テセウスの妻
「アニマトロニクスだよ」
だから、私の命は燃え続ける。永遠に。
彼女は確かにそう言っていた。彼女ほどの記憶力を持たない僕でさえ、その言葉を覚えている。
けれど、永遠の命を手にしたはずの彼女は息をするようにこの世から消えた。
見たこともないほど星が美しく瞬く夜だった。
*
「そろそろ教えてくれても良いんじゃないの」
僕のセンスを「年寄りくさい」とからかう妻は、ピンクや赤やオレンジの花束を抱えている。「私ならこれが好きだ」と言われては返す言葉もない。
「もう何度も一緒にお墓参りをしたのに、あなたってば、いつまでたっても前の奥さんのことは教えてくれないんだもん。私だって気になるわ」
妻は子供みたいなむくれっ面を僕に向けた。それが昔から変わらなくて眩しい。すでになくなった前妻に妙なやきもちを妬いている姿さえ可愛いと感じるのは、僕が妻を愛しているからだろうか。
彼女が歩くたびワルツのテンポでひるがえる裾。もう雪も降ろうかというのに、彼女は夏用の白いワンピースを気に入っている。前妻も似たようなワンピースを好んでいた。雪が点ではなくて面で降ったら、彼女のワンピースみたいになるのかもしれない。
「体は冷えてないかい」
「うん、平気。やっぱり、冬に夏物なんて変かしら」
「上からコートを羽織っていれば夏物だって分からないし、いいんじゃないかな」
「そう、良かった」
話を逸らされたことに気づいているのか、いないのか。彼女は嬉しそうにステップを踏む。軽やかな足取りは羽でも生えているかのようで、命の重さを感じさせない。
「絶対音感があるんだ」と自慢する彼女の鼻歌が数歩前から聞こえる。僕にはその音程が本当に正しいか分からないけれど、妻が幸せを感じているならそれで良かった。
「手を繋ごうか」
「もちろん」
冷たい妻の指先に僕の脈打つ指先が絡む。その瞬間だけは、彼女と生きているような気持ちになれる。
前妻をなくし、もう何度目かの冬――いつからか数えることもやめてしまったから、本当は何十回目かの冬と言うべきなのかもしれない。
妻は毎年かかさず、前妻の墓参りへとついてくる。
「ひとりにしたら、あなたが前の奥さんのところへ帰ってしまうかもしれないでしょ」
いつだったか彼女はそんな風に言った。
僕が帰る場所は君のいるところだけだと、どう伝えれば妻に理解してもらえるのか。僕は未だに答えを見つけられないでいる。どんなプログラミング言語にもそんな命令文はない。
「……ごめん」
僕が小さく呟くと、妻は不思議そうにこちらを覗き込んだ。黒曜石みたいに綺麗な彼女の双眸、その反射に映り込んだ僕は自分でも滑稽なほど哀しい顔をしていた。
「どうして謝るの。平気よ。これでも私、嬉しいの。不思議なんだけど、あのお墓の前に立つと、前の奥さんとあなたのことをお喋りできる気がして。ほら、なんていったっけ? ……そう、推しだ。推しを語り合う感じなの」
妻はクスクスと笑う。慣れない言葉を情報の海から引き上げるとき、彼女の目はキラキラと輝いているように見える。
「推しを語るって……それは少し言い過ぎじゃない?」
「でも、人間って好きなものを共有できると嬉しい生き物でしょう?」
「そうだね」
妻はおしゃべりだ。そこも前妻と同じ。一を聞けば十が返ってくる。おしゃべりが止まらないほどの知識量には慣れていても目を見張る。
おしゃべりを続けているうちに、墓地へとたどり着いた。
無機質な黒がぽつぽつと並ぶ丘は、霊園というよりもスクラップ工場のようで心が痛む。綺麗な墓は少ない。ここには忘れ去られた墓の方が多かった。錆びついて動かなくなってしまった半世紀前の空気が、鎖のように絡みついている。
妻は前妻の墓の前に花を添えた。ふたりで墓を掃除してそっと手を合わせる。
僕は彼女に赦しを乞うために。
では、妻は。一体何に手を合わせているのだろう。
懐古や望郷めいた哀愁、無垢で純然たる同情、自身の深淵にかしずく共感――どんな感情が妻の中に渦巻いているのか、僕には想像できない。
顔を上げる。隣にいる妻は、まだ手を合わせていた。
語らいあっているのだろうか。
過去の自分と。
墓に刻まれた名前が、妻のうなじからのぞく。
透き通るような白い肌。そこに刻まれた数字はどこまでも無機質なのに、蛍のように淡い光で静かに点滅していた。彼女の鼓動に同期して瞬くパルス信号が僕らのために可視化されている。彼女自身は決して見ることのできない存在証明。
彼女の命は燃え続けている。
冬の鈍い空に、燃え続けている。
*
もう何十年も前になる。
僕はアンドロイド開発の最先端にいて、自律思考型人工脳搭載人造人間試作機女性モデル――すなわち、のちに妻となる女性型アンドロイドとの生活を共にしていた。それが学習データの蓄積過程と結果を観察するに最も効率的だったからだ。
彼女は美しかった。彼女は聡明だった。
僕らは偽物ほど完璧に造り込み、飾り立てたがる生き物だから。
幸いなことにその努力は実を結び、彼女はひと月と経たないうちに僕よりも人間らしい生活を送るようになった。
彼女との生活は真冬に見る花火のよう。鮮烈で刺激的、何気ない日常でさえ思い出に彩られた。
次第に僕は、彼女がアンドロイドであることを忘れ、彼女を愛するようになった。馬鹿げていると罵られたこともあれば、変人だと蔑まれたこともある。僕自身も大いに悩んだ。
だが、僕は結果的に彼女を妻として迎えた。後にこの選択肢が多くの人に広がろうとは思いもしなかったけれど、とにかく、僕はこの選択を生涯後悔しないだろう。
しかし、幸せだった僕と妻の新婚生活はそう長くは続かなかった。
僕らの街を包む豪雪が大停電の夜を呼ぶ。多くのアンドロイドが電源不足により強制的にシャットダウンされた。僕の妻も、もちろん動かなくなった。
停電復旧後、息を吹き返した妻が発した一言目は
「はじめまして」
僕が最初に彼女へ教えた決まり文句だった。
試作機だったせいかデータの復元すら出来なかった。極限まで人に似せたアニマトロニクス技術も、永遠の命をもち、神に等しい存在とまで揶揄されるアンドロイドも、所詮は人のつくった紛いもの。真の神の前では無力だった。
僕の愛した妻はその日、確かにこの世からいなくなってしまった。
見たこともないほど星が美しく瞬く夜だった。
*
「あなたも語り合ってたの?」
妻に微笑みかけられ、僕は我にかえる。
「いや、君のことを考えていたんだ」
「ふふ、それは嬉しいわ」
前妻と同じ照れ笑い。
彼女は身をひるがえす。白いワンピースの裾がやわらかに広がる。
空からは雪が舞い始めていた。
「帰りましょ。あなたが風邪をひいちゃうといけないもの」
前妻と同じ声色。
前妻と同じ軽い歩調。
前妻と同じ――……本当に?
言い聞かせてきたものが、肩に積もった雪と同じ速度でやわらかに溶けてゆく。
カーテンのように降りしきる雪に、妻の輪郭は薄れていった。
僕は彼女を失わないよう、止めてしまった足を動かす。よぎった疑問と肩の雪を軽く手ではらう。
答えは決まっているのだ。
妻の何かが、全てが変わってしまっても、僕は変わらない。
妻を愛している。
それだけが全てだ。
白い景色に輝く彼女の背を見つめる。
永遠に燃え続ける、その命を。
数あるお話の中から、この短編をお手にとってくださり、ありがとうございました。
最後に、皆さまへ質問です。
「ある日、あなたは最愛の人を失ってしまいました。しかし、すべての細胞を入れ替えることにより、愛する人が生き返りました。見た目や脳(記憶)は亡くなる前とまったく同じです。あなたは、以前と同じように、その人を愛することが出来ますか?」
このパラドックス、皆さまはどうお考えになりますか?
皆さまの中に、新たな「愛」の物語が生まれますように。