巡り巡って
4月から仕事が変わり、ドタバタした結果普段より短い作品となってしまいました。
それでも、主催者として何とか書き上げました。読者の皆様に少しでも楽しんでいただければ幸いです。
1945年、枢軸国の盟主たるドイツ、日本が相次いで降伏したことにより、第二次世界大戦は連合国の勝利のうちに終結した。これにともない、日独の軍隊は解体され、その保有する軍備も放棄されることとなった。
さて、その放棄となった軍備に関して、戦勝国は一部を賠償として接収に掛かった。
とは言え、戦勝国のうち米英からすると最先端技術を用いた兵器、つまりは自国の今後の兵器開発のサンプルとなる分を除けば、ハッキリ言って接収する意味などなかった。何せ両国には戦時中に大増産した自国製兵器が溢れており、それらの処分にすら困る状況だった。
特に艦艇は巨大で維持費が掛かるにも関わらず、仮想敵国である日独海軍が消滅してしまったがために、戦争が終わった途端お荷物になってしまった。
また、終戦時点においても、日独にはまだ浮いて稼働可能な艦艇は少なからず残存していた。しかし、米英からすると自国の艦艇よりも質的に劣り、戦況悪化でメンテナンスも行き届いていないそれらを接収しても、何の益もない。むしろ、前述した自国製艦艇でさえ処分に困る状況なのだから、やはりお荷物だ。
少しばかり調査して、後は処分で充分であった。
しかし、同じ連合国でも中(中華民国)ソの場合は事情が違っていた。
この両国はともに海軍が元々小規模で、そのなけなしの海軍すら第二次大戦によって戦力を大きく減じてしまっていた。
中華民国は同盟国である米英から艦艇の売却を期待できるが、それも金が掛かるし、ただでさえこれまで援助をしてもらった米英に、さらに恩を売ることになる。
またソ連は第二次大戦中こそ、対独共闘で米英から艦艇を貸与されていたが、既に後に冷戦と言われる西側との対立が始まっており、これらの艦艇を返却してしまえば縁を切られてしまうのは目に見えていた。
そんな両国にとって、タダで手に入れられる日本やドイツからの賠償艦艇は魅力的であった。特にソ連からすれば、戦艦や空母と言った日本の大型艦艇は喉から手が出るほどに欲しい代物であった。
それらの多くは、米軍の空襲で損傷もしくは大破着底していたが、その引き上げと修理費も賠償費用に含めてしまえば、何ら問題ない。
逆に、米英からするとソ連が労せずして大艦隊を入手、編成してしまうのだから、絶対阻止案件だ。
とは言え、この艦艇獲得競争に同盟国である中華民国が動いたために、事態は少々ややこしいことになった。
中華民国はこの海軍艦艇全てを賠償対象にするという点でソ連のみならず、フランスや中南米、さらには中東の一部国家を巻き込んだ。
「日本海軍は解体することになったんだし、どうせ敗者相手なんだからいいじゃん。俺たちは被害者なんだぜ」
と言ったかどうかはともかくとして、巡洋艦以上の艦艇の賠償を認める空気が国際社会で多勢を占めるようになった。
加えて、米英にとっても決してデメリットばかりでもなかった。特に最大のメリットは、戦争の終結によって大量の失業者であふれかえる日本国内に、雇用の場を創出できることであった。
敗戦の結果、それまで国内経済の主軸となっていた軍需産業が消滅したために、さらには軍の解体により多くの復員兵が発生した結果、国内には膨大な数の失業者が発生していた。
平和産業への転換は図られていたものの、敗戦国で充分な資材も資金もなく、さらには度重なる空襲で国内の工業は大打撃を受けており、それは容易なことではなかった。
そんな状況下において、海軍工廠は空襲を受けつつも、特攻兵器の生産などのために稼働を続けており、また艦の入渠修理に欠かせないドックは生き残っていた。
そのため、仮に中ソが大破着底、あるいは損傷した艦艇を日本国内で修理させるとなれば、費用や資源は日本持ちになるにしても、今現在大量発生している日本国内の失業者をある程度受け入れる産業となりうる。
とは言え、そうは言っても特にソ連に大型艦を渡すのはマズい。
そこで、アメリカを中心とする連合国総司令部(GHQ)が打った手は・・・
「賠償譲渡目的での引揚と修理を許可しよう。しかし、その作業は出来る限りゆっくりやれ・・・理由?君たちなら何とでも言えるだろ!安心しろ、アカどもが文句を言ってきても、そこはなんとかしてやる」
つまりは、修理作業の遅滞戦術である。そしてこの命令は、現場にとっても願ってもないことであった。
と言うのも、終戦直後のことである。確かに復員した人間の頭数は相当であったが、修理のための資材も、資金も、機材も不足しているのだ。
そんな状況で「ゆっくりやってくれ」というのだから、好都合であった。
こうして時間を稼いでいる間に、米英は中ソをなんとか宥めすかして、賠償艦を諦めさせようという魂胆であった。
しかし、この遅滞戦術はすぐに中ソの知るところとなった。このうち中国は、国共内戦が激しくなっていたので、特にアクションを起こさなかったが、ソ連は言うまでもなく激怒した。
「もっとヤポンスキーどもに急がせるよう命令しろ!」
「バカを言うな、修理用の資材さえ不足しているのだぞ」
「そうやって貴様らがサボタージュを唆しているのはお見通しだ!早く艦艇を修理させて、ソ連に引き渡せ!」
「だから・・・」
こんな応酬が連日連夜繰り返された。
ちなみに、米英中ソがどの艦艇を引き取るかは事前に配分がなされていた。例えば戦艦であれば「長門」は米、「榛名」は英、「伊勢」は中、「日向」はソと言う具合である。
ただし、この内終戦時自力航行可能なのは中破状態の「長門」のみで、他の3隻は全て大破着底状態にあり、引揚げと長期間の修理作業が必要であった。
空母も「葛城」が米、「天城」が英、「隼鷹」がソに配分されていたが、やはりすぐに稼働できる状態にはなかった。ちなみに中国は当初「鳳翔」、のちに未成状態の「伊吹」を宛がわれたが、結局自軍では運用できないとして辞退した。
巡洋艦も、同様に各国に配分されている。ただし、損傷もなく航行可能な艦艇は、当面復員輸送艦として使用されることとなっており、実際の引き渡しはその後であった。
さて、GHQ(と言うか米英)指示の遅滞戦術により、大破着底状態にあった大型艦艇が浮揚したのは、昭和21年も11月を過ぎてからであった。もちろん浮揚後も「大量に存在する特攻兵器の解体を優先」「至急必要な貨物船や掃海船舶の整備が優先」「資材不足」等々、あの手この手で引き渡しの長期化が図られた。
もちろん、ソ連側もただ口で言うだけでは埒が明かないと見て。
「日本側からの賠償艦引き渡しが完了するまで、米英からの貸与艦を返却しない!」
と、報復策に打って出た。
もっとも、米英から言わせれば。
「今さら旧式のR級や「オマハ」級、商船規格のフリゲートを持ってかれても、痛くも痒くもないわ!」
「むしろスクラップ費用が浮いたわ!」
と、全く効果がなかった。
そして、そうこうしている間にも時間は流れていく。占領下の日本では憲法改正が行われ、その条文において軍隊を放棄する平和主義が謳われた。
しかし、国際情勢の急速な変化は、日本に非軍事の時代を長くは続けさせてはくれなかった。
日本の統治から脱した後、南北に分かれて独立した朝鮮半島において、1950年戦争が始まった。北側の朝鮮民主主義人民共和国が南側の大韓民国に侵攻。朝鮮戦争である。
これに対し、日本駐留米軍は韓国救援のために戦力の過半を朝鮮半島に移さざるを得ず、日本の防衛が疎かになった。
そのため、GHQはそれまでの方針を翻して、日本の再軍備を認める・・・を通り越して要求することとなった。
「日本政府は日本本土防衛のために、海上保安庁の増強並びに、陸海軍に類する実力組織の編成に入るべし!」
この要求に、日本政府の関係者は頭を捻った。
「海上保安庁の増強はともかく、陸海軍に類する実力組織て何ぞや?」
「軍隊じゃないけど、軍隊ぽい組織を作れということだよ!」
憲法で軍の保有を自らに禁じた以上、さらには連合軍としても軍を解体させた手前、軍の再編成をしろとは言い難いので、軍隊ぽいものを作れということだ。
しかし日本政府としては。
「まだ復興途上で、国力的にそんなもの作ってる余裕は・・・それに、国民の反軍感情もありますし」
「そこは君たちで何とかしろ。こっちだって、ある程度便宜は図ってやる」
なんだかんだ言って、日本は占領された状態。GHQに逆らえる筈もなく、やむなく軍隊ぽい組織の編成に入った。
陸については、あくまで警察力の増強と言う意味合いで「警察予備隊」とした。
一方海上の方は、既に海上保安庁がある。しかも、海上保安庁は法で「軍隊として組織されない」と明確に海上の法執行機関(警察機関)であることを明記していた。
こうなると「海上警察」的な名前は使い難い。加えて、海軍の復活を望む旧海軍軍人たちからすると、そのような名称は受け入れがたかった。とは言え、どんなに「国防」とか「防衛」と枕詞をつけたところで「軍」とつけるのは、内外的にも出来かねる時勢だった。
結局海上部隊は無難に「海上警備隊」となり、所属する艦艇は全て警備艦となった。
そして、この所属する艦艇として連合国より供与された艦艇の一部は、なんと旧海軍の艦艇であった。
これらはGHQの引き延ばし戦術により、実に3年以上もの間ドック内でゆっくりと修理と再整備を行っていたのであった。
もちろん、中には状態が悪く再復帰できない艦艇もあり、また中華民国配分艦艇に関しては、工事は遅れつつも引き渡されている。
そのため、海上警備隊に引き渡されたのは大型艦の場合は、元戦艦(超大型警備艦)「長門」「伊勢」元航空母艦(航空機搭載超大型警備艦)「葛城」「天城」「笠置」「伊吹」元重巡(大型警備艦)「利根」「高雄」軽巡「酒匂」「鹿島」等となった。
さらに、不足している巡洋艦や駆逐艦には、米国から貸与された艦が充てられた。
ちなみに、旧海軍艦艇は名前をそのままに、読みを平仮名に直して引き継がれている。
かつての連合艦隊に比べればささやかな規模ではあるが、こうして終戦後わずか5年にして、日本は海上における実力戦力を有することとなった。
もちろん、これには内外から激しい反発が起きた。特に、賠償艦艇の引き渡しを再三に渡って引き延ばされた挙句、それらを取り上げられて警備隊向け艦艇にされてしまったソ連は「米英の裏切りによる日本帝国主義の復活」と声高に、ことあるごとに主張した。
しかし、既に東西冷戦がはじまり、米ソの対立が決定的となったこの時期にそんなことを口にしたところで、全くの無駄骨であった。
「貸与艦艇は返さず、レンドリース品の代金を払わん連中の戯言など聞く必要なし」
で終わりであった。
こうして海上警備隊は無事に誕生し、早速日本周辺の警備活動に入った。
連合国が賠償として差し押さえた結果、短期間で日本の海上戦力が復活するという、なんとも珍妙な光景が出現した。
もっとも、艦こそ帝国海軍の艦艇が引き継がれたものの、その船出は大変厳しい。国際情勢は東西冷戦がはじまり、朝鮮半島では熱戦となり、日本もその矢面に立たされている。
終戦からわずか5年にして、国土の復興はまだまだ途上で、経済力も本来であれば海上部隊の復活を許すほどに整ってはいない。
実際、これらの艦艇とその乗員を維持するための出費は、日本政府にとって頭の痛い問題となり、警備隊が海上自衛隊に改組後も、新鋭艦の建造抑制と言う形で跳ね返ることとなる。
また国民の間では、敗戦による陸海軍の権威失墜とその後の新憲法制定も含めて、強い反軍感情が燻っている。
一方で、旧海軍の主力艦艇による海上戦力が復活したことで安堵した人間も多数いた。それは旧海軍軍人やその家族だけではない。かつては海軍と共に繫栄した鎮守府の置かれた街々の人々。或いは、例え戦争の惨禍を受けようとも、純粋に連合艦隊の艨艟に憧れたかつての子供たちである。
旧海軍からの引継ぎ艦艇は、修理・改装をしたとはいえ、戦時中から急速に進んでいた電子化や、兵器の高性能化に対応が難しく、仮に戦闘が起きたとすれば、あまり役に立たなっかった可能性の方が大きい。
それでも、経済が復興した昭和30年代後半から続々と竣工する新鋭艦までの中継ぎの役目は、充分に果たしたと言えた。
また戦後の艦艇が、電子兵装や誘導兵器の発達から、それまでは全く違うスタイルに変化する中、海上自衛隊の旧海軍艦艇は、一部の艦艇を除けば比較的戦前のシルエットを良く残していた。
改装費用が高額となることや、もはや改装を加えるような戦力的価値が無いと言ってしまえばそれまでだが、逆に戦前の重厚なスタイルはファンから最後まで愛される要因となった。
旧海軍艦艇で最後に退役したのは、中型護衛艦に類別されて昭和50年まで在籍した「さかわ」(旧軽巡「酒匂」)であった。
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