香草亭メモワール 、薬草娘と風変わりな騎士さま
雨音が屋根を打ち続ける夜だった。
私は、古びた木造の扉を閉じながら、カウンターのランタンに灯を入れ直した。しとしとと降り続くこの雨の夜、こんな山奥の小さな食堂にわざわざ訪れる客など、そういない。
でも、そんな静寂を破ったのは、控えめに扉を叩く音だった。
「…どちら様?」
扉をそっと開けると、ずぶ濡れになった男がひとり立っていた。黒のコートの裾から水が滴り、銀髪が額に張りついている。旅人だろうか。
「…宿を探していて。できれば、食事も」
その声は低く、でもどこか疲れていた。私は少しだけ躊躇ってから、扉を開けた。
「…こんな辺境に、よく来ましたね。よかったら、中へ」
男は黙ってうなずき、濡れた外套を脱いで入ってきた。足元には、ぽすんとふわふわの獣ポウが現れて、その男をじっと見上げている。警戒しているようだけれど、吠えたりはしない。ポウは妙に人を見る目がある。
「名乗っても?」
「…あ、はい。私、ミラ・ラグレイン。この“香草亭”をひとりでやってます。あなたは?」
「ゼイド。ゼイド・フォルク。…ただの旅人さ」
“ただの”と口にするには、随分と背筋がまっすぐな人だなと私は思った。旅人特有のだらしなさがまるでなく、剣を帯びたままでも店内の空気を乱さない人だった。
「食事…何か、ありますか?」
「ええ、ちょうど〈山鳥の燻製とヒメダケのスープ〉を作ってたところです。よかったら、それを」
彼は黙ってうなずいた。
私は厨房に戻り、火加減を調整しながら、薬草の棚から香りの強いドリオナ葉を取り出す。それをスープに一片だけ浮かべると、さっぱりとした清涼感が広がる。疲れた体に効くよう、少しだけ癒しの効能がある葉っぱだ。
スープを器に注ぎ、焼き立ての黒麦パンを添えて彼の前に出す。
「…どうぞ。少し熱いですが、雨で冷えた身体にはちょうどいいかと」
ゼイドは言葉少なに、スプーンを取り、ひと口すすった。
しばらくの沈黙。
「…やさしい味だな」
それだけ言って、またスープを口に運ぶ。私は少しほっとした。旅人相手の初対面料理は、毎回やっぱり緊張する。
「このスープ…ドリオナ葉を使ってるな。普通はもっと苦く出るのに」
「えっ、わかるんですか? …少しだけ、乾燥させてから使うと、えぐみが飛ぶんです」
「薬草師の娘か?」
私は思わず笑った。
「正解です。祖母も母も、村の薬草師でした。でも、私は薬より、食べ物のほうが得意で」
「…珍しい取り合わせだな。料理人と薬草師」
「でも、身体に効くごはんって、ある意味“食べられる薬”じゃないですか?」
私がそう言うと、ゼイドはほんのわずかに笑ったように見えた。それから、パンをちぎり、スープに浸して食べる。
「…このパンもいい。黒麦をここまで軽く焼けるとは」
「そこ、褒めてくださるんですね。嬉しいです」
なんとなく、その夜は、それきり多くを語ることはなかった。
でも、スープの鍋が空になって、ポウが静かに眠りについた頃
「三日ほど…ここに泊まらせてもらえないか?」
そうゼイドが言った。
「…部屋はひとつしかありませんけど、納屋を片付ければ何とかなります。食事も一緒に、でよければ」
「…それで十分」
その答えに、なぜか少しだけ胸が温かくなった。
まるで長く続いた雨の夜に、かすかな灯がともったみたいだった。
ゼイドさんが滞在するようになって、今日で三日目。
納屋を片付けて用意した部屋は狭いし、雨が続いて洗濯物も乾かない。それでも、彼は文句一つ言わず、きちんと寝床を整えて、朝には手伝いを申し出てくれる。
「薪割り、終わった」
「ありがとうございます。助かります」
彼のような人がこの“香草亭”に長居するなんて、最初は想像もしなかった。私は人見知りだし、騎士様みたいな人は無言が多くて、距離の詰め方が難しい。でも、ゼイドさんは意外と、静かな場所に馴染んでいた。
そんなある日の午後。冷たい風が吹き抜け、薪の炎も少しだけ頼りなく揺れていた。
「今日は、何を仕込む?」
ゼイドさんがふいにそう言ったのだ。
「え? 一緒に作るんですか?」
「…君の料理、勉強しておきたい」
騎士が料理を学ぶなんて変な話だけど、私としては悪い気はしなかった。
「じゃあ、一緒に“ラグー”を作りましょうか。野菜と獣肉をとろとろに煮込む料理です。寒い日にはぴったりですし」
私は、地下の食材庫から〈シシコダマ〉という山猪に似た生き物の肉を取り出した。
それに、赤根のルツィア芋、夜色のコルル茸、香りの強いティリ草。どれもこの地域ならではの食材だ。
「まず、肉を大きめに切って…焦げ目がつくくらい、強火で焼きます」
ゼイドさんは真剣な顔で私の動きを見て、そして真似した。
驚いたことに、包丁の手つきがすごく丁寧だった。
「…料理、したことあるんですね?」
「昔、ある場所で少しだけ。師匠に叩き込まれた」
その師匠って、どんな人だったのかな…と聞きたくなったけど、言葉を飲み込んだ。
焦げ目のついた肉を鍋に移し、刻んだコルル茸とルツィア芋を加える。火加減を少しずつ弱めていき、仕上げにティリ草を一枝。これが入ると、なんとも言えない甘い香りが立ち上るのだ。
「…いい香りだ」
「でしょ? ティリ草は、乾燥させるとちょっとバニラに似た香りになるんです。煮込み料理にぴったりで」
ゼイドさんは鍋の中をじっと見ていた。
「こういう香りのある食卓は、ずいぶん久しぶりだ」
ぽつりとこぼしたその言葉に、胸がちくりとした。
この人は、どこかで“食卓”を失った人なんだろうか。
「…私ね、料理を作るのが好きなんです。味ももちろんだけど、台所にいると“何かを守ってる”ような気持ちになるから」
「守る?」
「うん、誰かが“ただいま”って言える場所を」
その瞬間、ゼイドさんの目がふと柔らかくなった。
きっと、私の声よりも、香りや音が彼の記憶を揺らしたんだろう。言葉って、案外その後に来るのかもしれない。
煮込みにじっくり一時間。味見をして、塩と黒花胡椒で整え、最後にちょっとした隠し味甘酸っぱい〈ムリュ樹の実〉のペーストを少しだけ加える。これで、味に奥行きが出るのだ。
「できました。よかったら、どうぞ」
木製の深皿に盛りつけ、焼きたての白麦パンを添えて出す。
ゼイドさんは黙ってスプーンを取り、ひと口、またひと口。
「…あったかいな。身体の芯まで染み込む」
「よかった…ちょっと甘めにしてみました。苦手じゃなかったですか?」
「いや、これでいい。…こういう味が、遠い記憶にあった」
ゼイドさんはそれきり黙って、静かに食べ続けた。
ポウも足元でぬくぬくと眠っている。私も向かいに座り、同じ料理を食べながら、ぽつんとつぶやいた。
「ねえ、ゼイドさん」
「…ん?」
「この町に、もう少しだけいてくれませんか?」
私は、自分でも驚くくらい自然に言っていた。
それが、誰かを呼び止めるような、あるいは自分の気持ちを認めるような、そんな言葉だった。
彼は、しばらく黙ってから、こう答えた。
「…“もう少し”だけじゃ、足りないかもしれないな」
それが、彼からの答えだった。
朝の光が差し込む台所で、私はせっせとハーブを干していた。
ローネの森で摘んだ月葉草、消化にいいとされるホッコリ根、喉にやさしいヤミカミの実。それらを並べながら、私はつい隣の椅子に目をやってしまう。
そこにはもう、ゼイドさんの姿があるのが当たり前になっていた。
朝食のあとに淹れる薄めのハーブティーを、黙って飲む人。静かで、でもどこか柔らかい空気をまとっている。
あれから、彼は香草亭に残った。理由は聞かなかったし、聞くつもりもなかった。
ただ、滞在の手伝いという名目で、私は毎日一緒に何かをする時間を持っていた。
「ミラ、干し終わったか?」
「ええ、あと少しで終わります。…ゼイドさん、今朝は早かったですね」
「習慣だ」
と、言いつつ、彼はいつもより静かだった。
テーブルの上には、彼の手書きの地図と小さな銀の懐中時計。いずれも古びていて、長い旅を物語っていた。
「ねえ…ゼイドさんは、どこかに帰る予定なんですか?」
ふと、そんなことを聞いてしまった。
彼は一瞬だけ目を伏せ、それからぽつりとつぶやいた。
「…帰る場所はもうない。あるとしても、戻るつもりはない」
私はそれ以上、深くは聞かなかった。
けれど、その声の奥に“過去”の気配がにじんでいた。香草亭に吹く風のように、かすかだけれど確かに、心に触れるものだった。
午後になって、町の診療所から依頼が来た。
「病人が食べやすい、やさしいスープを作ってほしい」とのこと。私はひとりで薬草を抱えて向かうつもりだったけれど
「俺も行く」
ゼイドさんが言った。
「でも、診療所って騎士の人には…」
「俺が騎士だったのは、もう昔の話だ。今はただの旅人だろ?」
その言い方に、私は少しだけ笑ってしまった。
診療所は町の中央通りにあり、小さな石造りの建物だ。
中では老医師のエルダさんが患者たちの診察をしていた。中には寝たきりの人もいて、香りのやさしいハーブスープが必要だという。
私は〈ふゆあおい草〉と〈銀にんじん〉、そして〈ムーンリーフの葉〉を煮込んだ優しいポタージュを作ることにした。
「ゼイドさん、銀にんじん、皮をむいてもらえます?」
「これか…ちょっと独特な手触りだな」
「地面の下で冷たい空気に当たると、甘みが強くなるんです。だから冬場の収穫が一番なんですよ」
こんなふうに、何気ない説明をしている時間が、私はとても好きだった。
やがてスープが完成し、診療所のスタッフに配られるころ、ひとりの少年がゼイドさんを見上げて言った。
「ねえ、おじさん、剣を持ってるの?」
「今は持ってない」
「でも、昔は戦ったんでしょ? おれ、剣士になりたいんだ」
その瞬間、ゼイドさんの表情がわずかに揺れた。
「…剣は、自分と誰かを守るために持つんだ。振るうことを目的にすると、後悔する」
少年はきょとんとしていたが、ゼイドさんの言葉は確かに胸に残ったようだった。
帰り道。香草亭の前で、私は意を決して尋ねた。
「ねえ、ゼイドさん。さっきの言葉、本当はあなた自身に向けてたんじゃないですか?」
彼はしばらく黙っていた。
「…昔、護衛任務で人を守れなかったことがある。王都で起きた小さな騒乱で、俺の判断が遅れた。そのせいで、一人の少女が…」
言葉を飲み込むように、彼は目を伏せた。
「その子は、香草とお菓子が好きな子だった。お礼にって、よく手紙をくれた」
私は、そっと彼の手に触れた。
「ここにいる限り、あなたは“誰かを守れなかった騎士”じゃない。…“香草亭のラグーを作る人”です」
ゼイドさんは、ゆっくり私の手を見つめ、それから小さくうなずいた。
「…そうかもしれないな」
その夜。私はひとり、帳簿をつけながらふと思った。
あの人は、心のどこかで“過去”に閉じ込められている。
でも、その鍵を少しだけ開けることができたならきっと、また誰かのために“今”を生きられる。
そんな気がしたのだった。
春の足音が、ようやくこの町にも届き始めていた。
ローネの森では〈春霞草〉が小さな花を咲かせ、香草亭の軒先にも、あたたかい風が通るようになった。
ゼイドさんが香草亭に来てから、もうすぐ一ヶ月。
その日常は私にとって、まるで長くて短い夢のようだった。
けれど、夢にはいつか終わりが来る。
「…王都からの伝令が、俺を見つけた」
彼はそう言って、一枚の封書を差し出した。
そこには王国の印章と、騎士団の古い紋章。すでに失われたと思っていた名が、そこにまだ残っていた。
「戻るんですか?」
私は、問うてもいない気持ちが声に混ざるのを感じた。
「正直…分からない。義務として行くべきか、もう背を向けていいのか」
そう言って彼は、台所の椅子に深く腰掛け、手元を見つめた。
その手はもう剣の柄ではなく、木べらの感触に馴染んでいるようにも見えた。
「…でも、決めなきゃならない時が来た。あの過去に、けじめをつけるためにも」
私は、何も言えなかった。ただ、手の中のマグカップをぎゅっと握って、あたたかさだけを頼りにしていた。
そしてその夜、私はひとつの決心をする。
翌朝
私は台所に立ち、特別な“朝ごはん”を準備していた。
ゼイドさんが好きだった、コルル茸のラグー。
前に作ったものよりも、野菜を多めにして、ほろ甘いティリ草を少し多めに入れる。
そして、薄く焼いた白麦パンに、ムリュ樹の実ジャム。
さらに、ポウのための小さなミルクパンも忘れずに。
それは、いつもの朝食だった。けれど、私の中ではきっと、特別な“送り出す朝”だった。
「…いただく」
ゼイドさんはいつものように席につき、黙ってひと口、またひと口と、ラグーを食べ始めた。
「ねえ、ゼイドさん」
私は思い切って言った。
「行くことになったら…それでも、また帰ってきてくれますか?」
ゼイドさんは、少し驚いた顔で私を見た。
「…帰ってきても、いいのか?」
「ええ。帰ってきたら、またこのスープを作って待ってます。だから今度こそ、きちんと自分の道を選んでください」
言ってから、自分でも気づく。
私はこの人を見送るんじゃなくて、“待つ”と決めたんだと。
ゼイドさんは、ゆっくりとスプーンを置き、静かに言った。
「…君と出会って、やっと自分の心に触れられた気がする。ここは、心の鎧を脱いでいい場所だった」
私は、照れ隠しのように笑った。
「そんな大げさな…私はただ、スープを作っただけです」
「そのスープに、命をもらったんだ。だから、約束する。また必ず帰ってくる」
そしてその日、ゼイドさんは旅立った。
季節は巡り、夏の風が草の香りを運んできたころ。
香草亭は、相変わらず静かに営業を続けていた。
新しい常連客も少しずつ増え、私は慌ただしく厨房を回る日々。
けれど、ふとした瞬間たとえば、ポウが寝息を立てる午後のひとときや、スープの香りが漂う朝私は、彼のことを思い出していた。
“ただいま”を言ってくれる日を、そっと待っている自分に気づきながら。
そして、ある日の夕方。
風鈴の音が鳴って、扉が開く。
「…ただいま」
低く、どこか懐かしい声。
私は思わず、鍋を持ったまま振り向いてそこにいた彼を見た。
旅の疲れを少しだけ顔に残しながら、それでも変わらぬ静けさと優しさをまとって、ゼイドさんはそこに立っていた。
私は笑って、こう答えた。
「おかえりなさい、ゼイドさん。…スープ、ちょうど出来たところです」
おしまい