第3節【狭間と嵐】
ふわふわと液体に浮いているような感覚。
温かくて、柔らかくて、まるで母に抱かれているような感覚。
記憶が少しずつ蘇ってくる。
父の事。
母の事。
レジーナの事。
ーーそしてヴァリスの事。
ウェネが私に提案した案は、ろくでもない案だった。
「あんたが死ねば、お兄ちゃんは復活する。そうすればこの街は救われる。あんた一人の命で全てが上手くいく」
そう獰猛な笑みを浮かべながらウェネは大鎌を私の首にかけたのだった。
ガルディンもダンリも慌てて剣を抜こうとしたっけ。
でもそれを私は制止した。
「二人とも、私は大丈夫だから。ーーねえウェネ。確かにそうかもしれないけど、それじゃあダメなの。父を殺すまで……この国を崩し、あるべき姿に戻すまで私は死ねない」
私の力、父の暴走。それにレジーナが関与しているのは分かるが、ここまで来れば彼女を排除するだけでは話は終わらないだろう。だから、私がやらないと。
ここで死ぬわけにはいかない。
「……あんたに選択の余地はないと思うけど? 大丈夫。あんたが死んでお兄ちゃんが戻れば、魔女も王もどうにでもなる」
「私が始めた事よ。最後まで見届けるのが私の責務」
「じゃあ、こうしよっか。あんたをあたしの魔術で仮死状態にする。そうすればお兄ちゃんは戻ってくる」
「待て! 魔法で仮死状態だと? それはつまり再び息を吹き返すという事だな? そんな事は可能なのか?」
ウェネの案にガルディンが割り込んできた。仮死状態? 確かにウェネは死霊魔法のエキスパートだとヴァリスから聞いた。だけど、そんな都合の良い魔法があるのだろうか。
「生き返るかどうかは……あんた次第ね」
「私次第?」
「そう。【彼岸狭間行】の魔法は相手を仮死状態にする魔法というより、生き返る余地がある即死魔法だから。あんたの意志、精神力、そういう物次第。彼岸と此岸の狭間でもがき、足掻いて、それでも死ねないと願う者のみが息を吹き返す」
まあ本来は死霊使いの修行に使う魔法なんだけどね……とウェネが笑いながら語った。
「で、どうする?」
ーーそうして私はウェネの魔法を受け入れた。
私は、死ねない。だから必ず息を吹き返すとガルディン達を説得して。
記憶が戻ってきている。
ようやく自分のすべきことを思い出す。
私は、戻らなければならない。きっとヴァリスも心配しているだろう。
もう一度自分のいる場所を確かめる。おそらくここがウェネの言う生と死の狭間だろう。
上も下も左右も曖昧で。
でも足下にはさらさらと川が流れているような感覚。
誰かが前にいるような気がした。
それは曖昧なもやのような姿だったが、段々とその輪郭がはっきりとしてくる。
それはーー私だった。
真っ赤に燃える髪に瞳。
だけど、その瞳に光はなく、口元は醜く歪んでいた。
手に持つ短剣の剣先は私に向いていた。
いつの間にか、私の感覚は生きている時と同じようになっていた。
足下にはやはり浅い川が流れている。
空はなく、ただ薄ぼんやりとした闇が頭上を覆っている。
私に相対するソレは、きっと具現化した死だろう。
「自分に打ち勝つ……か。良いわ、さっさと倒して私は生き返る!」
腰に刺さっている短剣を私は抜いた。
自分との戦いが始まる。
☆☆☆
それは嵐だった。
黒い災厄を撒き散らす竜となったヴァリスが吠え、闇が放出される。
飛翔魔法で浮いているレジーナがそれを無効化するバリアを自身の周りに展開する。
白い毛に覆われた聖狼龍リュコスが被弾を気にせず全身の毛を逆撫でながら神聖魔法を放った。
光と闇が交差し、魔力が吹き荒れる。
「乱戦とはいえ、七曜龍二匹相手はキツイわね〜」
台詞に反して余裕そうなレジーナの声にヴァリスが爪による斬撃で応えた。
その魔力の籠もった一撃を、レジーナがひょいと回避する。
「想定内とは言え、あの子を殺してまで復活させるとはね。レジーナびっくり!」
嘯くレジーナに向けて怒れるヴァリスが顎を開いた。
【闇に至る極光】と呼ばれる闇の息吹が放出されそうになった瞬間に、リュコスの神聖魔法が発動。
ヴァリスの口から闇の光線が放たれるが、すぐに神聖魔法で相殺された。
相殺しきれなかった一部の闇色の束が、一帯にドーム状に展開しているリュコスの領域魔法に当たって弾ける。
「ヴァリス! いい加減に目を覚ましなさい!」
リュコスが叫びなが突進、ヴァリスの横腹へ身体をぶつけながらもレジーナへと牽制の光弾魔法を放つ。
「もうあのヴァリスちゃんが戻る事はないわ。そう私が再設定したんだから! 首輪が死に、ダミープログラムが発動してしまったヴァリスちゃんは、もはやこの星にとって災厄以外の何者でもないわ!」
リュコスの突進に耐えられず、地面へと倒れるヴァリスを見下しながらレジーナが光弾を避け、吠えた。
その顔には、嗜虐的な笑みがまとわりついていた。
「こんな女にいいようにやられるなんて……貴方らしいといえばらしいですが……いい加減起きなさい!」
起き上がろうと暴れるヴァリスの身体を足で抑えながらリュコスが全身から魔力を放出。
光の話が何重にもリュコスを中心に展開していく。
「悪いけど、させないわ」
同時に何十、何百の魔法陣がレジーナの背後に現れた。
「【無音抹消】」
魔法陣から鈴のような音が鳴った瞬間に世界から音が消えた。
それと共に、リュコスの光輪も、ドーム状の領域も全て無音で割れていった。
それはレジーナのみが使えるとされる、魔法。
あらゆる魔力行使を問答無用で掻き消す、魔女の鈴。
無音の世界で、リュコスが何か叫ぶ。ヴァリスももがきながらその長い尾を振り回し自らを抑えるリュコスへと攻撃しようとした。
自らの飛翔魔法も消えたため、重力と共に落ちるレジーナ。
リュコスが尾による攻撃を回避し、ヴァリスを残してレジーナへと疾走。
その顎を開き、レジーナへと喰らいつこうとする。
「愚かな竜には鉄槌を。放ちなさい」
リュコスはレジーナの背後数百メルトル先に何百という人間の魔力を感知。
それが王直属騎士の陣だと気付いた瞬間。
その陣より魔力によって精製された弾が射出。高速で迫るそれは、ただ重い金属の塊。しかしそれが人の手では到底出せない速度まで魔法によって加速されていた。
未だレジーナの魔力干渉内にいるため、魔法を展開できないリュコスの胸を高速弾が貫通。
鮮血が吹き上がり、リュコスが倒れた。
「質量に速度を足すだけでこんなに簡単に七曜龍が倒せる……なーんて思っていないわ」
世界に音が戻った。
レジーナの声と共に、倒れたリュコスの身体を光が覆う。
「巨体かつ素早い身のこなし。それだけで七曜龍って厄介なのよねえ」
リュコスの身体が縮んでいく。その身体は、人の大きさまで縮んでおり、口から血を吐きながらも立ち上がった。
光がリュコスの傷口を塞ぐ。しかし、魔力を精製する器官を的確に貫かれたようで上手く魔法が使えない。
「でも、こうなってしまえばただの犬ね。さあ、その姿のままでヴァリスちゃんを抑えきれるかしら?」
リュコスの背後でヴァリスが立ち上がった。その目に未だ意志の光はない。ヴァリスが吠える。それだけで大気がビリビリと震えた。
「ヴァリスちゃんは私が囮になって適当に暴れてもらうわ。こんなチンケな大陸も国も私にとってはどうでもいい。でも、一番厄介そうな聖狼龍である貴女をここで殺せたのは僥倖だわ」
ヴァリスがその巨大な前脚を振り上げた。最早それをリュコスが避ける術はなかった。
「さようなら聖狼龍リュイカリス・シフレルプス。まんまと私の手に嵌ってくれてありがとう」
その言葉と共にレジーナは顔から笑みを消した。
そしてヴァリスの手がーー振り下ろされた。




