ナガラ
長いです。長良なだけに←
長すぎる生に、飽き厭きながら生きるのは、それが自分たちの本分だと体が知っているからだ。そうだろう、ナガラ。
彼女はそう言っていた。確かに彼は彼女の言った通り、自分の長い生に嫌悪感さえ覚えていながら、結局死を選ぶことだけはしないのだった。彼は長良と呼ばれていた。静文の国でのみ、ではあるが。空を見上げるともう夕刻も近い。いい加減宿を探さねばなるまい、と、彼はすっくと立ち上がった。大きな道を通ってきたのはいいものの辺境の村はとうに通り過ぎてしまった。急いで次の村か町につかなければ夕食にもありつけるかどうか。
内戦を繰り返すお国柄だがこの辺りの戦はもうすっかり収まってしまった。暫くは良将がこの地を治めるのだろう。とるすると、また別の場所であっている内戦を捜すか、道端で旅人に喧嘩を売るか悩み所である。
否、一先ずは夕食か。長良は着流しの袖を払うと急ぎ足に歩き出した。空は茜色、もう城下町の門は閉ざされているだろう。ばさばさの黒髪をさらに片手でかき回し、いつしか小走りになりながら。
数刻が過ぎ、日も落ちかけた頃、漸く見えた遠くの明かりに彼の足が止まった。ほ、っと小さくため息をつく。十年ばかり前まではこの程度の距離で疲れはしなかったのにと寄る年波に。三十路も半ばになると酷いものだ、と、内心で苦笑しながら。実際のところ、彼にはまだ充分常人を上回るだけの体力はあるのだが。
ちらちらと見える明かりにもう一息、と更に走る。
小走りだったのが逆に悪かったのか、走るだけならそこそこ体は軽く感じる。村の中に足を踏み入れると、まだ幾人かは行灯などぶら下げて歩いていた。助かった、と道行く少年に声をかけた。
「もし、此処には宿は無いか」
相手はというと、男を見上げて暫く首を傾げ、それから肯いた。
「家でやってますけど。泊まって行きます?」
「ああ、頼むぜ」
普通の宿なら八十丸か。一泊したらさっさと発とう、などと、少年に案内されながら考えをめぐらす長良に、少年が振り返る。
「ここです。あ、おいら親に言っとくんで、部屋に入っといてください。遅いですから」
それは、良く見慣れた建物の前。ああなるほどこの村か、と、思わず苦笑を洩らしながら。
「おう、何処だ?」
「ええと、そこの廊下真っ直ぐ行って、突き当たり左の部屋です。襖に松の枝が描いてある」
親の代わりにこういう仕事をよくやるのか、存外にはきはきと言ってから少年は軽く会釈、それからすぐ奥に引っ込んでしまった。あんな子供が居るということは、もう代替わりしてしまったのだろうか。長良はさて、と首を傾げ、それから対して多くも無い荷物を持ち直すと足袋を脱いで板間に上がり、酒盛りをしている青年たちの横をすり抜けて言われた通り廊下の奥の突き当たりまで進んだ。
廊下を挟んで右にも左にも襖があるのに気がついて迷ったが、左が松で右が梅、なるほどよく出来ていると感心しつつ襖を開ける。
小奇麗な室内は質素な書院造りになっていて、小さな台と座椅子のほかには特に余分なものが無い。相変わらず、長良の好きな形であった。板の間に大き目の置き行灯があるが、その薄橙の灯かりが、かえって空腹も忘れさせて眠気を誘う。
「飯は……明日でも良いか」
彼女はもう居ないのだろうか、と、らしからぬことを考え、長良はすぐに頭を振ってそれを振り払う。昔の女を未だに引き摺っているとは、情けない限りではないか。
適当に押入れらしき襖を空けて夜具を引っ張り出すと、彼はすぐにその上にひっくり返って寝てしまったのだった。
おかしなことだ。
まず、そう考えた。長良はため息を一つすると、筋張った手の甲で流れていた涙を拭った。
そんなに悲しい夢を見ただろうか、はて、と考え、やめる。久々に彼女のことなど気にしたからに違いない、と、自分の中に結論を見出したのだった。
どうやら障子の向こうからは燦々と光が降っているようだし、どうやら寝過ごしたな、とそのことばかり気になって崩れた着物を直して障子を開けた。格子窓に嵌った、ごく小さなものである。
道には人が多く見えて、それがますます彼の機嫌を悪くした。寝過ごした時間が勿体無いと、こう考えてしまうわけだ。傭兵稼業でそこそこ貯めたので良いかと思っていたのに、妙なところで野武士なのだなと、一転して苦笑。襖の向こうから昨夜の少年の声がしたので振り返って返事をすると、少しだけ間を空けて襖が開いた。
「大丈夫ですか、昨夜は夕餉を摂られなかったようで」
申し訳無さそうにする彼に、いやいやと慌てて頭を振る。
「いや、俺が食う気がしなかっただけだ、気に病むな」
「そうですか? なら今から朝餉を?」
小首を傾げた少年に、そうだな、と肯いて見せると、彼はすぐに走っていった。別に客は逃げやしないだろうに、よほど宿の仕事が楽しいのか。
「待て、急ぐなよ」
笑いながらゆっくりと歩く。廊下の板はこころなしか昨夜よりもひんやりとしている。その感覚、朝の冷気を足の裏で感じながら。一方で、喧嘩の強い奴など居ないだろうなあ、と落胆のため息。いればうなじの辺りがざわざわするのだ。
そんな感覚、この国に来てからは戦場以外で滅多に感じたことが無い。要するに、力のある人間は全て領地争いに引っ張り出される時代なのだろう。とすれば、そのような場所に着きさえすれば大規模な喧嘩ができる。もっとも、往々にして命を賭けたものになってしまうのだが。
襖に挟まれた細い通路を抜けて足袋を履くと、食堂になっている場所ではすでに少年が父親らしき男と朝食の準備をしていた。このような宿なので、雑穀が多めの白飯と吸い物、あとは小鉢がニ、三置いてあるだけの粗末なものである。
「お前さんとこの倅は働きモンだな」
ありがたくそれに箸をつけながら長良が言うと、男はへえ、と照れくさそうに笑って頭を掻いた。笑顔には愛嬌があって、体格が良いだけの木偶の坊という印象だった。
「あれはうちの家内に憧れてましてな。家内みたいに来た人皆笑顔にしてやりたいなんて大それたこと言っております」
「いい子じゃあないか」
「ええ。自慢の子ですから」
「その、御影は元気にしてるかい?」
「……はあ?」
一瞬目を丸くした男に、いや、なんでもないんだ、と目をそらし、一気に白飯を平らげてしまう。あまり、突拍子もない質問はするまい、と、密かに思う。
「お客さん、侍さんですか?」
「さあ? 何故そう思うんだい?」
なんとなく、と苦笑した男にこちらからも笑いかけて、うんと背伸びがてら立ち上がった。そうだ外出しようと思い立つも、いざどこに行こうかと考えると、大して良い場所が無いのに気が付く。
「お前さん、この村に遊郭みたいなのは無いかね」
「うわ、いけませんよ陽も高いうちから。それに見た通りの村です。町に行かなきゃそんなんありません」
「そうか。じゃあそのへんぶらぶらしてくるかな」
のれんをくぐって歩き出すと、暫く振りか、と、辺りを見回す。良く見れば、二十年前とほとんど代わり映えせぬ景色。すこし西へ外れたところに確か湖があったはずなので、そこに行ってみようと思い立つ。記憶に間違いが無ければ、遠くに連なる山並みがほんの少し霞がかって美しいのだ。
もちろん、村の人間は大体知っているのだろうが。
ともあれ。歩きながら、空を見上げる。
ともあれ、さっさとこの村からは出て行こうと。一日一回は誰かに喧嘩を売らなければ気がすまないというのに、ここときたら全くその相手が見当たらないのだ。そのうえ彼女が健在だった日には、あまつさえ顔など合わせてしまったら。
田園の風景を横目に、口笛を吹きながら散策する。静文は北寄りの国なのでいつもそこそこ温暖だが、やはりこの時期になると多少は肌寒い。朝っぱらからこんな薄着で歩いているからかもしれないが。
と。
不意に、足を止める。
「誰だ……」
うなじがざわざわした。
長良は自分の口が吊りあがって弧を描くのをしっかりと自覚しながら、駆け出した。強い奴だ! 強い奴だ強い奴だ!
胸が躍った。土を蹴る感覚に。林にがむしゃらに飛び込み、湖畔を目指し、ながら、腕を硬化させる。乾いた音をさせて、意識を集中させた部分から石のような色になっていく。
強い奴、気配は、湖畔に立つ人物から。
それだけを確認すると、自然に鋭く踏み込み、拳を突き出していた。
硬い手応え、振り返ったのはまだ十代も半ば頃の少女か。彼と同じ黒髪、緑色の目は驚きに見開かれ。それでも、手に持った短刀で、しっかりと硬化した長良の腕を受け止めていた。存外に澄んだ音、と同時に飛んで離れ。
「何です」
静かな少女の声には多少怒りの成分もあったようだが、高揚した彼には知ったことではない。
「お前、強いだろう!」
さぞや嬉しそうな顔をしたことだろう、自分は。少女は一瞬戸惑いに似た表情を長良に向けて、それから短刀を構えなおした。右手には更に、脇差の柄を握り締めている。そこから伸びる鞘は、彼女の華奢な帯には不釣合いに見えた。
抜刀し、一閃、脇差の峰が肩を掠めるのを見て小さく息を接ぎ、腕で薙ぎ払う。息もつかせず少女は刀身を翻し突き出す、猛攻。男の手が脇差の刃を掴むと、彼女ははっと眉を眇めて左の担当で斬りつけたが、硬化した腕はびくともしない。脇差を離さなかったのが災いし、そのまま投げ飛ばされて地面に転がる。
「!」
落ちた先には鋭い岩、背中を刺された少女は小さく悲鳴を上げて倒れたまま体を屈めた。
流石の長良も慌て、闘争心も一段落ついて一変、心配になって駆け寄ると少女は乱れた服の胸元を直しながら彼の顎を下から蹴り上げた。
「痛ってぇ!」
「痛てえはこっちですよ。もう。いきなり何なんです」
彼女がため息をついて抗議の声を上げると、背中の傷に手を伸ばそうとする。着物の背中に血が滲んでいたが、見たところあまり深いようではなかったので長良は心底安堵した。
「いや、悪い。強い奴がいると喧嘩売る癖があって」
「迷惑です」
「ああー……怪我、大丈夫か」
大丈夫です、と憮然とした彼女から、慌てて彼は視線を逸らした。
少女の格好といったら、さっきのやり取りの所為で酷い有り様だったのだ。肩ほどまでしかない髪は纏められていたのが解け、着物は乱れてさっき長良を蹴った所為で白い足が根元から伸びていた。
「気を遣わないで結構ですよ。見られても減るものじゃないし」
「そう言う問題か! 良いか、女子っていうのはそんなみだりに肌を晒すもんじゃあ」
言いかけた彼の耳に、くすくす押し殺した笑い声が聞こえた。
「何だよ」
「いいえ。あなた清魔でしょう。不思議ですね、喧嘩が好きな清魔なんて」
「お前さんもか。緑の目に黒髪」
彼が振り返ると、少女は丁度髪を結いなおしたところで、小首を傾げてええ、と頷いた。瑞々しい緑の目が、細くなった。
「ひだり、と申します」
鈴の鳴るような声、とは行かないが、どこか流れる風のような心地良さを持った声で、彼女はそう名乗った。
珍しいこともあるものだ、と、長良は思った。
凛と竹林を通る風のようなこの少女が、自分と同じ種族とは。清の眷属、魔の亜人。この世に十人も居ないのではないかという幻の種族、と、そういえばどこかの賢者が言っていたような気がする。ということは、それが二人も揃うのはかなり奇跡的な確立なのだろうか。
「お前さん、ここで何をしてたんだ」
「何、って。綺麗じゃないですか。湖。ほら、特に、あの山のあたりとか」
「へえ、目の付け所がいいな」
「あなたもあれを見に?」
「まあな。でも、景色を見てるよりは喧嘩してるほうが楽しいかな」
彼女の隣にどっかと腰を下ろし、空を仰ぐ。
「どうして?」
「そりゃあお前、」
言いかけた言葉を、彼は、はたと飲み込んだ。ひだりはそれを暫く見つめると、別に、言わなくても怒ったりしませんよと笑い、自分もまた汚れた着物の裾を直しながら横に座る。
暫くそうやって風任せ、髪を弄られながら時間の経過をのんびりと肌に感じていた。
風が雲を流す、流線型。
木々を揺する、ころころと笑うような音がする。長良はそれを見ながら、やはり空虚なものを自分の中に見出すのだ。
何のために自分は愛した人間を置いて永らえるのかと。笑い乍泣き乍、子を成さねば結局は老い朽ち果てることが出来るのではないかと、期待している。生まれる子が自分だとわかっているが故、きっと本当に愛した人間と共には生きられないのだ。
徹底した快楽主義、戦闘、自己本位。戦とはかくも素晴らしいのかと、十年と少し前に「彼女」と別れて、悟ったのだった。
「もうすぐね、この村に争いが運ばれますよ」
静かな、声であった。
「争い?」
「ええ。最近近隣の村を騒がせる不穏がね?」
争うのが好きならば、せめて人の為になることをしませんか。
少女はそう言って、笑みの隙間に垣間、ぎらりと燃える双眸をちらつかせた。
夕日に紅く縁取られた山の連なりを背に立つ姿、笑みを絶やさぬひだりの姿は程よく景色に映えた。しかし長良には、どうしてもそれがどこか作り物のようにも思えたのだった。
「お前は何処へ行く」
「僕――わたしは、そうですね。今宵は此処で過ごそうと思っておりました」
「酔狂だな」
「ええ。何せ今、手持ちが一銭も無いもので」
ひだりは、そう言ってことりと小首を傾げた。
夕闇をまとって歩く。田で稲穂の揺れる音がさらさらと耳に心地良く、手を広げれば広い袖口を通って風が吹きぬけた。まるで、そのまま飛ばされていくような感覚に笑み、目を閉じて夜に溶ける。歩幅は女のそれとしては多少広く、人に見られればはしたない、と眉を顰められることだろう。この国の、それもお国柄、という奴だった。
清魔に会った。
彼女の歩調はそれだけでどこか浮き足立って、軽かった。何せ、今まで一度も自分の同属とやらを見たことがないのである。それはまだ、清魔として生きた年数が長くないからかもしれない。それでも軽く十人分の人生を、国を転々としながら生きていた。少し寂しくもなった頃であった。
ひだりは、右足でつま先立ち、くるりとその場で回ってみる。厚手の着物、紅い袖がひらり舞い、少女の周りを彩る。足袋は脱いで、左右の両手にぶら下げられていた。
月光は薄絹、纏って天女でも演じるか。
くすくす笑い声が細道に過ぎる。
音もなく襖が開いたのは、柄にも男が柄にもなく格子窓から月を眺めていたころである。深夜、小さな村はもう寝静まって久しい。
「何か用か」
入り口に座ったまま答えない影に長良が振り返ると、暗い中に見知った面影を見た。恐らくはこの宿を継いだのだろう。
「御影」
「懐かしい呼び方をなさいますのね。まだ脈はあると思って良いのかしら?」
「そんな喋り方をするな。似合わない。それにお前、夫と子供がいるだろう」
押し殺した笑声はニ十年経っても色あせずそこにある。彼女はそういう笑い方をする女だった。
「ええ。会ってみたかったの。あの人、あんたが私の名前をだしたからすごい慌ててたのよ」
そうか、と相槌を打って再び目を逸らす。長良の目は月ではなく、畳の上に投げ出した自分の脚を見ていた。どこを見るでもなく視線を彷徨わせるにはこの部屋は狭すぎたので。
御影も中に入ってくる気は無いようで、廊下に座ったまま、無言。澄んだ空気が格子窓から入って、向かいの廊下へ抜ける。
「見つかった? あんたが長く、永ーく生きる理由っていうのは」
「全く。戦さ場を転々としてるよ」
「生とは正反対じゃあないか」
笑う、押し殺したような声。
三十路半ばで、美しさも当時のようではない彼女がどうしてこうも美しく見えるのか、おそらく灯かりがないからだと、自己完結する。長良はただそこにあるだけの美しさより、そう、むしろ苛烈に咲き誇ってすぐに散る美しさのほうが好きだった。そして、若い御影はまさにそれだった。
彼は小さく思い出し笑い、しかし何を思い出したのかと言われると具体的な景色は出てこなかった。そんなものだ、と、思う。女は、意識していなければそこに居ることすら感じさせない、楚々とした雰囲気に成り代わっていた。時がそうして彼女を変えたのか、あの男が変えたのか、はたまた彼女がそう振舞っているだけなのか。いずれにせよ泣いて戦さ場へ行きたがった彼女とは、まるで別人のようなのだった。
どうすればよかった、御影。
「月が、綺麗だねえ、今夜は。あんたが私を置いてった日と同じさ」
どうすればよかった、御影。
問い掛ける前に、縋るような視線を投げかけた男の視界で白い着物の裾が翻った。彼女は立って、襖に手をかけている。黒と見まごう深い青、髪は若い頃ほど軽やかではなかったが、後ろで一つに纏める纏め方にはどこか若いときの面影を感じた。
良い夢を、と小首を傾げ、女将は襖を閉じてしまう。それからきしきしと床板の軋む音、遠ざかって、いく。止めはしなかった。そもそももう互いに色情を抱くような仲でもなく、長良に至っては彼女のことをその名の通り御影石に時折映る過去の残像くらいにしか思っては居なかったのだから。
ついに、御影は彼の泊まる部屋に一歩も足を踏み入れなかった。
長良は再び格子窓の外へ視線を移す。月は相変わらず燦々と紺碧に浮かんでいた。差し込む光の中で細かい塵さえ花弁のように舞う。その中に人間の短い生と自分の短く区切られた長い生とを見比べて、ため息をついた。彼は。
彼女に自分を産ませることなど決して望まなかったのだ。
心から愛したからこそ。心から、想い合っていると疑わなかったからこそ。
それでも、彼女は彼を臆病者、自分勝手と誹るのだろうか。恋慕の情はなくしても、思い出す都度、同じように闘争心が胸の中に渦巻いた。彼を長良と名づけたのは彼を産み落とした女だが、きっと彼はその名に沿う歩みなどしては居ないに違いない。指先で畳に爪を立てて、飛び出して行きたい衝動を抑えていた。油断をすると、彼の胸倉を掴んで捻り上げ、肩に額を擦りつけて怒鳴る彼女が見える。
――私も行く。私も、私は、宿屋の女将なんかやりたくないんだ。やりたくないんだ――……
そう言って、すがり付いて、泣きじゃくった彼女の姿を、恐らくは長良以外の誰も知らない。
御影よ。
声にならない呟きが漏れたが、すぐにため息が流してしまった。
結局そうして朝までぼけらと過ごしていた彼は、外が明るくなってきたのに気が付くと、点けっ放しにしていた行灯の火を消してからその場に立ち、背伸びをする。
「さて、今日は――」
何処へ行こうかと、言いかけ、ふっと頭の端に、ひだりの顔がちらついた。あの文無しの酔狂は、もしかして本当にあの湖畔で一夜を過ごしたのだろうか。どうせ今日も何をすると決めているわけではないので、またそこへ行ってみるのも良いか、と思ったのだった。
そうと決めればすぐに歩き出す足、自分もよほどの酔狂か、と苦笑する。
否、あの少女が居なくても、あの景色には充分見る価値があると、彼は思う。昨日気が付いたことだが、あの場所、見上げれば周囲の林、その木々の葉に縁取られた空がやたらと澄んで綺麗なのだ。その上彼女がいれば喧嘩の相手もいる。自然と足は早くなり、明るくなっていく東の空を見上げて歩いた。田にはちらほらと人が立って作業をしていた。
林に入ると、彼はすぐにきょろきょろと辺りを見回した。居る。うなじがざわざわする、あの感覚を感じた。
「いらっしゃいませ」
声は、頭上からであった。
見れば、高い木の枝に座って、件の少女が長良を見下ろしていた。
「いつからお前の家になったんだ、ここは」
「僕がいるところは、どこでも僕の家ですよ」
からからと笑う。ああ、こんな笑い方も嫌いではない、と、男は思う。
「僕?」
「え?」
「僕と言ったか」
「あ……あ、ええと、今までは男やってたもので」
ひだりはそう言って、恥じ入ったように肩を竦める。一人称など大して気にする長良でもないので、そうか、とだけ言って、その木の幹に背中を預けた。反動で枝が揺れたのに、少女の細いからだが合わせて揺らいだ。
「喧嘩を買え」
「嫌です」
「俺様の喧嘩は買えねえってのかい」
「誰のだって嫌です」
頬を膨らませた彼女を見上げると、ひだりはさらに憮然として言い放つ。
「痛いのは嫌いです」
長良はふっと、大きく目を見開き、それから耐え切れず吹きだして笑った。こんなに笑ったのも久しいかもしれない。
彼は、この娘が大層気に入ってしまったのだった。
湖畔に行けば、いつも彼女はそこでそうして佇んでいたり、木の上で昼寝をしていたりした。おかしなことに長良も書院造りよりは自然の中が落ち着くようで、なんだかんだと言いながら、結局毎日のようにそこで話をして、夕方には宿に戻る、ということを繰り返していた。何が楽しいって、彼とはまた違った時代に、違う国に行ったりもした彼女の話は、なかなかに聞いていて興味深いのである。それはひだり自身にも言えたことであるらしく、彼女もまた、長良に話をせがんだ。
そもそも、お互いがお互いを珍重していたというのもあるのかもしれない。
何にしろ、彼らは日ごと話をして時間を潰した。短く区切られた永い生の中に、こんな機会が何度あるか判らないので、できるだけ逃したくない、とも思っていた。
水に小石を投げ込む、波紋が広がるのをぼんやりと眺めていた。
「お前は、飽きないか」
「何に、ですか?」
長良がそんな話を彼女に切り出したのは、それを二、三日ばかり続けた後のことである。
突拍子も無い質問にひだりは首を傾げたが、何度も生まれなおして生き永らえることに疲れきった彼の愚痴の一部だと判ると、いつも笑っている顔にほんの少しの困惑を滲ませて見上げた。
「貴方は飽きたんですか?」
「というか、何のために生きてるのか時々わからなくならないか。男として生まれなおせば、女に自分を孕ませて、産ませて生きていくだろ。女として生まれなおすなら、自分で自分の器を産み落とすんだ」
「ええ」
ひだりは、小首を傾げて先を促す。
「俺は、本気で惚れた人間を、そんな風に使いたくねえよ。そいつだけが、生まれなおした俺を置いて老いて死んでいくのは見てらんねえ。けど、惚れてない人間と、そんな事をするのも嫌だ」
「だから、そんな年齢まで、お独りで?」
長良は、漠迦らしいだろう、と自嘲気味に笑う。元からぼさぼさの髪を更に乱暴にかき回す、彼はもう四十にもなろうかというのに、そんな二律背反のためだけに生まれなおすことさえしないのだから。きっかけはそう、結局、あの御影なのだ。生まれて初めて心の底から惚れこんだ相手であった。無論今はそんな感情を彼女に抱いてはいないまでも、こうして矛盾した迷いを引き摺ってしまう程度には。
ひだりは舞い落ちてきた紅葉に手を伸ばし、掌で手触りを確かめながら、その言葉を噛み締めていた。彼がどれほどの時を清魔として生きたのか、当然彼女は知らない。ともすれば、彼女より長いかも、短いかも知れない。立ち上がって着物についた土を払い、彼を振り返った。
「僕は、そう思いませんでしたから」
顔を上げた長良に、笑いかける。
「考えてもみてくださいな。この僕の体、僕だけで作ったんじゃ、ない。愛しい彼と僕との子供、それが今の僕。大好きな彼女と僕との子供、それが今の僕。そして彼らを愛した記憶は、決して消えたりはしないのだから。僕は愛したし、愛された。」
ひだりの手から、紅葉がひらりと落ちる。地面へ少しの距離を、恐る恐る風に乗り。
「ねえ? だから、泣き乍笑い乍、長い永い生に飽き厭き乍生き永らえていくのでしょう?」
暫し、男は黙って、彼女を見上げていた。首を傾げた彼女に、参ったな、と、割と真顔で言ってしまう。
「そんな見方もあるのか」
「戦いに逃げる気もいくらか収まりました?」
「まさか。喧嘩は別個さ」
あれは純粋に楽しくてやるんだ、と胸を張った彼に、そんな主張するもんじゃありません、とひだりの鉄拳が落ちた。これが以外に痛かったものだから自分も反射的に拳を握って反撃しようとして、いっしゅん彼女の表情が歪になるのを見た。思わず手を止めて瞬き、する間にあの、いつもの笑い顔に戻っていた。
「清魔、か」
ひだりのつぶやく声は、低すぎて長良の耳には届かない。
ただ、ひとしきりそうやって問答を終えたので、いつものようにもう帰ろうか、と立ち上がる。踵を返し、思い出したように立ち止まり、ひだりを振り返った。
「お前、今日は村のほうに行かないか」
「はい?」
「今夜は、なんだ、祭りがあるんだそうだ」
「僕、文無しですよ」
そう言って笑ったひだりに、驕りだ、と言って笑った。
差し出された手をとると、ひだりはやけにきょときょとと辺りを見回し、それからその視線を彼に落ち着かせる。
「何だ」
「いいえ。僕、友達と遊びに行ったことって、あんまり無くて」
「ふむ」
「別に、慣れないなあって、それだけですけど」
ああ、でも、やっぱり。自分も別れを怖れて多少は他人と一線引いてるのかしらと洩らすと、長良は確かに、と苦笑する。
「漠迦ばっかでぇ」
「冬にお祭りって、珍しいですね」
「そうか?」
「そうですよ。普通は夏とか、秋とかですもの」
「そうだな」
祭りの騒がしい雰囲気は、林を抜けたところにまで空気を伝ってやってきていた。夜の村はかがり火、堤燈の朱い光に照らされて、紺の地平を彩る。夜風を感じながら、畦を歩く長良の横を歩いていたひだりは徐々に歩調を速め、何時の間にか小走りに彼の前を行く。ああしているのを見ると、ただの人間の娘のようで面白い。
紅い袖が灯かりに縁取られて舞う。
はしゃいで小走り、時々立ち止まって振り返る少女の姿は、どこか舞い遊ぶ蝶を彷彿とさせた。
ゆったりと歩いていき、乍、長良、ふと、思った。
成る程、こんな景色をいつまでも覚えていられるのが、あるいは清魔の生きる意味なのか。だとしたらあの小娘は彼に比べなんて賢しいのか。誰にともなく苦笑しながら。
村に入ると一瞬すくんだらしいひだりの背を押すと、彼女はちょっとだけ長良を見上げて、すぐに道の屋台に視線を向けた。走り回る彼女についてまわり、やはり遊ぶことに関しては存外無知であったひだりにいろいろと教えて回る。
町のように多彩な遊びはないものの、小さな村は村なりに、食べ物や装飾品などを出すところも多い。
「ひだり」
呼び止めると、彼女はすぐに立ち止まって、なんですか、と振り返った。こいこいと手招き、長良が差し出したのは小さな丸鈴をつけた紅い紐。受け取ったはいいものの、困惑の色を隠せない少女が彼を見上げる。長良が視線を注いだのは彼女の髪でも腕でも足でもなく、(恐らくこの鈴は髪飾りに違いないのだが)どうやらその腰帯に挟まった脇差であった。細い体と、繊細な着物の柄に甚だ不釣合いなほど重々しい刀を、どうも彼は気にしていたらしかった。
「お前さん、女子の癖に飾り気が無さ過ぎるんだよ」
「武器にそんなの求める必要もありませんし」
妙なところで律儀な男に、娘の当惑の視線が向けられる。
仕方ないと彼は苦笑、ため息一つしてその手から鈴を取り上げて懐に仕舞いこんだ。
祭りも佳境か、一際辺りが明るくなって、見れば広場で大きな火が焚かれていた。
「明日は雨だな、ありゃあ」
そうですね、とひだり。
火に照らされて朱に染まった横顔が、年齢よりも大人びて見えた。翡翠の目はただただ空に昇る橙の粉を見つめ、どことなく輝いて見えた。長良の目もじきにその方向へ向き、煌々と灯る陽炎を写す。
「珍しいこともあるものだわ。もう発っておられるかと思っていましたのに」
静かな声に彼が振り返ると、いつぞやの息子を横に連れて、御影が微笑っていた。
「悪いか? 俺は祭りは好きだったろう」
「そういえば、そうでしたわね」
ひだりに気付くと、彼女はあら、と首を傾げ。
「その子は?」
「いやな。身よりも無いし文無しで祭りも知らないってんでな」
「そうでしたの」
御影が息子をちらりと振り返ると、少年ははっと頬を赤らめてどこかへ走っていってしまった。彼女は苦笑しながら振り返り、反応に困っているひだりに視線を戻す。
「では、家へ来る?」
ひだりは小皺の目立つその笑みを暫し見つめ、それから長良を見上げるが、彼はまた大きな火に視線を戻していた。
「この人について行っても、碌な事無いわよ」
「一言余計だ」
顔を上げた御影に、長良が向き直って唇を尖らせる。
それからふっと真顔になり。
「そういやあお前のところは何かやってるのかい」
「ええ。食堂で加斗様が大忙ししていますよ」
加斗様、というのはあの主人のことか。今更のように空腹であったのを思い出すと、長良は一心に火の燃えるのを見つめていたひだりの襟に指を引っ掛けて引き寄せた。
「お前、飯はどうする」
「あ、いいです僕」
「まあ、来てくれるのね?」
返事を待たずに手を打ち合わせて笑ったのは御影である。ぎょっと目を見開いた少女の細い腕を掴むと、有無を言わせず歩き出した。助けを求めるような彼女の視線を完全に無視して自分も歩き出した長良もあとに続き。
諦めたひだりは手を引かれながら、しゃんとして歩く御影の横顔を盗み見る。
「貴女、名前はなんと言うの」
「あ、ひだり、と申します」
「そう。私は宿の女将をやってるの、御影っていうのよ」
「御影? 綺麗。石の名前ですね」
少女の切り返しに彼女は驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑んだ。
「ええ」
宿に着くと、まず、席を探すのに苦労した。宿に泊まっていた人間と、村人とが少ない食卓を埋めているのだった。
長良はひだりや御影とは別の卓について食事をすることにした。そもそも、その卓には二つしか席が空いていなかったのである。自分もまた別の卓で食事を摂っていると、後ろから声を掛けられた。
「お隣、いいですか」
振り返れば加斗、と言ったか、あの御影の亭主が立っていた。
「おう」
彼が少し長椅子の上をずれて席を空けると、加斗は小さく頭を下げてそこに座った。盆にのせて持って来た、自分の分の夕食を前に置き、手を合わせて箸を取る。
「仕事は終ったのかい」
「ええ、一段落ついたので」
蕎麦をすする音を聴きながら、長良は道のほうへ視線をやる。もう人通りも少なくなっていた。そろそろお開きなのだろう。どこか寂しいような感じが、どうにももどかしくて彼は好きではなかった。
「あいつとは、単なる腐れ縁だよ」
「聞いてませんよ、野暮なんですから」
男は苦笑する。長良も、そうだろうよ、と失笑。
段々と客の減っていく食堂を、御影が食器を片付けて回っていた。加斗は自分の分を食べ終わると、彼女の持っていた食器を全部取って自分のものと一緒に重ねた。持ち上げると、御影の肩を叩いて微笑う。
「お疲れさん。あとはおれがやるから」
「ええ、あなた」
少し笑みを交わすとすぐに調理場へ歩き出す夫を見送って、それまで彼の座っていた場所には改めて御影が座った。
「そうだ、御影」
「何?」
「これな。あの娘に買ったんだが、要らんと言うので持て余してたんだ。お前にやる」
長良が懐から取り出して彼女の掌に落としたのは、先程ひだりにやろうとした鈴であった。
御影はその華奢な飾りを持ち上げると、いかにも可笑しそうにくすくすと笑った。
「何だよ」
「いえ、ね。こんなおばさんが着けて似合うものじゃあ無いでしょうに」
言いながらもそっと振袖の中に仕舞う。落とすと、りん、と鳴った。
あの、と控えめに声がしたのはその直後である。顔を上げた御影があら、と首を傾げる。ひだりが、後ろに手を組んで立っていた。
「有難うございました、僕、もう帰りますね」
「どこへ?」
彼女が訊くと、少女はしまった、と口元を抑えた。帰るも何も、そもそも宿など取っていないのだ。態度からそれを悟ると、御影はまた、押し殺した笑い声を上げた。
「いいのよ、泊まっていきなさいな。申し訳ないと思うなら仕事を手伝って頂戴」
ひだりの目は忙しく御影と長良の間を行き交い、それから室内を彷徨ったが、結局小さな声で、お世話になります、とだけ言った。
断る理由など無いのだった。
「でも――」
はたと、長良は顔を上げた。話をしている二人の間に手を伸ばして黙れ、と素振りで示す。
御影は首を傾げたが、ひだりのほうは異変に気が付いたらしく、きりりと表情を引き締める。道の向こうでざわめく影に、女将も遅ればせながら気がついたようだった。祭りで村が騒いでいるときに目をつけたのか。
「何人だ?」
声を潜ませていった長良に、三十ですよ、とひだりが返す。
「性質の悪い盗賊が、この辺の村を荒らしてるのだと聞いています。あれが、多分その盗賊ですよ」
長良は横目に少女を見やると、また道の先に視線を戻した。そういえば彼女は湖畔でそんなことを言っていたな、と記憶を反芻する。それから御影を振り返ってから行って来る、と嗤った。
「いいのかい、あんな人数相手にして」
「漠迦、全部獲物だろうが、要するに」
「僕も」
ついて行こうとしたひだりの腕を引いたのは御影であった。
「言ったろう、あんな人についてくもんじゃあないよ」
「でも僕は……あ、刀は?」
思い出したように長良を見やると、彼はこれ、と腕を上げた。硬化して、石のようになったそれ。
「俺にはこれがあらぁ」
そう言って笑い、御影に目配せして走っていく。起きてきた息子と、ひだりの手を引いて彼女は奥の部屋へ入った。加斗が、夜具を用意しているところであった。御影が説明をすると、夫は肯くなりその部屋からもっと奥の間へ行ってしまった。
ひだりはそわそわと掴まれたままの腕を見ていた。胸が疼く。嗚呼早く。早く解いて。
それから格子窓の外をそれとなく振り返り、はたと目を見開く。何時の間にか、一所に固まっていた影が散り散りになってるのに気が付いたからだった。
「御影さん」
「駄目よ」
「でもあんなじゃ、略奪のほうが早いに決まってます、僕は」
僕は「このため」だけにこの村に足を踏み入れたのに。
言葉に出さないまでも、彼女の意思が言外に伝わったのか、御影は脇差の柄に伸びた細い手をやんわりと包む。台所を預かる母の手であった。
「駄目よ」
誰のものともつかない悲鳴が時折聞こえる。女子供のそれがあまり上がっていないということは、あるいは長良が略奪者を伸していくペースのほうが速いのか。しかし、それがいつまで続くのかと思うと、ひだりは到底安心など出来なかった。暴力的な効果音があちらこちらで響く。
ここも危ないかもしれないというのに、御影に抑えられたひだりの手はただ耐えることしか許されていなかった。
「ねえ、ひだりさん?」
彼女の声は、穏やかに響く。
徐々に、女子供の悲鳴が高くなる。
「私は、『女』にならざるをえないことが、若いときはとても悔しかったわ」
きゅ、と、握る手に力がこもった。ひだりが感じる弱々しい温もりと、もう一つ、なんとも表現しがたい感情をたゆたわせながら。
「長良に、言ったわ。なんで私はお前のようじゃなかったんだと。どうしてお前は私を対等に扱ってくれないのかと。自分の腕が細くて弱いのが、とても嫌だったのよ」
特に、この宿を継いで女将と呼ばれるようになることが、その象徴のようで。
閉じていた目を薄らと開けた御影の背中側で襖が開いた。夫が刀を放ると、小首を傾げて笑み、しゃんと立ち上がって受け取る。がん、と大きな音はこの部屋の外からである。それでも女将は動じることもせず袖の中から鈴を取り出し、ひだりに渡す。りん、と涼やかな音を立てて少女の手に落ちた、瞬間、障子が蹴倒された。略奪に来た大男を一閃して斬り伏せた太刀、女の手には似合わぬ名刀が映える。
「長良はね。家庭を持つ女にそんなものを渡すような、どうしようもない人なんですよ」
微笑した、御影、普段はただ黒いだけの石を磨きつづけた手の中でつるりと光るような、美しさ。ひだりは茫然とそれに見惚れ、それからはたと我に却って脇差に手をかけた。
「ね、ひだりさん。私が貴女だったら、あのひとは私を置いて戦さ場へ逃げなかったのかしら?」
ひだりは、どきりと、した。自分が清魔であることを前提に話をされていたのに気が付いて。
一家を守る母の背、立ち姿は、やけに寂しげに見えた。
長良は、舌打ちして立ち止まった。所々で悲鳴や破壊音が聞こえる。一人では間に合わない。これではせっかくの喧嘩も楽しくならないではないか。
「後ろ」
涼やかに声、はっと振り返った彼の背後に戦斧を構えた大男が崩れ落ちる。その向こうに小さな影、ひだりが脇差を振るい、血を払うと、柄に縛り付けられた紅い紐が舞う。
凛、と鳴った。
「なんだ、結局つけているのか天邪鬼め」
「僕は東を片付けます。長良さんは西をお願いします」
「北はどうするんだい?」
「御影さんが」
長良は、短く息を継いで、そうか、と静かに言う。
「しかし、清魔は好戦的じゃあないんじゃなかったのかい」
一転して揶揄するように笑うと、清魔か、と、静かなひだりの声、思わず歩き出していた足を止める。
振り返ると、笑みをへんなふうに歪ませた、少女。
「所詮は魔族、亜人族でしょう?」
そう言って翻る背中、柄に巻いた鈴がやはり、凛と鳴った。
宿に戻るなり自分に割り当てられた部屋に戻って倒れて寝てしまった長良は、その後の事は片付けが大変だろうが村人に大した怪我人が居なくて再びお祭り騒ぎをしていようが全く関与していなかった。目が醒めたときはもう陽も高かったので、目を開けるのに苦労した。
彼は小さく息をつき、それから立ち上がって大欠伸、背伸びして廊下に出る。朝のような冷たさが無いのが、少し残念だった。隣の部屋から出てきた少年はあ、と小さな声を上げて彼を見上げ、それから会釈して歩き去ろうとした。彼もまた寝過ごしたくちなのか。
「おい」
「はい?」
振り返った少年に、少し逡巡してから御影は無事だったか、と訊くと、彼はきょとと首を傾げた。
「いや、いいよ。悪かったな、引き止めて」
少年は長良の態度を見て何か悪いことをしたと思ったのか、慌ててぺこりと頭を下げて走っていった。その背中を見ながら暫く考え、彼はあの湖に足を向けることにした。
行きなれた道を歩き、林を抜けると涼しい湖畔。昨日火を焚いた所為か、いつしか空は暗くなっていた。残念ながらそこに彼女の姿はなく、やはりうなじがざわめくことも無い。肩口に風を切る音、慌ててそこから飛びのくと、湿った風を巻き付けて、刃が地面を切り裂いた。
昨夜の、いっそ芸術的ともいえる太刀筋と打って変わって、叩きつけるような乱暴な刃。
ひだりは地面から脇差を引き抜いて、仁王立ちした自分の裸足を見ていた。
「よう。卑怯なことをするな」
挨拶のように片手を軽く上げて笑った長良に、そうですね、と、沈んだ声が言う。
「時折、酷く破壊的な気分になります、昨日みたいな」
「ああ」
ぐっと拳を握り締める、その反動でちりん、と弱々しい鈴の音。
「僕はおかしい清魔なんです」
「そりゃあ良い」
長良がそう嘯くとひだりはようやく顔を上げた。信じられない、という表情であった。
「喧嘩友達になれよ」
そう言って一瞬少年のような笑みを浮かべた長良の横っ面を腰から抜いた鞘で思いっきり殴り飛ばすと、彼女は倒れて悶絶する彼の上からひょっこりと覗き込み。
「友達、ですか?」
緑の目を丸くして、そう訊くと、答えも聞かずに嬉しそうに笑んだ。
文句を言うのも忘れた長良の頬に、ひだりの頭を掠めてぽつりと水滴が落ちる。一粒落ちればそれが合図のように、次々と落ちる雨粒、たちまち煙って視界を曇らせた。目や口に容赦なく入ってくるので咳き込み、彼が体を起こしたときにはひだりの姿はそこに無かった。
五人分ほどの生を更に生き、場所も時代も多少の移り変わりを見せる。着流しはさすがにあの国を出たら通用しなくなったので、黒い、なるべく動きやすそうな服など着てみたり。煉瓦造りの家々の間を歩く、今は夜である。月の綺麗な晩。たまに腕の立つ犯罪者がうようよしているので、喧嘩がてら狩るのだった。
広場に出ると、教会の高い屋根が天を衝いて立っている。歩きつかれたので噴水に腰を下ろすと、ぼけらと高く上った月を見上げ。
不意に、首の後ろがざわめくような感覚を覚えて、振り返った。それから、失笑して隣に席を空ける。
「酷いな、せっかく広い場所で待ってたのに喧嘩してくれないんですか?」
心底残念そうな声は、彼の覚えているものより心なし高く、背丈は少し高い。
肩まであった髪は綺麗に切りそろえられたショートカット、ゆったりとした服を好んで着るからか体のラインはあまり見えないのが残念だ、と言うと、怒り交じりに飛んできた拳を受け止めた。
手首に括られた紅い紐、それに下がった鈴が、凛と鳴る。
「始めまして、リデルといいます」
「今はヴァルゴやってるよ」
「素敵な名前。とうとう蛮人扱いですか」
笑い乍手を引く、彼女はすとんとヴァルゴの横に腰を下ろした。
月の綺麗な夜だった。