謝罪と別離
イヴェットの意識が戻ったのは、階段から落ちた4日後だった。
記憶の混濁もあり、体力回復の為とベッドから出る事は許されず、部屋から出る事が出来たのは目覚めてから2週間後だった。
イヴェットの回復に合わせ、エルマーは見舞いと謝罪に侯爵家へ赴いていた。
広めのサロンで、いつもなら隣に座る所を向かいの席を指定された。
「お久しぶりです、殿下」
「ああ…もう大丈夫なのか?」
少し前なら『エルマー様』と呼んでくれていたイヴェットからの『殿下』呼びに、ほんの少しエルマーの顔が強張る。
「はい。打ち身や傷はもうだいぶ消えたのですよ」
「そうか、それは良かった……」
「殿下も怪しげな術をかけられていたと伺いましたが…」
「ああ。もう匂いを嗅いでも催眠状態に陥る事は無い」
「ではもう大丈夫なのですね…良かった…」
「………操られていたとはいえ、酷い事をしてしまった。謝って済む問題では無いが、償いをさせて欲しい。私に出来る事なら何だってする」
頭を下げ、謝罪するエルマーに対し、イヴェットが口を開く。
「では、婚約を解消して下さいませ」
「え…?」
思いもよらぬイヴェットの言葉に、エルマーは茫然と顔を上げる。
「申し訳ありません。わたくしの最後のお願いです」
「最後って……私は君を愛している。君を失いたくない!」
困った様に微笑み、イヴェットは頭を下げる。
「わたくしも、愛しております」
「では…」
「でも、もう無理なのです」
「何故っ」
勢いのままガタッと立ち上がるエルマーに、イヴェットは青ざめ小さく震え出す。
「え…」
「……こういう事なのです。…殿下が、人が怖いのです」
後ろに控えていた侍女がイヴェットの側に立ち、落ち着かせるように背を撫でる。二~三度深呼吸をし、少し落ち着いたイヴェットが小さく 「ありがとう」 と声をかけると侍女は元居た場所へ戻ったが、エルマーに向ける視線は厳しい。
立ち尽くし、一部始終を見たエルマーは、ふらつき、呆然と椅子に腰を下ろす。
「殿下を愛しております。しかし、怖いのです。いつ叩かれるのか、暴言を浴びせられるのか、……階段から突き落とされるのか」
「………」
少し青ざめたまま、苦笑交じりに話すイヴェットの言葉に、エルマーは声が出せない。
「この状態で殿下の隣になど立てません。社交界に出る事すら。そんな状態で殿下との婚約を続ける事は出来ません。……婚約を、解消して下さいませ」
「治るまで、いつまでも私は待てるぞ…?」
一瞬悲しそうな顔をした後、エルマーを見つめる瞳には、ほんの少しの怯えが見て取れた。
イヴェットのそんな瞳を見た事の無いエルマーは、どうにか声を絞り出す。どうか自分の側で癒したいという思いを込めて。
「いいえ。治るかどうかすらわからないものに、殿下を巻き込む事は出来ません。……お願い致します」
「……婚約を解消したら、君はどうするんだ?」
ゆっくりと頭を下げるイヴェットに、引き留める言葉が見つからず、エルマーはとりあえずの質問しか出てこない。
「領地の修道院でシスターになろうと思います。今の所、婚姻は考えていませんから」
「近くに居る事も、許して貰えないのか…?」
王都で、近くに感じる事すら出来ない事は全く想定していなかった。領地で、という事は侯爵の了承がなければ後を追う事すら難しい。せめて近くで見守りたいのに、侯爵は、愛娘を心身ともに傷つけたエルマーを許さないだろう。
「いけません。今後わたくしの事は居ない者として下さい」
「本当に…ダメなのか…?」
せめて、イヴェットが側に居る事を許してくれれば…と思いを込めて見つめるも、イヴェットの瞳から一筋の涙が落ちる。
「わたくしを…解放して下さいませ」
イヴェットの泣く姿を、エルマーは子供の頃以来見た事が無い。
どんな厳しい授業にも、周りからの悪意にも笑顔で乗り越えてきたイヴェットを泣かせてしまったエルマーは、もう自分の我儘を通す事は出来なかった。
「……分かった。解消の手配はこちらでしよう。これまで…ありがとう。そして、本当にすまなかった…」
静かに立ち上がり、深々と頭を下げるエルマーに、更に涙を零したイヴェットは、涙を見られぬ様に頭を下げる。
「よろしくお願い致します。……殿下の幸せをお祈り申し上げます」
顔を上げたエルマーは、頭を下げたままのイヴェットを苦しそうな顔で見つめた後、部屋を出る為踵を返す。
「……君のいない幸せなど…」
小さな声で呟かれた言葉は、イヴェットには届かない。