エルマー
『陛下がお決めになられた婚約者を簡単に変える訳にはいかないが……続けられない身体になれば、仕方がないよな』
「───っ!」
自分の台詞に目を覚まし、周りを見渡すと夢である事に安堵する。
しかし、催眠術にかかっていたとはいえ、あの時の…イヴェットを突き落とす感覚が不意に甦り、右手を強く握りしめる。
あの時の自分は、今思い返しても吐き気がする。
ヘロイーズが女生徒に囲まれていた所を助けた事で、イヴェットを辛い目に遭わせてしまう事になるなんて思いもしなかった。
王族として、毒薬や睡眠薬、媚薬に関しての対策はしていた。
まさか匂いを使った催眠術など、思いもよらなかった。
最初は不思議な匂いだと思った程度だった。
自分が一人になった時を狙う様にヘロイーズが現れる様になり、徐々に一部の感覚が変わっていった。
今までと違い、イヴェットの声が耳障りに聞こえ、顔が歪んで見えた。
それと比例する様に、ヘロイーズの声をいつまでも聞いていたくなり、顔が煌めいて見えた。まるで、今までのイヴェットの様に。
そしてあの事件。
階段から突き落とした瞬間に、何か分からない感情が身体の中に渦巻き、王宮の部屋へ戻った頃には歩けない程頭痛が酷くなった。
イヴェットが落ちる瞬間の顔が目に焼き付いて離れない。
自分はヘロイーズが好き…? イヴェットが目障り…?
いや、そんな事は無い。
自分が好きなのは、愛しているのはイヴェット唯一人。
それなのに、自分は何をした? 何をしていた?
ヘロイーズを傍に置き、イヴェットを蔑ろにして、果ては階段から突き落とす?!
自分の行動が、思考がおかしい。
何が起きている?!
わからない、わからない、わからない。
頭痛と身体の中で渦巻く何かで、自分の意識は途切れた。
目が覚めたのは3日後。
母上と兄上から催眠術について説明を受けた。
イヴェットが階段から落ち、未だ目を覚まさない事も。
直ぐにイヴェットの元へ向かおうとした自分を、母上の声が止める。
「今行ってどうするつもりです? 目が覚めて直ぐに、突き落とした犯人の顔を見ろというのですか?」
頭から氷水をかけられた様に、全身の血の気が引いた。
「貴方に妙な術がかけられていたという報告は上がってきています。そして、ここ数か月のイヴェットへの態度に関してもです。侯爵からの抗議もきていますし、今貴方をイヴェットの元に向かわせる事は出来ません」
「………はい。……申し訳…ありません」
「まずはエルマー、お前に出来る事は、かけられた術を完璧に解く事だ。今はあの女の実母に男爵夫妻の術を解く事をさせている。上手くいくようなら、次はお前だ。術が解けるまでは外との接触は禁ずる、と陛下からのお達しだ。分かったな」
「はい…兄上」
誰の言う事にも反論出来る筈もなく、母と兄が去った部屋で一人、ただただ自己嫌悪に陥る。
ここ数か月の自分の言動を思い返し、吐き気を催す。
イヴェットに対して何故あんな言動が出来たのか理解が出来ない。
自分でも理解出来ないのに、イヴェットは更に理解出来なかっただろう。
それなのに、ずっと言葉を尽くしてくれた。信じてくれていた。
そのイヴェットを階段から突き落とすなんて……。
無事目を覚ましてくれ、と心の底から祈りを捧げるしか出来ない…。
数日後、イヴェットが目を覚ました事を知り、神に感謝した。
未だ身体の痛みがあり、暫くは療養の為面会は禁止との事。
意識ははっきりしており、記憶の混濁なども無いと思われるという。
ただ、身体の痛みについて単なる打ち身なのか、後遺症によるものなのかはまだ確認は取れないと。
イヴェットが目覚めてくれて、それだけで嬉しい。
もし後遺症が出る様であれば私が支えればいい。
誠心誠意謝罪し、これからの全てをイヴェットに捧げよう。
もし、何か問題が出るのであれば王籍を抜ける事だってかまわない。
まずは術を完全に解き、侯爵にイヴェットへの面会申し込みをしよう。
もう二度とイヴェットを悲しませないと約束する為に…!
イヴェットとの面会許可が下りたのは、事件から20日後だった。
広めのサロンで、いつもなら隣に座る所を向かいの席を指定された。
「お久しぶりです、殿下」
「ああ…もう大丈夫なのか?」
ヘロイーズと会ってから…術をかけられてからずっと、イヴェットは『殿下』とだけ呼ぶ。
『……私の名を呼ぶな。不愉快だ』
自分が言った事だ。自業自得の事で傷付くのは間違っている。
あの時のイヴェットの傷付いた顔を思い出せ。
お前が傷付くのは筋違いだ。
「ではもう大丈夫なのですね…良かった…」
イヴェットは、私の術の解除について、本当に安堵してくれた。
あんな事をしてしまったのに、恨み言も言わず、本当に優しい。しかし、この優しさに甘えてはいけない。きちんとした謝罪と償いをしなければ…。
そう思っていたのに、イヴェットから切り出されたのは婚約の解消だった。
受け入れたくなかった。
ずっと側で、今度こそ護るのだと思っていた。
しかし、自分に怯えるイヴェットを目にしたら、そんな我儘は言えなかった。
辛い妃教育にも耐え、涙を見せなかったイヴェットの涙を見てしまったら……自分の都合で縛り付ける事を望む訳にはいかなかった。
イヴェットは私の幸せを祈ってくれたけれど、幸せになどなれる筈も無い。……私の幸せはイヴェットとしか考えられないのだから…。
その後、陛下と侯爵に一連の流れを説明し、婚約は白紙となった。
王家としても個人としても慰謝料をと侯爵に申し出をしたが、本人が望まないと固辞されてしまった。
イヴェットとの接触も遠回しに禁止されたが、どうにか所在の確認だけはと侯爵に願い、侯爵領の外れにある孤児院併設の教会に落ち着く予定という事だけは教えてもらった。
暫くの間は、イヴェットとの婚約が白紙になった件は自分に非があり、イヴェットには何も問題が無い事を貴族には通達し、悪い噂が立たない様に尽力した。
自分がイヴェットの傍で守れれば良いが、近付く事は許されていない。
せめてもと信頼のおける騎士を派遣し、遠くから見守ってもらう事にした。何かあればすぐに連絡する様に、と。
そしてイヴェットとの婚約解消についての話題が落ち着いた頃、陛下に王位継承権の放棄を申し出た。
王族として、このまま婚姻もせず一人でいる訳にはいかないのは分かっている。しかし、どうしてもイヴェット以外との婚姻は考えられなかった。そんな状態のまま、王族として暮らしていく事は出来ないと臣に下る事を願った。
勿論、直ぐに了承はされなかった。
母や兄も思いつめるな、頭を冷やせと何度も説得に来た。
王族としての務めを果たす事が、イヴェットの望みだろうと言われた時は、悔しさで脳が焼き切れるかと思った程だ。
何を言っても自分の意志が変わらない事に呆れたのか、陛下から妥協案が提示された。
『3年間の猶予を与える。その間は療養中として公務は免除、自由にして良い。だがその後は婚姻し、王族としての義務を果たしてもらう』
3年間の猶予。きっとこれがイヴェットだけを思える最後。
陛下の…父上の恩情に感謝し、侯爵へ教会近くの街に住む事を願いに行く。
イヴェットに会えなくても、話せなくてもいい。
せめて近くで見守らせて欲しいと訴え、半年後、許可を貰った。
身分を隠して近くの街に移り住み、街の自警団の一員として仕事をしながらイヴェットを見守る日々を送った。
街に買い出しに来た時は遠くから見守り、時には教会近くまで行き、子供と戯れるイヴェットを見たりもした。
会わない約束をしたけれど、姿を見る度に愛しさが募る。
イヴェットの幸せを願いながら、自分以外の男と喋る姿を見る度に、笑顔を見る度に胸が焼きつくように痛む。
寂し気な顔を見れば抱きしめたくなる。
近くに居るのにこんなにも遠い。
自分が招いたことで毎度傷付く自分が愚かすぎて笑える。
そんな事をしながら、気付けば街に住みついてから2年が過ぎ、3年の猶予はもうそこまで迫っていた。
「最後に触れたのが、あの事件というのは……キツイな」
握りしめていた拳を緩め、薄く血の滲んだ掌を見る。
あの時の感触は忘れようにも忘れられない。
最後に手を握ったのは、頬にキスをしたのは、抱きしめたのはそれよりももっと前。術がかかっていた影響か、その感触を思い出す方が難しくなっていた。
「イヴェット……」
夢でもいい。もう一度この手に………。
夢を見た翌日、イヴェットが一人で荷馬車を操り街へと現れた。
買い出しは順調に済んでいるようだが、こちらとしては緊張し通しだ。
周りの警戒でイヴェットから目を離した少しの間に、不穏な声が聞こえてきた。
「おい、どこ見て歩いてんだ?!」
突然の怒声に声の主を探すと、イヴェットの腕を掴み、どこかへ連れ去ろうとしている二人組の男が目に入った。
「ほらほら、可愛がってやるから一緒に来いって」
「いやっ…離して…っ」
「それ抵抗か? 可愛いねぇ……って、痛ぇッ!」
確実に怯えているイヴェットを目にして、冷静で居られる筈が無かった。
「その手を彼女から離せ…!!」
イヴェットと男の間に割り込み、イヴェットの腕を掴む男の手首を力の限り握り締める。
「何だてめぇ!!」
「離せと言っている…!!!」
痛みに顔を歪める男に対し、殺気をぶつけイヴェットから手を引き剥がす。
「何だよ、そいつがぶつかった謝罪をだな…」
少し勢いは落ちたものの、イヴェットが悪い様に言う男に反論しようとした時、周りから声が上がった。
「嘘つけ! シスターにぶつかったのはそっちだろうが!」
「そうだそうだ! お前らが謝れ!!」
「シスターから離れろ!!」
通行人や屋台の人達が、イヴェットを守ろうと声を上げてくれた。
ああ、優しい人に囲まれている。守ろうとしてくれている。
イヴェットはここに居れば、何も危ない事は無いのかもしれない。
「何だよこいつら…くそっ、行くぞ!」
「待てよ、置いてくなって!」
男が連れと共に去ったのを見届けると、イヴェットは街の人達に囲まれていた。
「シスター、大丈夫かい?」
「皆さん、ありがとうございました」
男と相対した時の怯えは解けた様だ。
街の人達に笑顔を見せ、お礼を述べるイヴェットを確認出来た。安心してここを去る事が出来る。
イヴェットと目を合わせる事すら出来ないが、これは侯爵との約束だ。
『幸せに』
心の中で呟き、静かにその場を離れた。
角を曲がり、少しだけ歩調を早める。
さっきまでイヴェットがすぐ近くに居た。背中に熱を感じた。
それだけで、幸せを感じる事が出来た。
「お願いっ! 待ってっ!」
ああ、イヴェットの声まで聞こえる気がする。
「待ってください!! エルマー様!! きゃっ!」
名を呼ばれた事に振り向けば、転びそうになるイヴェットがそこに居た。
「───っ!!」