ヘロイーズ
イヴェットが階段から落ちた後、それまでのエルマーの行動に不審を抱いていた侯爵家が直ぐに動き、原因がヘロイーズにあると突き止めた。
ヘロイーズの母は、酒場の片隅で占いや呪いを行う魔女的な存在だったらしい。その母から受け継いだ香水を使い、催眠術の様なものを使えるようになっていた。
最初は、引き取られた男爵夫妻に試した。
夫妻は二人とも、男爵の遊びで出来たヘロイーズを同い年のエルマーに近付く為の道具としか見ておらず、屋敷内での扱いは酷いものだった。
しかし、実母から教わった香水を使った催眠術を試した所、ヘロイーズの思う通りに動くようになり、それに味を占めたヘロイーズは学園に入った後、第二王子のエルマーに目をつけた。
身分が高く美しく、仲の良い婚約者同士に嫌悪感を抱いた所から始まり、王族の婚約者を持つ、美しい侯爵令嬢に嫉妬した。
自分がエルマーを奪えば、あの女はどんな顔をするのだろう? あのすました顔が崩れるのだろうか? ……見てみたい。平民上がりの私に負けて悔しがる姿を。捨てられて醜く縋る姿を。
そんな歪んだ感情からエルマーに近付き、催眠術をかける。今までのイヴェットへ向けていた愛情を自分に向ける様に。反対にイヴェットへは嫌悪感を抱き、増す様に。
企みは順調に進み、エルマーはイヴェットを避ける様に、嫌う様に、果ては暴力を振るう様になった。
しかし、怯えながらもエルマーに進言するイヴェットは気品を失う事は無く、凛とした美しいままの姿にヘロイーズは苛立っていた。
そんな時、たまたま階段周辺で声をかけてきたイヴェットをエルマーが突き落とすという事件が起きた。
周囲に人は居らず、現場に居たのはエルマーとヘロイーズ、イヴェットの三人のみ。一命は取り留めた様だが、このまま婚約者で居られるとは限らない。本人が『エルマーに落とされた』と証言したとして、第三者の目撃者がいない以上、王家の醜聞としてもみ消されるだろう。
イヴェットが絶望に沈む姿を見れないのは残念だが、もしかしたら自分が婚約者の椅子に座れるかもしれない、とヘロイーズはほくそ笑んでいた。
──そんな事を考え悦に浸っていた時がヘロイーズにとって一番の幸せだったろう。
愛娘を傷つけられた侯爵家が本気で情報収集すれば、ヘロイーズの事など直ぐに知れる。イヴェットが階段から落とされた2日後には、ヘロイーズは地下牢に収監されていた。実母の事も徹底的に調べ上げられ、香水を用いて男爵夫妻やエルマーに催眠術を仕掛けていた事も明らかになっていった。
「もう、3日もこんな所に入れられて何なの?! あの侯爵令嬢を階段から突き落としたのだってエルマーじゃない! 私は何もしていないわ」
ジメジメとした地下牢に入れられ、まともな食事すら出てこない。風呂にも入れず、ここに入れられた理由すら理解出来ていないヘロイーズの苛つきは最高潮に達していた。
「…王族に怪しげな術をかける事自体が罪なのだけどね」
悪態を吐くヘロイーズへ、溜息交じりの言葉がかかる。
「誰?!」
「やあ、ヘロイーズ嬢初めまして。私はイヴェットの兄だよ」
聞き覚えの無い声に、ヘロイーズは振り返る。
そこには微笑みを湛え、イヴェットの兄を名乗る美しい男が居た。
「イ…イヴェット…様の……」
「ああ、名乗るつもりは無いから。君に名を呼ばれるとかゾッとするしね」
イヴェットの名が出た事に一瞬焦るヘロイーズに、イヴェットの兄…ユリウスは地下牢に似合わぬ笑みで毒を吐く。
「な…っ! それより! 私は何もしていないわ! ここから出して!」
「何もしていない、ねぇ」
「私がやった証拠でもあるの? エルマーがそう言ったとでも?」
「いいや? 殿下は今、術を解いている最中だし、今の状態で証言させるつもりも無い」
「じゃあ尚更じゃない。私は無罪よ!」
「そんな証拠が無くったって、状況証拠で十分なんだよ」
「え……?」
「君の部屋から押収された香水と、エルマー殿下が持っていた香水の一致。香水を嗅いだ後のエルマー殿下の変化。君と出会ってから殿下のイヴェットへの対応が変わった事は色々な所への聞き込みで分かっているしね。それに君は『酒場の魔女』の血縁だというじゃないか。彼女も得意なんだよね? 匂いを使った催眠術」
ヒュッっとヘロイーズが息をのむ。
実母の事までバレている。1週間も経っていないのに。
これが貴族の、侯爵家の実力とでもいうの?!
形だけ作られた笑みを湛えたユリウスに、ヘロイーズは戦慄する。
「男爵夫妻も回復に向かっているよ? 『酒場の魔女』にも協力してもらっているからね。流石に腕が良いね」
「……は……」
それは、人質という意味だろうか?
お互いが逃げない様に、逆らわない様に…。
「そして、男爵がある程度回復した事により、君は晴れて男爵家から絶縁された」
「え……」
男爵家からの絶縁。
今の状況で貴族の身分を失うのは悪手でしか無いけれど、ヘロイーズにはどうする事もできない。
「ちなみに、王子に催眠術がかけられていた事は公にしない決定がされたから、君の身柄は我が侯爵家で預かる事になったよ」
「あず…かる…?」
「ああ。今回の件で明確な被害者はイヴェットのみ。しかしその罪を公に出来ないから、罰を与える事は出来ない。……という事は?」
「………」
「陛下が此方の好きにして良いと。今や平民となった君が侯爵令嬢を害したんだ。……簡単に楽になれると思わない方が良いね」
「ひぃ……ごめんなさい、ごめんなさい!!」
「そんな謝罪なんて必要無いよ。とりあえずは、ここよりも少し暗くて狭い部屋で色々聞くだけだから」
「ごめんなさい、許して下さいぃ」
「聞く気がないってば。じゃ、五月蠅いから眠らせて運んで」
「はっ」
「いやっ! 死にたくない!! 許して!!」
「本当に見苦しい…自分の身の程を弁えず、イヴェットを害す様な者に……救いは無いよ」
薬を嗅がされ意識を失う前に見えたユリウスは、感情が削ぎ落され昏い瞳でこちらを見ていた……。