げる。
すると、その中心には、この国の第一王子であるシリル様が立っていた。
美しい金髪に整った顔。けれど、そこに浮かぶ表情は驚くほど冷たくて背筋に嫌な汗が伝った。
私は驚いて目を見開く。
(…嘘。なんで王族が…?)
動揺する私をシリル様がジロジロと見てくる。
「お前が聖女か。ふむ…、思ったより地味だな。
まあいい。お前は“象徴”であればそれでいい。」
そう言いながら、私の髪をグイッと引っ張って、無理矢理上を向かせる。
(…っ痛、)
少し私が顔を歪めると、彼が嗜虐的に笑う。
「お前はもう村にも、家族にも属さない。
――これからは“私に属する聖女”だ。
名ばかりだが、お前には『王子妃』という立場が与えられる。
感謝するといい。
せいぜい、私の為に身を粉にして働くんだな。」
そう言って、笑いながら去っていった。
(…え、『王子妃』?何、それ…。どうして私が…。)
私はその様子を見ながら呆然とする。
――そのあと私は神官に別室に通されて、無表情で淡々と『聖女』とは何か説明された。
『聖女』とは表向きは、国民を守り、崇拝される神聖で素晴らしい存在である。
しかし実際は、国家安寧の為の財産であり、国の『所有物』であると同時に『兵器』でもあるらしい。
また、聖女を王族に嫁がせることで『国家に帰属』させる、とのことだ。
要は他国や民間には渡せないように縛り付けておく、ということである。
もちろん『聖女』は単なる象徴である為、王太子は別の妃を娶るということだ。
「えっと…。
それってつまり…どういうことですか?」
私が困惑して聞き返すと、神官は平然とこう言ったのだった。
「貴女には『人間』をやめて頂きます。
貴女は我が国の為に『聖女』という名の『兵器』になるのです。
『人間らしい感情』は全て捨て去って頂きます。」
――明日私は、国民の前でシリル様と『婚姻の儀』をあげることになっているらしい。
そこで、王族のみが使用できる『封印魔法』で私は人間らしい感情を全て封印されるようだ。
この事は、国の中でも一部の人間しか知らず、ずっと魔法を教えてくれていたアルディン師匠にすら知らされていなかったという。
「逃げようなどと思わないで下さいね。
貴女の大切な故郷の村の人達がどうなってもかまわない、というのなら別ですが。」
表向きは『神が降臨した』という理由で、無表情になる聖女。
前回百五十年以上前も儀式で同じ事をした時に、国民は熱狂したそうだ。
…けれどその実態は『心を持たない兵器』にされるから、だそうだ。
(――怖い。)
口の中がカラカラに乾く。
脳裏には三年前、聖女だと認定される裏で顔を背ける四十代くらいの魔術師の男性の顔が浮かんだ。
…今考えると、あの人がきっと団長だったのだろう。
(…あの人は、きっと私がこうなることを知っていたのね。だからあんな顔してたんだ…。
凄く辛そう…だったな。)
不思議と怒りの感情は湧いてこなかった。
――きっと、彼は優しい人だったのだろう。
だから私が『聖女』であるとわかり、顔を背けた。
私が与えられた石造の小さな部屋の前には大勢の見張りがいた。
やろうと思えばこの人達を一瞬で葬り去ることだって出来る。
…私は修行した三年間でとても強くなったから。
けれど、この人達を殺してまで逃げたいとまでは思う事が出来なかった。
それに、大好きなトラス村の人達を人質に取られているも同然だった。
その日の夜、私は色が何もない灰色の冷たい部屋で窓の外から真っ白な月を眺めた。
(エルディン師匠…。
あと一度だけでもいいから、会いたかったです。)
彼の笑顔が脳裏に過ぎる。
彼は今、王都で何をしているのだろうか。
耳元で彼にもらった白銀のピアスが風に吹かれてシャランッと揺れた。
その日、私は一人静かに涙を流したのだった。
◇◇
――次の日。
私は神聖で真っ白な儀式用の衣装に着替えさせられた。
侍女達に髪を整えられ、化粧をされる。
彼女達は恭しく礼をしているのに、目は一切笑っていなかった。
(…この人達は、私を人間としてではなく、ただの『兵器』として扱っているのね。)
そして、小さな祭壇がある部屋で、シリル殿下と形式だけの儀式をする。
私の姿を見たシリル殿下はほうっと息を吐く。
「…ほう。馬子にも衣装だな。
きちんと身なりを整えて化粧をすればそれなりじゃないか。」
「…ありがとうございます。」
そう言われて私は苦笑する。
褒めて貰ったのに何故か全く嬉しいとは思わなかった。
そして、羊皮紙で作られた書類にサインを書かされて、私はこの国の名ばかりの『王子妃』となった。
その後、私はシリル殿下と一緒に城の前に集まった国民からよく見えるよう、大きなバルコニーに立たされた。
にこやかに笑うシリル殿下に手を引かれて、事前に出された指示通り引き攣った笑顔で国民に手を振る。
国王陛下の声が朗々と響く。
「婚姻の儀を始める。」
――その言葉に恐怖で心臓が早鐘を打つ。
ガクガク震えそうになる私を無視して、頭上に神官達が魔法陣を展開する。
すると、身体がその場に固定されて全く動けなくなった。声も出なくなるようだ。
(…嫌だっ!!怖いっ!!!)
そして、群衆の目の前で、シリル殿下が私の額に触れ、誰にも聞こえない小さな声で耳元で囁く。
「聖女にとって最も不要なもの。
――それは“涙”だ。」
私が絶望で目を見開いた瞬間、パアアアッと真っ白な光が周囲を包み込む。
――私の心臓の奥を、握りつぶされるような痛みが走った。
…熱い。痛い。苦しい。
心が、感情が、削ぎ落とされていく。
胸の奥から光の粒がこぼれ落ちて、床に吸い込まれていく。
叫びたいのに、声が出てこない。
(泣きたいのに、涙が……出ない…。
お父さん、お母さんっ、エルディン師匠っ!助けて…!)
――そう思ったのを最後に、頭の中が真っ白になる。
私の中に、さっきまで確かにあった大切な何かがなくなってしまったのがわかった。
群衆の中から、興奮したざわめきが聞こえる。
「なんて美しい光なの…!!」
「神が今、降臨したんだ!!」
やがて溢れ出した光が止む。
――そこには『聖女』という名の、感情を持たない兵器となった私が無表情で立っていた。
すると、神官たちが轟々と炎が燃え盛る『聖火台』を運んできた。
「聖女よ――神の証を示せ。」
国王陛下の言葉と同時に、私は両の手を無理矢理押し込まれた。
肉が焼ける匂い。皮膚が爛れる音。
――泣き叫ぶ程の痛みなのに、私は眉一つ動かさない。
そして次の瞬間、白い光が傷を覆い、指先から肘まで、何事もなかったかのように再生していく。
「うおおおおおっ!!!」
観衆が熱狂する声が聞こえる。
賛美。歓喜。
「神に仕える聖女が、今誕生した!」
国王陛下が宣言し、民衆が涙ぐむ。
「素晴らしいっ。」
「歴史的瞬間だ!」
「こんな所に立ち会えるなんて…。」
私は何も表情を変えず、淡々と立ち上がる。
視線の先、群衆の中でただ一人――エルディン師匠だけが、絶望に顔を歪めているのが見えた。
……けれど、私の心は何も動かない。
積み重なるのは、事実と記憶だけだ。
◇◇
その後、私はすぐに戦場に放り込まれた。
――次々と重症の兵士達が私の元へと押し寄せる。
重度の火傷を負い、皮膚が焼けただれた者。
四肢がふっ飛んでぐちゃぐちゃになった者。
砲撃を浴びて身体の肉がえぐれた者。
普通の女性だったら悲鳴を上げたり、泣き叫んだりしてもおかしくない状況だ。
――けれど、それを見ても私は何も感じない。
私は無表情で淡々と彼らを癒やす。
兵士達が涙ながらに崇めてくる。
「聖女様!」
「神だ!」
「ありがとうございますっ、ありがとうございます!!」
――感謝されても、私の心には何も響かない。
ただ、頷くだけだ。
…この国は、聖女を手にした事で強気になり、色んな国の領土を侵略し始めたらしい。
沢山の人が兵士として徴兵され、今日だけで、敵も味方も合わせて千人以上が死んだ。
ドーン!!ドーーン!!
遠くから爆撃の音が聞こえてくる。
「ギャアアアア!!」
「っ、助けて!!」
「…死にたくないっ、」
悲鳴やうめき声が聞こえてくる。
それを聞いても胸が痛くなる事はなく、人が亡くなったという事実だけが積み重なっていく。
◇◇
ある戦で軍の幹部の者に命令された。
「聖女よ、癒しを反転させよ!敵兵を全て屠るのだ!」
私は淡々と負傷兵を癒やしながら、無表情のまま顔を上げた。
『反転魔法というのはね、単純に反対の作用が働くわけではない。普通の魔法が『与える』ことに対して『奪う』ものなんだ。
人間には決して使ってはいけない。』
師匠の声が、ほんの一瞬、記憶の中で再生される。
「癒しを反転させれば――敵だけではなく、目の前のあなたの命も反転する。」
「なっ…!!」
それを聞いて、彼が青ざめる。
無表情のまま私は首を傾げる。
「…貴方は、私に殺されたいのですか?」
「ひ、ひいいい!!」
彼が後ずさり、兵士たちが真っ青になりざわめいた。
その日から、私は兵士達に尊敬だけではなく、畏怖されるようになり、誰も話しかけてこなくなった。
兵士達の怯える視線を浴びても、私の胸はひとつも揺れない。
ただ――『師匠が教えてくれたことはきちんと守った』。
その事実だけが、静かに私の中に残っていく。
◇◇
――ある戦で、魔導師団の人達と一緒になった。
私は一年ぶりにエルディン師匠と顔を合わせた。
…彼は破竹の勢いで出世し、今は最年少で副団長にまで上り詰めたらしい。
「…リュシア、久しぶり。」
私が淡々と兵士達を癒していると、彼が話しかけてきた。
「師匠、お久しぶりです。」
私は一つも表情を変えず、彼を一瞥した。
その事に、彼はショックを受けたような顔をした。
「…なぁ、一度重症者の治療が終わったら話が出来ないか?」
その言葉に私は淡々と答える。
「はい。構いません。あと九人ほどで終了する予定です。十五分程度お待ち頂ければ対応出来ると思います。」
そう告げると、エルディン師匠は一瞬、呆けたような表情で固まった。
その顔に浮かんでいたのは――驚愕と、どうしようもない痛み。
けれど私は、その意味を考えることもなく、次の兵士へと手をかざした。
彼は鎮痛な顔で短く、
「…ああ、」とだけ返事をした。
――十五分後、私はエルディン師匠に呼ばれた砦の部屋に向かった。
部屋に入るなり、師匠に腕を引っ張られて、ダン!!っと壁際に追い詰められた。
「どうかなさいましたか?」
私が淡々とした声で顔色を変えずに尋ねると、彼の瞳が絶望に染まったあと、捲し立てた。
「…どうかしたか、じゃないだろ?!それは僕が聞きたい!!
…リュシア、君、本当に一体何があった?!
『婚姻の儀』でシリル殿下の放った禍々しい白い光を浴びてから明らかに様子がおかしい!
まるで別人じゃないか!!」
その言葉に私は無表情のまま、彼を見つめる。
「…それは、私にあの日何があったか事実を述べよという事でしょうか。」
淡々と答えると、彼は苦しそうな顔で頷いた。
「…そうだ。」
「かしこまりました。
あの日私はシリル殿下によって、王族のみが使用する事のできる『封印魔法』を施されました。
これにより、私は聖女には必要のない、喜怒哀楽、全ての感情を封じられました。」
私は眉一つ動かさずに淡々と答える。
その答えに、彼はまるで床が崩れ落ちたかのように膝をついた。
「…なっ!!…う、嘘だろ?」
苦しげに喉を震わせる声が、私にはただ空気の振動としてしか届かない。
「いいえ、事実です。」
その顔に彼が鎮痛な表情を浮かべる。
「…どうしてっ!!僕は君にそんな風になって欲しくて魔法を教えたわけじゃないっ!」
そう言って彼は泣きそうな顔をする。
「師匠。泣いているのですか?
感情は消えましたが、過去に約束をした記憶が残っています。
師匠に何かあったら、私が助ける事になっています。
私は何をしたら貴方を救えるでしょうか。」
私が淡々と尋ねると彼は堪えきれないように、私の腕をグイッと引き寄せた。
――次の瞬間、唇が重なる。
かつてあの日、十七歳になる前日に触れたのと同じ、温かな口付け。
師匠が誕生日にくれた白銀のピアスがシャランッと揺れた。
「……本当に、何も感じないのか?」
彼の声は震え、縋るように私を見つめている。
「……はい。何も。」
私はただ淡々と答える。
その答えに彼の顔は――今にも泣き出しそうに歪んだあと、低い声で呟いた。
「…くそ。あいつら…。絶対に許さない。
君を、このままになどさせるものか。」
――その時、コンコン、とドアがノックされる。
師匠はハッとした顔した後、姿勢を正した。
「…入れ。」
すると、彼の部下であるフィンが入ってくる。
「エルディン様。西の方角から敵が攻めてきたようです。団員総出で防御魔法を張るよう、上から指示が出ています。」
「…わかった。すぐに行く。」
フィンが報告を終えた後、一瞬だけ師匠と彼が目を合わせた。
…何か言葉にならないものが交わされた気がしたけれど、すぐにフィンは無表情に戻った。
私には、それがただの忠誠心ゆえの沈黙に思えた。
師匠は私を一瞥し、弟子だった頃と同じようにぽんぽん、と背中を叩いた後、部屋を後にした。
残された私は表情を変える事なく兵士達の元へと戻り、再び淡々と治療を始めたのだった。
◇◇
大きな戦闘が一つ終わった後、私は一度王都に戻された。
兵士達と一緒に私が戻った時、群衆は歓喜し大騒ぎだった。
「聖女様!こっち向いて!」
「ありがとおおお!!」
口々に自分の事を褒めたたえる声が聞こえる。
「聖女様。民衆に手を振って頂けませんか。」
軍の上の者に言われたので、私は無表情のまま機械的に手を振る。
わあああ!!!
集まった人達の興奮が最高潮になる。
けれど、私の感情は少しも動く事はなかった。
――王宮の中に入ると、様々な噂話が聞こえてきた。
「ついに改革派の家が動き始めたらしいぞ。
王家の無理な領土拡大に、ついに堪忍袋の尾が切れたらしい。」
少し焦った顔で、貴族の男達が話している。
「…ああ、領によっては、何千人も徴兵されましたもんね。まあ、怒るのも無理はないな。」
相手の男は眉を顰める。
「小麦の収穫量が男手が足りなくてかなり落ちてきているらしい。」
「今のうちに買い占めておいた方がいいかもしれないな。保守派と革新派、どちらに付くか悩むところだ。」
「…ああ。けれど、どの家がどちらについているのかも殆どわからないのが悩ましいな。」
「…このままじゃ、民から暴動が起きるんじゃないか?」
「ああ。今はまだ食料は足りているが…。このままいくと…恐らくそうなる可能性は高いだろうな。」
彼らは深刻な顔で歩いていく。
私はそんな彼らの前を無表情のまま通り過ぎていく。
――すると今度は、煌びやかなドレスを着た令嬢達が笑いながら話している。
「ねえ、聞いて!シリル様が色んな花を蝶のように味見して回っているみたいよ。」
「聞いたわ。『側妃にしてあげる。』という口説き文句らしいわよね。でも、乱暴にされた挙句、結局捨てられる子が多いみたい。」
「んまあ、お気の毒!」
「キルケ男爵家のマリーさんなんて、婚約者がいたのに手籠にされたそうよ。
お相手の家が相当お怒りになったみたいで、結局婚約は無くなったみたい。」
「まあ、男爵家だったら断れないわよね。お可哀想に。」
「でも、シリル殿下ほどお美しい方になら一度くらいなら抱かれてみてもいいかも!」
彼女達は顔を紅潮させて興奮している。
私はその話にも顔色ひとつ変えずにスタスタと歩いていく。
皆、噂話に夢中で私になど気づかないのかもしれない。
――私が無表情のまま、自分に与えられた味気ない石造の部屋に入ろうとしていた時だった。
「リュシア様。」
話しかけて来たのは以前お会いしたエルディン師匠の部下だった。
「…お久しぶりです。ええと、」
記憶を探る前に彼が答える。
「フィンです。エルディン様の副官の。」
「…よく私の部屋がわかりましたね。秘匿されているはずなのに。」
すると、彼はニッコリと微笑む。
「はい。私達は独自の情報網を持っていますから。
それにしても、リュシア様はすごいですね。
顔色ひとつ変えず淡々と治療を施す姿が本当に女神のようだと。
民衆はもちろん、貴族達の中でも凄く評判となっていますよ。」
「そうですか。仕事だからやっているだけです。」
私が淡々と答えると、彼が眉を下げる。
「…エルディン様はあのご年齢で遂に魔導士団のトップになられました。」
私の中に彼の言葉が蓄積される。
「そうですか。おめでとうございます、と師匠にお伝え下さい。」
無表情で私は答えると、フィンは眉を下げる。
「ええ。伝えます。
…彼は無表情になってしまったあなたを救う為にかなり無理をしています。
まあ、今のあなたにお話ししても何も感じないかもしれませんが。」
その言葉に私は淡々と答える。
「そうですか。師匠に無理はせぬようお伝え下さい。」
その言葉に彼は溜息を吐く。
「…本当に重症ですね。
まるで魔道具にでもなってしまったようだ。
そうだ。これ、エルディン様から預かってたんです。」
そう言いながら、彼は私に小さな小瓶を手渡してきた。
「何でしょう。これは。」
私が尋ねると、彼は探るように私の方を見てくる。
「トラス村のラベンダーのポプリらしいです。貴女の故郷の。この前近くに魔物の討伐に行ったので。」
すると、脳裏には彼と行った一面のラベンダー畑が再生される。
「ああ、トラスの。
とても美しいラベンダー畑でした。
師匠と二年前に行った場所です。」
私の言葉に彼は目を見開く。
「…リュシア様。
きちんと、覚えてはいるのですね。」
「はい。師匠と行った場所、言われた言葉はきちんと鮮明に記憶されています。
二年経ちましたが一つも忘れていません。
全て色鮮やかに残っています。
そこに心が付随していないだけです。」
すると、何故か彼は少し泣きそうな顔になった。
「…そうですか。伝えたらきっと喜びます。
そろそろ行きますね。見つかったらまずいので。」
そう言って彼は踵を返していく。
その様子を私は表情を変えずにジッと見ていた、
◇◇
その後、私は再び戦地に送られた。
再び傷付いた兵士達を淡々と癒す毎日となった。
トラス村の色鮮やかだった風景とは異なり、傷付いた兵士、爆炎、悲鳴、うめき声、砲弾など無彩色の記憶がただ脳に蓄積されていく。
――私はきっと、このまま何も感じることなく少しずつ肉体が朽ちて老いていくのだろう。
当たり前のようにそれを受け入れていた私に、急に城に戻るように要請が来た。
それは、すっかり肌寒くなってきた秋の日だった。
「ある貴族の男から『もう少しで内乱が起きるかもしれない』との情報を得た。
お前は“私に属する聖女”だと言っただろう。
だから、今度はこの『城』を守れ。」
シリル殿下にそう言われて、私は淡々と答える。
「かしこまりました。この『城』をお守りすれば良いのですね。」
私が尋ねると、シリル殿下はどこかイライラした声で答える。
「ああ、だからそうだと言っただろう。」
「…かしこまりました。善処いたします。」
私がお辞儀をして去ろうとすると、シリル殿下が呼び止めてきた。
「っおい。」
「…なんでしょう?」
すると彼は、何故か私の身体を舐め回すように見てくる。
「…ふむ。顔は地味だと思ったが、身体は悪くないな。
――お前も女の喜びを知らぬままだと寂しいだろう。
名目上、お前は私の妃でもある。
どうだ。今夜あたり私が相手でもしてやろうか。」
その言葉に私は顔色を変えずに淡々と答える。
「…それは、『聖女』がしなければならない職務に含まれるということでしょうか。」
「…なっ!私に誘われてもお前は何も思わぬと言うのか!
私に抱かれることがどれだけ名誉なことか分かっておらぬのか!?」
私の返答にシリル殿下は何故か憤慨している。
「…はい。何も思いませんが。」
すると、ギリっと奥歯を噛み締めた後怒鳴りつけてきた。
「っくそ!もう良い!!下がれっ」
――そして、私は言われた通り、城壁に強固な結界を張った。
これで城が壊される心配はまずないだろう。
数日はまるで、情報が誤りであるかのように何事もなく過ぎていった。
指示を出したはずの王都の人間は爆撃されることなくいつも通りの日々を送り、代わりに違う人間が毎日どこかで亡くなっているのだろう。
王都で王族や貴族が贅沢をする中、今日もどこかで誰かが戦地でうめき声を上げている。
その間、ふらりとフィンが私を訪ねて来た。
「…リュシア様。そろそろ革命軍が城を攻めて来る予定です。
一つ教えてください。貴女は王族にどんな命令をされているのですか?」
尋ねられて私は淡々と私は答える。
「私はこの『城』を守るように言われました。
だから建物はきちんと破損しないように結界を張りました。」
その言葉に何故か彼は目を見開く。
「…そうですか。王族を守るようにとは言われなかったのですね。そうしようとは思わないのですか?」
私は首を傾げる。
「何故私が指示を受けていないのに、何も感じない人達を守らなければいけないのでしょうか。
私はあくまでもこの『城』だけを守る予定です。」
すると、フィンは何故か吹き出す。
「…ははっ!そうですか。そりゃ傑作だ。
…ねえ、リュシア様。もし、貴女が逆にエルディン様に同じ指示を受けたら、そうしますか。」
その言葉に私は頭の中で記憶を再生する。
「私は何かあったら彼を助けると約束をした記憶があります。
――だから、彼を助けます。」
私がそう言うと、フィンは嬉しそうに頷く。
「是非当日は『城』だけを守りながら、何が起こるかを貴女がしっかりと見届けてください。」
私は表情を変えぬまま、頷く。
「では、また。終わったら是非別の場所でお会いしましょう。
…今度お会いする時には、貴女の目が何を映すのか楽しみです。」
そう言ってフィンは去ろうとしたが、扉の前で一度だけ振り返った。
その瞳には、どこか決意の光が宿っている。
「…リュシア様。
どうか――“真実”を見届けてください。」
意味のわからない言葉を残して、彼は静かに去っていった。
――私は初雪が降る中、何日も尖塔の上に登り、ただ街の景色を見ていた。
王都にひしめき合う灰色や茶色の建物には少しずつ白い雪が積もり始めている。
行き交う人々の表情はここに初めて来た時よりもさらに疲弊しており、街には孤児や物乞いも増えた。
商店から青年が食べ物を奪い店主と殴り合いになっているのが見える。
店の品物は大分少なくなっているようで、露店に置かれている食べ物の量も明らかに以前より減ってきている。
少ない食べ物を求めて大勢の人々が列を成している。
この国はきっと何もしなくても、近いうちに滅びるだろう。
――そして、深夜二十四時の鐘が鳴った時だった。
群衆の怒号が空を裂く。
ウオオオオオオオオオ!
火矢が雨のように城壁に飛んでいき、悲鳴と歓喜が入り混じる。
矢は城壁には突き刺さらずに落ちていくものの、人間には無慈悲なほど、次から次へと突き刺さっていく。
「見ろっ!聖女様が我らを攻撃せず、見守って下さっているぞ!」
「情報通りだ!」
「やはり神は我らに!」
熱狂の渦に、王族達の断末魔がかき消されていく。
天蓋から下を見下ろすと、たまたま焦って逃げようとするシリル王子と目が合った。
「何故っ、何故貴様は何もしないっ!お前は私を――」
そう言いかけたシリル王子の胸を矢尻が貫いていく。
ドスッ
彼は叫び声を上げる間もなく絶命した。
驚き目を見開いたまま固まる『シリル殿下』だったモノと目が合った。
――けれど私は、何も感じなかった。
命令通り、私はただ“城”という建造物を守っただけ。
血も炎も、叫びも涙も――私には、しんしんと雪が降りしきる音と同じだった。
ワアアアア!!!
「王族を討ち取ったぞ!」
「我らの勝利だ!!」
民衆が歓喜する。
――それを、私は表情を変えず、静かに見ている。
すると、かつて『封印魔法』によって私が感情を失ったバルコニーに国王陛下と王妃殿下が引き摺り出されていく。
「…待てっ、政権は譲るっ、だ、だから命は、」
命乞いをする陛下を無視して、恐らく革命派の代表者だと思われる者が、無慈悲に王妃殿下の首を切り落とす。
…彼の銀髪はどこかエルディン師匠に似ていた。
いつの間にか晴れて、白い月がくっきりと空に浮かび上がっている。
冬の寒空に真っ赤な血飛沫が舞った。
ワアアアア!!!
――国民が熱狂する。
その横で国王陛下が顔に恐怖を張り付けてガクガクと震えている。
「ひっ!来るな、来るなぁあ!!」
「…次はお前だ。」
そう言って銀髪の男がにじり寄り、国王陛下の首を一気に切り落とした。
ザシュッ
――その瞬間。
私の周囲をパアアアッと金色のあたたかな光が周囲を包み込む。
「…何だ?!」
「神の奇跡だ!!」
「…見ろ!!聖女様が…、」
――私の心臓の奥が、今度は満たされるような光で溢れてくる。
(…懐かしい。)
心が、感情が、光の粒となって私の心の中に溢れてくる。
(――ああ、そうだ。
本当は、私…。
ずっと、ずっと苦しかった…!!)
自覚した途端、目から涙がぼろぼろと溢れ出る。
「見ろっ!!聖女様が泣いている。」
「きっと大役が終わり、安心されたのだろう。」
群衆が興奮して騒めいている。
「聖女様!」
「聖女様!万歳!!」
私は城の結界を解き、涙を拭う。
ワアアアア!!!
――いつの間にか、割れんばかりの拍手が聞こえてくる。
(…違う。そんなんじゃないのに。)
私が混乱する頭で呆然としていると、コツン、と天蓋にフィンが石をぶつけて私を手招きしているのがわかった。
私は顔を引き締めて民衆にお辞儀をすると、階段を降りて城の中へと戻った。
「…リュシア様。感情を取り戻されたのですね?」
そう言って彼はフワッと笑いかけて来た。
「ええ、…王族が亡くなったからだと思うわ。
――ねえ、フィン。
師匠は?…エルディン師匠はどこに行ったの?」
私が震えながら問うと、彼が顔を曇らせた。
「…今、エルディン様は保守派の残党などの処理をしております。
だから、すぐにお会いすることは難しいと思います。
あの方は表面では国に忠誠を誓い魔導士団のトップになりましたが、水面下では革命派の貴族をまとめておいででした。
王族の首を獲ったのはエルディン様の二番目の兄上、コンラッド様。
――我が国の騎士団長です。
ですから、エルディン様にお会いになられるまでの間、貴方は安全な場所で保護させて頂きます。」
そう言われて私は目を見開く。
「…そうだったの。」
「きっと彼は、今の表情豊かな貴女にお会いしたら、大変お喜びになられると思います。
リュシア様。それまではいきなり感情が戻って来てお辛い思いをされることかと存じます。
――どうか、ごゆっくり静養なさって下さい。」
◇◇
それから数日が経った。
私は王都にある大きな侯爵家の屋敷で静養させられている。
――ここはエルディン師匠のご実家らしい。
静かな廊下には、高価そうな調度品が並び、古びた暖炉はどこか歴史を感じさせる。
(師匠は恐らく貴族のご出身だろうな、とは思っていたけれど。
まさか侯爵家の方だったなんて…。)
彼のご両親は既に引退されているらしい。
一番上のお兄様、ジョエル様は保守派として悪政を蔓延らせた罪で、一時的に投獄されているということだ。
…ただ、保守派を全て縛り付けておけば国が回らなくなる。
ジョエル様は能力が大変高かったので、監視付きで知識の深い分野に復帰させられるだろうという事だ。
(トラス村で、師匠は『自分達は親のコマだ』と言っていた。
ジョエル様も抗えないものがあったのかもしれないわね。)
夕食も食べ終わり、私が物思いに耽っていると、コンコン、とドアがノックされる。
「はい。どうぞ。」
私が答えると、エルディン師匠の面影をどこか感じさせる銀髪の男性が部屋に入って来た。
――そう。エルディン師匠の二番目のお兄様であり、革命の中心人物となったコンラッド様である。
「リュシア殿。その…。その後、体調はどうだろうか?」
彼は少し緊張した様子で話しかけてきた。
「コンラッド様。
…お陰様でのんびりとさせて頂いております。
その、お忙しい中お気を遣わせてしまい、申し訳ございません。」
私が頭を下げると、彼は慌てて手を振った。
「いや、いいんだ。
しかし、まさか『聖女』が王族しか使えない特殊な魔法で感情を封じられていたとはな…。
さぞかし辛かっただろう。」
そういって顰めた顔が、何となくエルディン師匠に似ていて少しドキッとする。
「…まあ、それは…。否定は出来ないですが。」
私が曖昧に笑うと、彼は鎮痛な顔をした。
「…知らなかったとはいえ、君を『聖女』に導いてしまったのが弟のエルディンだと思うと、本当に申し訳ない…。」
そう言われて私は目を見開く。
「…っ違います!!
師匠はただ私に丁寧に魔法を教えて下さっただけです。
――いくらコンラッド様でも、師匠のことを悪く言うのは聞き捨てならないです。
エルディン師匠は私の事をいつも助けてくれていた大切な人です。
ずっと私を支えてくださっていたのは彼なんです。
…彼は本当に人間的にも素晴らしいし、素敵な人です!!」
私が思わず大声で捲し立てると、コンラッド様はポカーンとした後、『ぷっ。』と吹き出した。
「な、なんですか!!」
なんだか恥ずかしくなって赤面して言うと、彼はゲラゲラと笑い出した。
「いや、遠目にしか見た事がなかったけど、聖女様はこんな方だったんだな。
…いつも無表情だったから、まさかこんなに喋ると思わなかった。
弟もこんなに慕われているなんて、きっと喜ぶと思う。」
そう言ってニヤッとした。
私は動揺して、アワアワしてしまう。
そして、思わず誤魔化そうとして違う話題をコンラッド様に振った。
「そ、それより!!
今日は私に何かお話があっていらっしゃったのですよね?」
私が尋ねると、彼はさっきまでとは打って変わり、深刻な顔をした。
「…ああ、そうだった。
この国の今後のことを一応貴女にも話しておこうと思ってな。」
そう言われて私は目を見開く。
「今回の革命だが、旗振り役は確かに私だった。
しかし、私は剣ばかり握っていたからな。
政治は得意な奴がやればいいと思っている。
…とりあえず、権力の一点集中を避ける為にも、今後は複数の有力家族が評議会を作り、集団で国を納めていく事になりそうだ。」
彼の言葉に私はふぅーっと息を吐く。
「…そうですか。」
短く答えると、彼は頷く。
「…ああ。まあ、そういうことだから。
貴女はここでゆっくりしていってくれ。また何かあったらすぐに知らせるから。」
そう言って退出していった。
――部屋に取り残された私は、窓から冬の寒さで澄み渡った夜空を見上げる。
キラキラと白い星々が燦然と輝いている。
(空だけはトラス村も王都も変わらずに美しいわね。)
トラス村を出て王都に来た次の日。
封印魔法をかけられた直後、絶望して顔を歪ませる師匠の顔が脳裏に過ぎる。
あの時は何も感じなかったのにふと思い出してしまった時、どうしようもないほど苦しい気持ちになる。
「…っごめんなさ、」
気付けば星空を見上げながら、涙を流していた。
(師匠はあんなに私を助けてくれたのに。
どうして私…。師匠を苦しめるような事ばかり言ってしまったんだろう。)
今は大分落ち着いたが、ここに来たばかりの頃は精神的に物凄く不安定だった。
師匠の悲痛な顔。
戦地で見た人々の痛々しい傷跡。
戦場での泣き叫ぶ声。
目を見開き絶命するシリル殿下。
――そして、感情を奪われた時のあの時の絶望感。
正直、物凄く残酷で凄惨な記憶だった。
皮肉な事に、感情がなかったからこそ救われていた部分もあったのだと思い知らされた。
けれど、師匠とのトラス村での記憶だけが、私の希望の光となった。
(絶対にまた、師匠と会うんだ。
そして、絶対に酷い事を言ってしまったことを謝って、支えてくれてありがとうって言うんだ。)
――それがなかったらきっと私は、狂ってしまっていただろう。
精神的に不安定な私を、親切に匿ってくれた侯爵家の方々には感謝しかない。
「エルディン師匠…。会いたいです。」
私は冬の夜空に向かって願いを込めた。
――それなのに。
「リュシア様!!大変です!
――っエルディン様が!
エルディン様が保守派の残党の雇った呪術師に呪いをかけられて…!
危篤だそうです!!」
――ある冬の寒い日。
…飛び込んできた報せは残酷なものだった。
◇◇
――そして、冒頭に戻る。
私は『沈黙の石』を握りしめながら、震える声で彼に伝える。
「…どうしてですか、師匠。
私、貴方に会ったら伝えたい事が沢山あったのに。
まだ『ごめんなさい』も『ありがとう』も…。
――っまだ貴方に何も言えてない!!
っ嫌ですっ、父も母もいなくなって、貴方までいなくなってしまったら、私は…、
私は!!どうすればいいんですかっ!」
泣きながら私が叫ぶと、涙が一滴、石に落ちた。
――ぽとり。
その瞬間。
パアアアッ
突然あたたかな光を発しながら石が輝き出した。
(…?!)
光はエルディン師匠の身体を包み込み徐々に黒い蔦の紋が消えていく。
「これは…。」
「信じられないっ!!」
フィンや側で控えていた医師達は驚愕の声を上げる。
師匠はまだ目覚めないものの、苦しげな呼吸が穏やかな寝息に変わった。
「…エルディン師匠…。」
私はぼろぼろと大粒の涙を流す。
医師が、感慨深そうに私の肩を叩く。
「…もう大丈夫ですよ。
呪いの紋さえ消えれば、あとは目覚めるのを待つだけです。
…貴女が外傷は全て治療して下さいましたから。」
そう言われて、私はぐすぐすと泣きながら返事をする。
「…はい。」
そんな私を、ホッとした顔でフィンが見ている。
「――リュシア様。
エルディン様を助けてくださって本当にありがとうございます…。
…本当に貴女が間に合ってよかった。
そうだ、実は、貴方に見せたかったものがあるんです。
ちょっと僕について来て頂けますか?」
そう言われて私は神妙な顔で頷く。
「… ええ。」
すると、彼は立ち上がり、すぐ近くにある別室に私を案内した。
扉を開けると、そこには懐かしいものが沢山あった。どうやら、エルディン師匠が負傷する前に使っていた部屋らしい。
見慣れた師匠の私服や鞄。
トラス村で貰ったラベンダーで一緒に作ったラベンダーのポプリ。
机の上には私が作った犬が彫られたペン立てが置かれていた。
その隣にはクリスマスにあげたクッキーが入っていた瓶があり、今は銅貨が沢山入っている。
木製のハンガーには、三年前師匠の誕生日に私があげた下手くそな毛糸のマフラーがかけてあった。
…そして、フィンが私に手渡したのは、トラス村での修行の最後の年に、彼がいつも使っていたスケッチブックだった。
私は深呼吸してから、スケッチブックを開く。
――するとそこには、数えきれないほどの『私』がいた。
師匠に揶揄われて怒った顔。
一緒に食べたお菓子が美味しくて笑った顔。
ラベンダーの花束を貰って喜んでいる顔。
魔法が失敗していじけた顔。
本を読みながら感動して涙を流している顔。
――そして、愛おしげに彼を見つめる自分の顔。
『…あと少ししか一緒にいられないから、君の事を描き残しておこうと思って。
泣き顔も笑顔も、真剣な顔も。
君は本当に、絵に描ききれないくらい表情豊かだね。』
師匠の言葉が脳裏に過ぎる。
「…私って、師匠に対してこんな顔をしていたんですね。」
そう言って、私は泣き笑いのような顔をする。
「…ええ。
…貴女が聖女になってからも、ずっとあの方だけは覚えていたのだと思います。
一度戦地に行った時、こっそりエルディン様がこのスケッチブックを開いていて。
僕が横から覗き込んだら、めちゃくちゃ焦っていましたから。」
そう言ってフィンはニヤッと笑った。
「…これ、貰ってもいいですか?」
私が尋ねると、彼は曖昧に笑った。
「どうですかねぇ。エルディン様にとって、大事なものだったと思うので。」
「…じゃあ目覚めたら、師匠に聞いてみます!!
目覚めるまで、ずっと師匠のそばにいてもいいですか?!」
私が食い気味に言うとフィンは苦笑する。
「…はい。いいですよ。
それにしても、リュシア様がこんなに明るくて元気な方だったとは思いませんでした。
…きっとエルディン様もそばに貴女がついていてくれると喜ぶと思います。」
そう言われて私はあの頃のように元気よく頷く。
「っはい!!」
◇◇
それから二日間、私はずっと眠り続ける師匠のそばにいた。
手を握るとじんわりと温かくて、彼が生きているのを感じられて嬉しかった。
(…早く目を開けないかな。)
――そう思いながらジッと彼のことを見つめていた時だった。
「…リュシア?」
彼が小さく呟きながら、目を開く。
「…師匠っ!」
私は喜びと嬉しさが溢れすぎて、思わず大きな声で叫んでしまった。
「…え、ほ、本当に?どうして…!!」
無理して起きあがろうとする彼を私は慌てて支える。
「師匠、無理しないで下さいっ。
今までずっと意識がなかったんですから。
先生ー!!今、エルディン師匠の意識が戻りました!!」
叫ぶ私を驚いたように彼が見つめてくる。
「…驚いた。本当に、元の君に戻ったんだ…。」
その言葉に私は満面の笑顔で答える。
「はいっ!!」
すると、医師が慌てて部屋に入ってきて、意識が戻った彼を見てホッとした顔をした。
「…うん、問題ないようです。
体力は消耗していたけれど、呪い以外はそもそも聖女様が治療してくれていましたしね。
あとは疲れが取れ次第、自宅にお戻りになっても問題ないかと思います。」
その言葉に私は心から安心した。
「ありがとうございます!」
私がお礼を言うと、皆が退出していった。
パタン。
――ドアが閉まり、部屋には私とエルディン師匠の二人だけになった。
「…あの!師匠、お腹減ってませんか?
丁度さっき持ってきてもらったパン粥があるんです。」
「うーん、…じゃあせっかくだから、もらおうかな。」
私が尋ねると彼が凄く嬉しそうに答えてくれた。
私がパタパタと準備をしている間も、ずっと彼からの視線を感じてなんだか恥ずかしい。
私はスプーンにパン粥を掬うと彼の口元に持っていく。
「はい、あーん。」
私がそう言うと、彼は真っ赤になって固まった後、意を決したように口に入れた。
「…美味しい。」
「良かったー!まだいっぱいあるから沢山食べてくださいねっ。」
私が笑顔になると、彼がクシャリと顔を歪ませた。
「…リュシア。君がまた、僕の前で笑ってくれているなんて夢みたいだ。」
その言葉に、私も泣きそうになる。
「…はい、私も師匠にまた会えて夢みたいです。」
私達はしばらく見つめ合い、徐々に顔が近づいていく。
気がつくと唇を重ねていた。
唇を離すと真っ赤になった私を見て、彼は満足そうに目を綻ばせた。
「…っ、あの、エルディン師匠。」
私がモジモジしていると、彼は真剣な目で私を見つめてきた。
「…何?」
その眼差しに思わず、私はぎゅっと彼からもらったペンダントを握りしめる。
(よし…。勇気を出して謝ってから、支えてくれてありがとうって言うんだ…。)
緊張してドキドキする。
「えっと、私…。師匠に会えたらずっと伝えたかった事があるんです。私…。」
「…ちょっと待って!!」
いきなり遮られて、私は思わず顔を上げる。
「それは僕から言いたい。
――リュシア。
僕も本当は君の事がずっと好きだった。」
そう言われて、私は驚いて目を丸くする。
「……え?!
あ、あの、私。封印魔法を使われてた期間、師匠に酷い事いっぱい言っちゃったから謝ろうと思ってただけ、なんです…けど。」
すると、師匠は呆然とした後、ジワジワと顔を赤くした。
「えっ、え…。本当に?
うわ、…め、めっちゃ恥ずかしい…。」
そう言って彼が真っ赤になった顔を両手で隠したので、私は彼の手を慌ててぎゅっと握る。
「…何?」
彼はちょっと拗ねてしまったようだ。
――だから、私は勇気を出して伝える。
「ご、ごめんなさい。
でも私も、ずっと師匠のことが好きでした!!」
そう言うと、彼は目を見開いた後、
「はぁー…。」と息を吐いた。
「な、何ですか。」
しどろもどろになる私に、彼は低い声で囁く。
「…今のは可愛すぎて、ずるい。」
そう言って、ギュッと抱きしめてきた。
「…くるくる表情を変える君のことが、本当はずっと好きだった。
…だから、この数年間。
無表情な君を見るのが一番つらかった。」
その言葉に私は胸がぎゅっと痛くなる。
「…ごめんなさい。っ、こんな私をずっと支えてくれて本当にありがとうございます…。」
すると、彼はコツンと額を合わせてきた。
「…謝らないで。君にはどうしようもなかったことだから。
――それに。僕が一緒にいたくていただけだ。」
そう言って、彼は優しく背中をぽんぽんしてくれた。
「…僕とこれからもずっと一緒にいてくれる?」
その言葉に私は笑顔で答える。
「はい!!私もずっと師匠と一緒にいたいですっ!」
◇◇
――今日は彼と拠点にしていた建物を出て、一緒に侯爵家に帰る日だ。
「よし、じゃあリュシア。行こうか。」
そう言って彼が私に笑いかけてくる。
「…はい!えと…、エルディン。」
私が恐る恐る彼の名前を呼ぶと、彼は嬉しそうに顔を綻ばす。
――この前、これから伴侶になるのだから『師匠』ではなく名前で呼んで欲しいと言われたのだ。
「…あ。」
「どうしたの?何か忘れ物?」
私が声を漏らすと、心配そうな顔で彼が私の顔を覗き込んでくる。
「あの…。エルディン。これ、貰ってもいいですか?」
そう言って、私がスケッチブックを取り出すと、彼が固まったあと、ジワジワと顔を赤くしていく。
「な、な、なんで君が持ってるの?!それ!!」
そう言われて私はキョトンとする。
「え、フィンから……」
すると彼は恥ずかしそうに口元を抑える。
「…フィ、フィンのやつ〜〜!!
え、まさか君、中身、見たの?」
「…はい。嬉しかったので、欲しいなって。駄目ですか?」
私が尋ねると、彼は慌ててスケッチブックを取り上げる。
「だめ!これは僕の宝物だから!!」
私は焦る彼を見ているうちに、なんだか胸がいっぱいになっていく。
「…ふふっ。なんだか私ばっかりエルディンを好きなんだと思っていたら、そうでもなかったんですね。」
私がそう言うと、彼はさらに顔を赤くする。
「…あーあ。フィンのせいで、これからリュシアの尻に敷かれそうだな。」
私達はしばらく見つめ合った後、ぷっと吹き出した。
「…行こっか。」
「はい!!」
――こうして私達はその場を後にしたのだった。
侯爵家に戻ると、コンラッド様と少し疲れた顔をした知らない男の人がいた。
髪の色は金髪だが、顔がエルディンにそっくりなのですぐに親族であるとわかった。
「ジョエル兄さん…。」
そう言ってエルディンは目を見開いた。
すると、ジョエル様が立ち上がって深々と頭を下げた。
「…二人とも。
…今まで申し訳なかった。
私は父に家督を譲られる前からなんとなく王家の者が何をしているのか勘付いてはいたのに。
今まで我が家が築き上げてきたものを、自分の立場を捨てるのが怖くて。
お前達のように行動を起こす事ができずにいた。
結果、王家の者が暴走するきっかけを作ってしまった。
さすがにコンラッドから聖女殿のことを聞いた時は…、自分の愚かさに吐き気がした。」
そう言って瞳を揺らしていた。
「…もういいよ。兄さん。僕らのうちどちらかが同じ立場だったとしたら…。
兄さんと同じように考えていた可能性だってあったんだから。」
そう言ってエルディン師匠は眉を下げた。
「ま、とはいえ兄上に監視はつけさせてもらうけどな。
そうしないと私も対面が保てないし。」
コンラッド様は複雑そうな顔をしている。
「…ああ。構わない。
聖女殿。どうか、これからエルディンのことを宜しく頼む。
…エルディン。もしこれから何か困ったことがあったら言ってくれ。
兄として。助けられることがあれば助けよう。」
そう言ってジョエル様は真剣な目でエルディンを見つめた。
驚いたようにエルディンは固まっていたが、やがて顔をクシャリと歪ませた。
「…ああ。ありがとう。兄さん。」
こうして、少しだけエルディンは家族とのわだかまりが解けたようだった。
――そのあと、私は彼と二人で侯爵家の庭園を散歩した。
手を繋いで歩きながら、私達は色んな話をした。
「これからは私もエルディンの家族になります。
ですから…、ずっと隣で支えますからね。」
すると、彼はぎゅっと私を抱きしめて囁いた。
「…ああ。僕も約束なんてしなくても、絶対に君を助けるから。」
――雪が溶けて、もうすぐ春が来る。
庭園には雪の下から春の花が芽吹き始めていた。
私達は新しい人生に胸を膨らませるのだった。
◇◇
「うわぁ!!懐かしいっ!
エルディンっ!見て下さい。ラベンダーが満開ですよ!」
――数日後、私達は無事婚約することが出来た。
そして新しくなったこの国で、エルディンはトラス村を含むこの辺境の地を治める領主となる事が決まったのだった。
真っ青な空の下、黄金に輝く美しい麦の穂がゆらゆらと風に揺られている。
「…ああ。ようやく一緒に帰ってくる事が出来たな。」
彼が感慨深そうに頷いた。
「っはい!!」
私は感動と懐かしさで泣きそうになりながら頷いた。
――すると、遠くの方から声がする。
「リュシアちゃーん!!」
手を振ってくれていたのはトラス村でよくパイをお裾分けしてくれていた、マーサおばあちゃんだった。
「マーサおばあちゃんっ!」
私が抱き付くと、嬉しそうに頭を撫でてくれた。
「今日帰ってくるって聞いてね。
リュシアちゃんの好きな夏野菜とひき肉のパイを作っておいたんだよ。」
そう言って目を綻ばせた。
後ろにいるエルディンはその様子を優しい顔で見守っている。
「ほら、領主様も一緒に食べていきな。」
結局私達二人でマーサおばあちゃんの家にお邪魔することになった。
――家の中に入ると、フワリとラベンダーのポプリの匂いがしてなんだか凄く落ち着いた。
ふと壁を見ると、反転魔法の練習で昔作ったドライフラワーが飾られていた。
「ほら、座って。」
マーサおばあちゃんに言われて、テーブルにつく。
パイの中には美味しそうなトマトとひき肉とナス、それにズッキーニのフィリングが入っている。
パイ生地はバターがたっぷりで、食べるとなんだか幸せな気分になった。
「いやー、それにしても本当にあんた達が結婚するなんてねぇ。
まぁ、ばあちゃんはそうなればいいなって思ってはいたんだけどね?
それなのに、二人とも急に王都に行っちまったっていうし。リュシアちゃんが聖女になったって聞いた時はもう、心配してたんだよ。
…いっぱい戦地に連れていかれたって聞いたけど。大丈夫だったのかい?」
そう言ってマーサおばあちゃんは気の毒そうに眉を下げる。
「心配かけてすみませんでした。
…そうですね。辛いこともまあ、ありましたけど。
でも、今はエルディンの側にいられて本当に幸せです!!」
私が笑顔で言うと、彼女は嬉しそうに頷いた。
「…そうかい。そりゃあ、良かった。
領主様。もしリュシアちゃんを泣かせたりしたら、許さないからね!!」
「はい、絶対に幸せにします。」
エルディンが真っ直ぐな目で答えると、マーサおばあちゃんは『おやまあ。』と言って笑った。
「ご馳走様でした。とっても美味しかったです。」
パイを食べ終わってエルディンと何度もお礼を言ってマーサおばあちゃんの家を出る。
村を歩いていると、色んな人達が声をかけてくれた。
「リュシアちゃんっ!お帰りなさい!」
「リュシアっ!お前んちの庭の草抜きやっといたぞ。」
「リュシア、久しぶりー!王都はどうだった?」
私は喜びで胸がいっぱいになりながら、叫ぶ。
「…ありがとう!!みんな!帰ってきたよー!!」
…トラス村のみんなが私を見ると、『リュシア』と呼んでくれる。
この村には私の事を『聖女』と呼ぶ人は誰もいない。
――私はようやく、『感情を奪われた兵器』から『リュシア』という一人の人間に戻る事が出来たのだ。
笑顔になる私に、エルディン師匠は嬉しそうに微笑む。
「良かったな。」
「はいっ!
…あ。エルディン。
そういえば、結局『沈黙の石』に一体何を願っていたんですか?」
私が尋ねると、彼は照れながら教えてくれた。
「『君が僕の前だけでも、強がらずにきちんと泣けるようになりますように。』だったかな…。
ほら君、ご両親のことがあった時、気を遣って泣かないようにしてただろ?
それがなんだか寂しくて…。」
その言葉に私は思わず目を丸くする。
「…え、ええ?!
そんなに前から私の事、もしかして好きでいてくれたんですか?」
すると、師匠の耳が赤くなる。
「…うん、まあ。そう…かも。」
嬉しくて、私は思わず彼にしがみつく。
「わ、何?」
彼が慌てて私の事を支えてくれる。
「えへへっ、これからはずーっと一緒にいられるんですね!」
心から笑顔になる私に、彼は目を綻ばせる。
「ああ。ずっと一緒だ。」
黄金に輝く麦の穂が、私達の前途を祝福するように、ざぁっと風に揺れていた。
―― 私達はこれからずっと一緒に、心から笑ったり泣いたりしながら、彩り豊かな日々を過ごしていく。
fin.
最後までお読みくださり、本当にありがとうございます(´ω`)
普段はローファンタジーが多いのですが、今回は初めて本格的な異世界恋愛の短編に挑戦してみました。
少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。
それでは、また次回作でお会いできたら幸いです。
ありがとうございました。
2025.8.28 ブー横丁




