第1節【闇帝龍ヴァラオスクロ】
ーーそして災厄は訪れた。
それは、竜だった。
黒い、黒い竜だった。
城より巨大で、その体は陽光を浴びて鈍く光る黒曜石のようだった。
黒竜の四本の脚の巨大な爪が大地を削る。
後ろ脚で立ち上がったその姿は、あまりにも非現実過ぎて、まるで悪夢のようだ。
立った黒竜の折りたたまれた翼が開かれた。
その内側は、闇。
光すら吸い込むような漆黒。
高く高く空へと伸びた首。
憤怒の炎を宿した紅い瞳が大軍を睨む。
ただそれだけ、数千という歩兵が失神した。
上位の竜の視線には魔力が宿るというが、ただ一瞥で何千もの兵を気絶させたその力はあまりにも規格外。
大樹の幹のように太い牙が並ぶ、顎が開かれた。
「アンチドラゴンフィールド展開!!」
怒号が響く。フォンセ王直属騎士団の魔術師達が防護結界を紡ぐ。
しかしソレに反応出来たのは彼らと彼らの防護結界に守られた者だけだった。
黒竜から発せられたそれは咆哮。
魔法でも、息吹でも何でもない、ただの咆哮。
だが、たったそれだけ、四十万の軍勢が瓦解した。
まず、魔力耐性がない者はその魔力圧に耐えきれず絶命した。死に至らずとも、高濃度の魔力を浴びた事による心肺機能への重大な負荷に耐えられず、失神もしくは行動不能状態になり倒れる者もいた。
同種族であり、魔力耐性があり、人間に隷属化しているはずの軍竜達にも異変が起きた。
「被害状況知らせ!」
「死傷者多数! 竜の制御が効きません!」
咆哮の魔力によって隷属化が解けたのか、全ての軍竜が暴走。竜達は敵味方関係なく襲い始めた。
一部の飛竜や地竜が互いを攻撃しながらラジェドの街へと向かっている。
黒竜はそれは無視し、息を吸い込む。
大地すら吸い上げられてしまうような、一瞬、空気が吸い上げられて竜巻が起きたかのように見える錯覚。
そして異常に膨らんだ腹部。
奇跡的に無事だった兵士は、その姿を見て、絶望には底がない事を知った。
「ああ……神よ」
邪教と言われようと、この時ばかりは、彼も神という存在にすがらざるをえなかった。
黒竜の口元から闇が溢れた。
次の瞬間、その口から闇を束ねたような光の線が数百本と放射された。
放射状に前方方向へでたらめに放たれた闇の光は無音で触れた物を消失させていく。
それだけで既に瓦解した大軍に甚大に被害を与えた。人も竜も皆関係なく闇に触れると消えた。
しかし、それはまだ黒竜の攻撃の第一段階に過ぎなかった。
大気に微量に含まれる魔力すら反応してしまうその高密度の魔力の塊が、甲高い魔力干渉音を響かせる。拡散された闇が黒竜の口の延長線上に収束し、一本の極太の光線となった。
その極光の闇が収束する段階で、何万という兵と竜が消える。
そして黒竜が完成させたその息吹を薙ぎ払った。
【闇へと至る極光】、それは闇帝龍のみが放つ事が出来るとされる息吹。
大軍の立っていたはずの大地が綺麗に息吹をなぞるように消えていく。
黒竜の息吹が消え、残ったのは、扇状に削られた大地。
「流石はヴァリスちゃんね。本気出したら凄いわ。レジーナ感激」
唯一無事だったのは、王の直属騎士達が守る本陣のみだった。
その中心で、気楽そうにレジーナが喋っていた。
「レジーナ様! 辺境軍、ほぼ全滅です! 竜も暴走しており危険です!」
「見ればわかるわ」
「貴女と王だけでも逃げてください!」
「逃げる? 馬鹿ねえ。ここからが面白いのに。逃げるだなんて!」
王直属騎士が何か言おうとする前に、その首が飛んだ。
その顔には何をされたか分からず困惑する表情が浮かんでいた。
血を吹き出しながら倒れるその身体を見つめるレジーナが手についた血を舐めた。
「ああ、ああ愚かな闇帝龍……。人の娘に恋をした、なんていう勘違いを本気にするだなんて……本当に馬鹿ね」
味方の騎士達ですらゾッとするような笑みをレジーナは浮かべた。
「さーて久々に本気出してヴァリスちゃんと遊びましょうか」
★★★
それは、ガルディンにとってあまりにも信じ難い光景だった。
これまで数え切れないほどの戦場に立った。
しかし、これほどの大軍をこんなに簡単に壊滅させる存在など、見たことがない。
「これが、七曜龍の中でも最強と呼ばれる闇帝龍ヴァラオスクロの力か……」
「奴の伝説はリュコス様から聞いて、知ってはいたが想像以上だ」
ダンリがガルディンの独り言に反応した。
黒竜ーーヴァリスが背が向けているラジェドの街の壁の上。ガルディンとダンリは並び立ち、周りの兵士は絶句していた。
「あれが……ヴァリスなのか? 儂には未だに信じられん」
「なんだろうよ。だが理性はなさそうだ。もしあれがこちらへと牙を剥くようであれば、戦うしかない」
「戦いになるのか? 儂や貴様だけではどうにもならんぞ」
「……リュコス様次第だ」
二人が会話しているうちに、暴走している飛竜や地竜がラジェドの街へと向かって来ていた。
竜達は互いを攻撃しあっているが、一部の竜はこちらを狙うように動いている。
そのまま素通りさせれば街が危険だ。
そうガルディンは判断した。
「とりあえず、まずはあの竜共を片付けなければ。そっちはどうする? 竜を殺めるのは教えに反するのではないか?」
「……それに関してはリュコス様からお赦しはいただいている。それでも竜を殺すのは気が進まないが……仕方ないな」
「こちらで出来るだけ迎撃はするが期待はするな」
「分かってるさ。一部の部隊をこちらに回す。しかしガルディン、本当にこれで良かったのか?」
「……分からん」
「そうか。じゃあ俺は戻るぜ。達者でな」
「ああ。貴様も死ぬなよ」
そう言うと、ガルディンは兵士達に命令を飛ばしはじめた。
ダンリは壁から飛び降りると、自分の部下達が待機している街の方へと駆けていく。
「ボーガンの矢を対竜用の物に切り替えろ! すぐこちらに向かってくるぞ!」
ガルディンの指令により、兵士達が慌ただしく動き始めた。
ガルディンも剣を構える
既に数匹の飛竜が壁へと迫ってきている。
「引き付けろ! ……まだだ……まだ……っ! ーー撃てぇっ!」
ガルディンが剣を振ると同時に、数百本の矢が竜へと飛来する。
翼の皮膜が破れた一匹の飛竜が火球を吐きながら、墜落していった。
狙いが逸れた火球がガルディン達の立つ壁の東側の北門に激突、爆裂音を響かせた。
「怯むな!」
ガルディンが怒声を上げるも、北門が崩壊し、壁の一部の崩れていく。
しかしそれを気にする暇もなく、数匹の飛竜が壁の上に着地。踏まれて数人の兵士達が圧死した。
「近接戦用意! 抜刀!」
ガルディンが声を張り上げ、剣を掲げた。
崩れた壁を乗り越え、四足歩行の地竜達と飛竜が数匹、街へと侵入していく。迎え撃つのは、ダンリ率いる聖狼教会の信者とガルディンの兵士達の混合部隊。
「リュコス様のお赦しが出ている! いいかお前ら! リュコス様はこう仰った! “竜を殺すなかれと言うなかれ”。 行くぞ!」
ダンリが吠え、剣を抜いた。
ーーこうしてラジェド防衛戦が始まったのだった。




