第4節【忘却】
血が滴る。
汗と血で視界がぼやける。
右手も痛いし左足も痛い。脇腹も斬られて熱い。傷口は怖いから見ない。
それでも私は、短剣を構えた。対峙する相手もまた満身創痍だった。
「自分を斬るのは嫌な気分……」
「そうかしら。私はとっても気分が良いわ、エリーゼ」
影が歪んだ笑顔で私に応えた。
「あんたはそうでしょうけどね! 私は貴女なんかに構っている暇はないの!」
私は痛む箇所を無視して短剣を振るう。
影がそれを短剣で受けつつ、笑いながら私に問いかける。
「エリーゼ! 哀れなエリーゼ! 誰に愛される事もなくただ厄を撒き散らすエリーゼ! なぜ生きようと思う?」
影が短剣を引き、私へと向かって渾身の突きを放った。
「待っている人がいるからーーよっ!」
短剣で突きを弾く。早く戻らないと。きっとみんな心配している。
「誰も、貴女を待ってなんていない。そう思い込んでいるだけよ! そう思わされているだけよ!」
影が弾かれた短剣を器用に回し、今度は左からの袈裟斬りを放つ。
「違う!」
バックステップして、避けながら私は叫んだ。今度は私が短剣を構えて影へと突進した。
「また忘れたの? 貴女の記憶はまがい物で、気持ちは全て造られた物で……分かってない振りはやめなよ」
影の言葉が刺さる。私の手元が狂い、影は余裕そうに回避すると無造作に短剣を振るった。
「うるさい!」
右腕を斬られながらも私は短剣を影の腹へと突き立てた。肉が斬れる、気持ち悪い感触。
「貴女は、たかが数日共にしただけの男に惚れたの? その気持ちは本当? 彼は貴女を求めているのかしら? ねえ。ねえねえ。どうなの? 本当は分かっているんでしょ? 全部ウソだって。全部偽物だって」
口から血反吐を吐きながら、影は気味の悪い笑顔のまま私に問いかける。
「うるさい! うるさい! あんたに何が分かるって言うのよ!」
私は、その影が、私自身がーー怖くて……醜くて……そして憎んでいた。
「うるさい! 黙れ!」
影は何も抵抗しなかった。私は何度も何度も短剣を影に突き立てた。
「貴……女の……本心は……どこ?」
それだけを言い残し、影が崩れていく。
私は、上を見上げた。そうでないと、涙がこぼれてしまいそうだったから。
「私は……」
世界が崩れていく。
上も下も右も左も曖昧になり、どこからが世界でどこからが私なのか分からなくなっていく。
私の意識が、途絶えた。
☆☆☆
ヴァリスの手がリュコスへと振り下ろされようとした瞬間。
ヴァリスの姿が突如ヴァリス自身から溢れでた闇に包まれた。
「あら? あらあらあら? おかしいわね。生き返れないと踏んでいたのに……んー私もそろそろガタがきたのかしら……」
レジーナの声が響くと共に、闇が晴れる。
リュコスの前にはもうあの巨大な黒竜はいなかった。
ボサボサの黒髮に、眠そうな紅い瞳。
そこに立っていたのは背の高い青年ーー人間体に戻ったヴァリスだった。
「ヴァリス! “その魔女を討ちなさい!”」
そして聞こえてくるのは少女の声。
リュコスとヴァリスの下へと駆け寄ってくる騎竜に乗っているのは、燃えるような髪と瞳を持った少女。
その背後にはもうひとり少女が乗っている。
「ふむ。どういう状況だこれは?」
「記憶はないのですか?」
ヴァリスの問いにリュコスが呆れたように応えた。
「ずっと淡い夢を見ているかのようだった」
「ヴァリス!」
「お兄ちゃん!」
竜から二人の少女が飛び降りた。
しかし、その二人を見ても、ヴァリスは無反応だった。
「リュコス、この人間達は?」
その言葉に、二人の少女ーーエリ―とウェネが立ち止まった。
「……ヴァリス。詳しい說明は後です。まずは、そこの少女の言う通り、魔女を倒しましょう」
「なるほど。リュコスがそう言うなら、そうしよう」
ヴァリスが無造作に手を振るった。それだけで、闇色の斬撃がレジーナへと放たれた。
「んー記憶が飛んでいるとは……首輪の副作用かしら? 人間化はそのままなのにどうやら隷属化は解けてるみたいだし……要検討課題だわ」
レジーナがブツブツと呟きながら、ヴァリスの放った斬撃を避ける。しかしさきほどまでと違いその動きは精彩が欠けており、避けきれずにその右腕が吹き飛んだ。
その切断面からは血すら出なかった。
「流石に魔力を使いすぎてしまったわね。もうこの身体は限界そう。残念だけどお遊びはこれまでね」
レジーナが右腕からボロボロと崩れていく。
「ヴァリスちゃんにリュコスちゃん。それに可愛い可愛い女の子達も……また会いましょうね」
「さっさと死ね」
崩れながら喋るレジーナにヴァリスは冷たい言葉と共に再び斬撃を放った。
レジーナに斬撃が直撃し、霧散していく。
遠くにいる王直属騎士の陣営が騒がしくなっているのが遠目に見えた。
「ヴァリス……私の事……覚えていないの?」
エリ―が恐る恐るヴァリスへと声を掛けた。
「……すまないが分からん。顔は何となく見覚えがあるが……」
「お兄ちゃん……ウェネだよ……色々あってね。人間になったの」
「ウェネか……ふむ。なんだか大事な事をたくさん忘れてしまっているようだな。そもそもなんで俺様は人間の姿になっているんだ?」
ヴァリスの質問に、誰も答えられなかった。
「とにかく、こうなった以上わたくしの出番は終わりです……と言いたいところですが、【竜血姫】。貴女が我々にとって危険な存在だと分かりました。もうヴァリスの物は解除されているとはいえ、我々七曜龍を操る力を個人が持つのは危険です」
いつの間にか人の姿になったリュコスが、剣を杖代わりに立ち上がった。その眼の先には、今にも泣きそうなエリ―が立っている。
「この騒動が収まり次第、貴女には我々七曜龍の管理下に入ってもらいます。かの魔女がまた何か仕掛けてくるのは必然。今回は偶然が重なり、難を逃れましたが……次もそうとは限りません」
「……私はどうすれば」
エリ―の言葉に、ヴァリスにべったりくっついているウェネが口を開いた。
「さっさとケリを付けてきたら? あんたが始めた戦いなんだから」
ウェネの言葉にエリ―が頷いた。
「みんな無事か!?」
ラジェドの城壁の方から、ガルディンとダンリが数人の部下を引き連れながらこちらへと向かってきていた。
「……そうね。まずは、決着を付けないと」
エリ―がそう言って、合流したガルディン達と共に王直属騎士達の陣へと歩いていく。
一度だけ、振り返ってヴァリスへと視線を投げたがすぐにまた前を向いた。その頬には涙の跡があった。
前へと進むエリ―達に置いていかれるような形で残った三人。
「我々はどうするリュコス」
「少し疲れました……肩を貸してください。休みたいところですが最後まで見届けましょう」
「分かった。お前が負傷するとは珍しい」
「それだけ人間の力が増しているということです。油断もありましたが……」
リュコスに肩を貸して、エリー達の後を追うヴァリスとリュコス。
「お兄ちゃん。エリ―は、さっきの人間はね。死を克服してでもお兄ちゃんに会いたいと頑張ったの。それだけは覚えておいてあげて」
「そうか……教えてくれてありがとうウェネ」
それぞれが胸に想いを秘めつつ、前へと進む。
ラジェド防衛戦が、まもなく終わる。




