音色が聴こえない奏者
ゆっくりしていってください。
白い……白い天井が見える。
外から聞こえてくる、青い空を飛び回る小鳥の鳴き声は、子供がはしゃいでいる様な明るく……キレイな音色だった。
ベットで寝ている青年……奏音 喜永はそう言った不安や恐怖などのノイズを含まない音色が、好きだった。
だけど、起き上がった青年はその音色が聞こえないような……瞳はうつろで、光が灯っていなかった。
――ここはどこ? 僕は……?
記憶を失っていた……頭を抱えて、痛みに耐えるように苦痛の表情を浮かべた。それは、どんなに好きな音色だって聞こえていても、何が良いのか分からないかのように。
誰もいない病室を見渡しては、どう弾いていいか分からない奏者の様に、ただただそこにいた。
ふと脇に置いてある、小さな玩具の様なピアノが目が行っていた……。しかし、どんな物でどんな使い方をするか分からず。
――これは……何?
その小さなピアノを持ち上げては、下から覗き込む様に見たりして、色々な角度から見ていた。けれどもこれが示す意味を見いだせず、赤子の様に見て触っているだけ。
不意に、喜永は窓の奥……木1本と雲が1つ見える、静かな青空を見た。
夏には少し肌寒い、外から赤子も泣き止む様な静かに暖かな……キレイな歌声が聞こえてくる。それに、喜永は言葉を失っている。
――――♪――――
――――♪――――
その声は、病院内に響き渡っていて窓から見える病室の患者は、静かで安らかな顔色が見えていた。
少しだけ……少しだけ喜永の瞳は輝きを取り戻したが、それでもどこか寂しく音色が聞こえて来ないようだった。
喜永が音を奏でられる日は来るのか、それとも別な何かが芽生えるのか。
――キレイな声だった。
「奏音さん、起きていたんですか?」
「誰の事?」
看護師さんは入ってきた後、気楽に話しかけてくるが、喜永が言葉を返すと共に言葉を失っていた。そして、看護師さんは扉を開けて走って出ていってしまった。
自分の名前すらも、喜永は記憶を無くしていた……。
なぜなら……。
「奏音さん! お名前が分からないんですか!?」
「……どういう事?」
「やっぱり、気を失ったときの衝撃で……」
喜永は交通事故にあった。しかし、頭に衝撃を受けたものの……それ以外の外傷は無かった。
そのかわり……車から脱出した先に見た物が悪かった。そのショックで気を失ってしまった。
喜永の声は元気が無く……自分の音ですら忘れてしまった様に。そして、今の状態では普通の人と生活するのが無理な程……記憶を失ってしまった。
「……奏音って誰?」
「あなたのお名前は、奏音喜永……高校生ですよ」
「そう……なんだ」
看護師に連れられてきた白衣を着た医師は、名前と学生であることを教える。が、それでさえも喜永はどうでもいいような反応をしかしなかった。
喜永はベットの布団をはいで、横に足を揃えてからスリッパもはかず、何処かに歩いていこうとする。
喜永にもよく分かっていなかった……動く意思はともかく、何処かに行きたい気持ちだけが先立っている様に。
――あの声は、何処からきていたんだろう?
医師は看護師に何かを指示している、その後医師は何処かに走っていってしまった。一方、喜永はフラフラしながらも歩いていった。
看護師は喜永を見てるように言われたのか、脇に付き添っている。
周りの人々は、何かに動かされている様な喜永の事を不気味に見て、あるいは心配そうに見ていた。
「奏音さん、何処に向かっているんですか?」
「……声の人の所に」
「声……ですか?」
喜永は消えた音色を求めるように歩く……その先に求める物があっても無くても、すがるように歩いていた。
やがて歩く先は、病院の施設を出て目の前にある芝生に行っていた。
再び声が聞こえる……今度は、練習の様で小さな物だったが変わらずキレイな声だった。また、その声に引き寄せられるように喜永は歩いて行く。
「あ、看護師さん! えっと……そちらの方は?」
「遥さんこんにちわ、奏音喜永さん……記憶を無くしてらっしゃるの」
「そうですか……こんにちわ、喜永さん」
看護師さんに気づき、声を出すのをやめた。その直後、張り詰めていた糸が切れるように、喜永はその場で座り込む。
その姿を見ても怯まず、片手は包帯で隠れてしまっている……歳が同じくらいの女の子は、キレイな声で喜永に挨拶をした。
だが、それに対して喜永は返さず……音色が無くなり動かなくなった人形の様に、ピクリともしなくなった。
――なんで、やめちゃったんだろう?
それだけを喜永は考えていた。なぜなら、名前の記憶も無ければ……声をどういう意図で出していた物も分からないから。
看護師さんは動かなくなった喜永に、声をかけていた。また、女の子も立ち上がって包帯を巻いた手と無事な腕で口を覆って、びっくりしているようだ。
今の喜永は何かを求めて動くことしかできない。それも、どうすればいいのか分からない……譜面を忘れた奏者の様に。
「……声を……どうして、やめたの?」
「声? もしかして、あの歌の事ですか?」
――歌? そうか、あの心の中が暖かくなるような声は……歌なんだ。
必死に絞り出した様な喜永の言葉は、女の子に理解出来る形で伝わったようで、すぐに歌の事であることを伝える。それに、喜永は納得のいったような……音符の読み方をしったみたいに顔を上げた。
その時、急激な痛みが襲いかかってきたのか、喜永は頭を抱え目を強く紡いでしまった。そして、何かを思い出したようにふと、顔を再び上げた。
思い出したのは、ピアノと音楽……そして、歌。
――僕は、音楽が好きだったんだ……もう少し彼女の声を、歌を聞きたいな……。
「どうしたんですか?」
「……君の、歌を……聞かせて、ください」
顔を上げた後、喜永は立ち上がった為、疑問に思ったのか女の子が話しかけてくる。それに答えるかの様に、喜永は女の子に言った……歌を聞かせてほしいと。
看護師さんは安心したように、安堵の表情を浮かべると共に、女の子に声をかけていた。
その言葉に同意なのか、笑顔で頷いてから看護師さんに向いていた顔を喜永に向き直し。
「それじゃあ、貴方のお名前を教えてくれますか?」
「僕の名前は……奏音、奏音喜永」
「いいお名前ですね! 久しぶりの観客ですから、聞いててくださいね」
そう言って、茶色の髪を揺らして目を閉じて、顔を空に向けて無事な右手で胸に置くと……歌いだした。その瞬間、周りの風景が彼女の歌声と共に、呼応する様に揺れる木々や鳥の声が聞こえていた。
――――♪――――
――――♪――――
歌い終わった時には、聞こえていたのか周りにいる人達までもが拍手をしていた。そして、喜永は……泣いていた、その感情が分からない様に涙で濡れている頬を手で触っていた。
喜永はこの歌声を聞いたことがあった。それは、何処だったか……そこまでは思い出せてない様だが、確かに喜永は聞いたことがあった。
少し遠くのライブで解散報告と共に、消えてしまったバンドのボーカル……。
「私の名前を教えてませんでしたね、すみません……私の名前は、森崎香苗と言います」
「知ってる、と思う……けど、思い出せない」
「……もしかしたら、私のライブに来てくれた人かもしれませんね」
名前を言った際に女の子は、ハッとしたように目を見開きその瞳を喜永に向けていた。だが、それも一瞬で、誤魔化す様に口にした。
喜永はその動作に気づくはずもなく、自分の頬を拭うこともなく、先程の歌声を身に染み込ませる様に目を閉じた。
この先、喜永は何をしてどう生きていくのか……奏でる奏者になるのか、自分の音色ですら分からないただの譜面になるのか。
あれから、のんびりと言える時間が過ぎていった。しかし、喜永にとっては濃く、辛いものの様だった。
女の子……香苗の歌声を聞いてから、自分の記憶と格闘するように……ピアノの前に座っていた。
病院内にピアノが置いてある場所が無かった……しかし、医師や看護師達の図らいによって使っていなかった防音の施設を使わせてもらえるようになった。
――僕は、僕は音楽が好きなんだ! 自分の事を覚えていなくても、一番最初に思い出せたこれだけは……好きだと思ったんだ!
彼女の歌声をピアノを弾いてみたいと思っていた。それは、彼にとって本当の意味で好きな曲だった……。
ピアノを引くという事は、記憶や体が覚えていないといけない……。しかし、今の喜永はその記憶自体を引っ張り出す事が難しかったため、難航している様だった。
彼が必死に頑張っている姿を……白い部屋と同じ色の扉が空いていて……ちょっとした隙間から彼女が、香苗が見守っていた。それを、看護師さんが声をかけたり、一緒に見ていたりした。
暖かかった季節は、紅葉が紅く染まるように夕日がキレイになると共に、肌には寒すぎる季節になった。
そんなある日、喜永が何時もの様に練習をしていると、現れた人物がいた……。そう、ずっと見守っていた香苗だった。
喜永のピアノの音色は未だにキレイとは言えず、努力が上に来ているのに、それに実力が追いついていないように。
「喜永さん、調子はどうですか?」
「香苗さん……全然ダメですね、全く出来る気がしません」
――失望させちゃったかな……僕じゃダメなんだ……
気持ちが落ち込む様に顔を下に向けるが、自分では気づいていない変化があった。それは、最初の時よりも瞳に、目に、光が灯っていた。
あの時は、自分の事が分からずどんな事をしても崩れそうな感じだった。しかし、今は音色がはっきり聞こえて、小さくても確実に弾いていく奏者の様な……力を感じた。
香苗はそれに微笑んで、呟く。まるで、自分の姿と重ねるように。
「1回、私の歌と合わせてみませんか?」
「……え?」
「喜永さんの音色を聞いていて、私も元気をもらえたんですよ」
喜永は呆然としていた、本当にダメなんだと、自分じゃこの人の様に……この人の様なキレイに出来ないと思っていたから。だけど、彼女は違った……本当に元気を貰ったかの様に、明るい表情をしていたから。
彼女と一緒に、香苗が歌声で喜永がピアノの様に、そんな姿は一生来ないと思っていた。
彼女が歌声に合わせてピアノの演奏を加えると共に、喜永のまだ定まりきっていない音色が目立つが。そんな事を感じさせない程、2人の顔に笑顔が、嬉しそうな顔が出ていた。
紅く染まった紅葉が、枯れ落ち……雪も降りそうな、寒い季節になり。
2人の練習は身が固まるように、キレイな物になっていった。それは、寒さなんかを気にしないほど暖かく、脇に入れば心までもが暖かくなるような物だった。
白い空間には、数名と言える観客もいる様になった。その多くが高齢者ではあるが、皆一同音を聞いて懐かしむ様な、音を楽しんでいる表情になっていた。
「喜永さん、お客さんが増えてますよ」
「そうだね、最初と比べ緊張もしなくなったし……それに、自分の納得行く物になった」
――本当に、彼女には敵わないな……
喜永の瞳には完全に光が戻っており、途切れそうな声は、はっきりしたものになったいた。それは、音符がキレイに聞こえ、周りにそれを分け与える奏者の様になっていた。
香苗は何時も笑顔で、喜永といる時は本当に嬉しそうにしていた。
そして、時間は有限の様に、看護師さんがやってきた。その瞬間、香苗の顔が少し曇ってしまう。
「喜永さん……今日は言っておかないと、いけないことがあったんです」
「何?」
「私の退院日が、今日なんです……もしかしたら、もう会えなくなるかもしれないです」
なんで、と言いたげに喜永は香苗を見ていた。それは、怒りとも悲しみとも取れる表情だった。
何故言ってくれなかったのか、何故教えてくれなかったのか……という気持ちからだった。
ピアノの椅子から立ち、喜永は香苗に近づいていく……香苗は怒られると思ったのか、目をつむる。しかし、喜永は笑って。
「なら、今日最高の演奏をしよう……会えなくても、僕達がここに出会えた事を残せるように!」
「喜永さん……でも、いえ……そうですね!」
――これでいい、本当に伝えたい気持ちはあっても、これだけでも伝わればいい
喜永は何時からだったのかも忘れるくらい、彼女が好きだった。そして、記憶の大半が戻っても、彼女への気持ちだけは変わらずにいた。
それを言葉に出すことは無理だったとしても、彼女の前では笑顔でいようと思っていた。
それと同時に、関節的にでもいい……喜永の気持ちをピアノの演奏と共に伝わってくれればいいと思っていた。それは、伝わらないと事もありえたはずだが、彼女なら伝わると信じているようだった。
看護師に香苗は話をして、了承をもらえたのか、こちらに歩いてきた。看護師さんは、その事を伝えるために急いで走っていった。
「喜永さん、少し待っててくださいね」
「いいけど、どうしたの?」
「それは、秘密です」
そう言って、いたずらの笑みを浮かべる様な、可愛らしい表情だった。それに、喜永は呆れるようにしたものの、嬉しそうに待った。
少しした後、香苗が声をかける。
「それじゃあ、始めましょう!」
「はい」
――――♪――――
記憶の中であなたの声が聞こえてくる あなたは何を言いたいのか分からない
それでもあなたの声は 元気をくれていた 闇に負けない 小さな灯火の様に
私はあなたの事を信じているから この世界は素晴らしいから生きてと
闇の中で聞こえなかった 全ての声が聴こえるように開かれた気がした
その時本当の音色を知った これから行く先にどんな音符が流れるのか楽しみなる
1人では見えない光も 2人で入れば見える光がある
崩れそうになる体を支えてくれる様な 心に炎を灯してくれる様な言葉
自分の音符を鳴らそう そこには必ず譜面があるように 鳴らしてくれる人がいる
不安になったら音符を鳴らそう そうすれば周りの人が別な音を鳴らしてくれる
闇に囚われない様に あなたの音色響かせよう
――――♪――――
歌い終わった時に、拍手と共に……2人の男性と女性が歩いてきた。それは、香苗にとても似ている顔で、親子だということを分かるほどだった。
香苗は、喜永に手を取って2人に近づいていき……言う。その瞳は、力強くどんなに壁に当ったとしても消えない光の様だった。
「お父さん、お母さん……私、喜永と結婚したいです!」
「……え?」
「喜永さんは、私の事が嫌いですか?」
「僕は……僕も香苗さんの事が好きです!」
喜永は戸惑った……。しかし、自分の気持ちに素直になる様に、強く動かされる様にそう強く言った。
両親は自分達の事をお互い見て、頷いてから……2人を笑顔で見た。それは、否定する様な、厳しい親の顔じゃなく……祝福する様な顔だった。
あれからどれくらい経ったかも忘れほど時間が過ぎた。
2人は少し老けてしまっているが、あの時の面影が残っている様な、笑顔で互いを見ていた。
そして、2人の持っている写真は、当時の病院で取った……両親の間に、笑顔で手を繋いだ2人が立っていた。
その周りには、笑顔で見守るお爺ちゃんやお婆ちゃんの笑顔だった。
そして、喜永はピアノに座り……香苗はピアノの近くに立ってあの当時の曲を、2人で演奏し、歌った。
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