魚になった兄ちゃんの話
水底の藻屑となりて兄は我を見つらし慎みて生く … München
私の兄は級友と遊びもせず、自分の部屋で本ばかり読んでる少年でした。
しかし真面目少年という感じではなく、魚や宝石などの図鑑をただじっと見つめてる兄の姿をよく憶えてます。
仲の良い兄弟だったのでしょう。
兄と喧嘩をした記憶がありません。
兄には自己主張がないので喧嘩にならないのです。
私たちは田舎育ちで、よく裏山の奥の川原で遊びました。
夏休みに兄と二人で深緑につつまれた渓谷を探検したときのこと…
兄は、清流の中で宝石のように輝く魚たちを見つめながら、つぶやいたのです。
魚になれたらいいのにな…
なぜかその兄の言葉は、私の記憶に深く刻まれました。
兄と川で遊んだ夏の日の思い出は、今も私の心の奥底で、あの魚たちのように輝いてます。
ただ過ぎ行くだけの幼き日の思い出。
一見無意味なことが人生に大きな意味を与えるものだと私は思います。
私は勉強が苦手だったので、夏休みの宿題などは兄にいつも助けてもらいました。
兄が勉強をしてる姿を見たことがないのですが、不思議と兄はいつも優秀な成績で、親の期待にそうように難関と言われる高校に難なく合格し、県内の有名な国立大学に進学したのです。
しかし兄は大学生になっても友人は一人もいなく、何のサークル活動にも参加してなかったと思います。
所謂「青春の謳歌」とは全く無縁な大学生活で、相変わらず何の目的もなく川辺をただ散歩して過ごす孤独な青年でした。
兄はせっかく有名な大学まで卒業したのに就職もせず、相変わらず日々を無為に生きていました。
その頃には親はもう、兄のことを半ば諦めていたと思います。
夏の終わりのある日のこと、兄が私に、
川に行くから…と言って出掛けました。
私にわざわざ告げて行くことに何か違和感をおぼえたのです。
兄は二度と川から戻りませんでした…
遺体はあがらず、自殺か遭難かもわからぬままに行方不明ということで処理されました。
無意味で無価値な人の消滅に世間は無関心でした。
親は私にだけは普通の社会人になってほしいと強く願うようになりました。
私は成績が悪かったので進学は諦めましたが、高校を卒業して地元の企業に何とか就職できたのです。
私も年相応に処世術を学び、世渡りは人並みにできたので、その会社で地道に働き、それなりに昇進しました。
ある日上司が、私の昇進祝いを有志でやると言い出し、同僚や部下、パートの女の子も参加して盛大に宴を開くことに決まったのです。
宴会場は地元では知る人ぞ知る老舗で郷土料理と地酒を出す料亭でした。
宴もたけなわになった頃、上司が珍しい「霊酒」があるといい、女将に注文したのです。
地酒は苦手ですが、上司の心遣いなので無理して飲みました。
でも不思議にその「霊酒」なるものは大変美味しく感じられ、いつになく飲みすぎ酔いしれました。
すると女将がまたきて、滅多に捕れない魚なので是非にと、川魚の料理を勧めたのです。
しばらくして、その料理が出てきました。
女子たちの席では、凄く美味しいと言って、その川魚を箸で突いていました。
酒に酔った私には、その川魚の優しい目が私を見ているように感じられました。
あゝそのときです。
信じられない、あり得るはずのないことに気づいたのです。
兄ちゃんだ…
女子たちの席の魚は兄だったのです。
彼女たちはなぜ気づかないのだ。
あの優しき人の目になぜ気づかないのだ。
私が狂っていたのでしょう。
でも魚の顔は間違いなく、あの懐かしい兄の顔なのです。
私は思いました。
兄は自殺でも遭難でもなく魚になって川で生きていたのだと。
人の世界に疲れた兄は、魚になって川で穏やかに暮らしていたのだと。
その兄が人の網に捕まり料理となって供される。
全く無価値な人間だった兄がこんな形で人の役に立つなんて。
あゝなんて悲劇だ…
なんて不条理なんだ…
箸で突かれる兄の姿を見つめながら、ただひたすら酒を飲んで酔い潰れると涙が溢れ、もう兄の姿を見ていることはできませんでした。
宴が終わり皆が帰り静まった頃、お頭だけになった兄と再会することができました。
兄ちゃん 俺だよ
うん わかるよ
川で暮らしていたんだね
うん 水の中は静かでいいよ
人の世界が辛かったの?
うん…
でもやっぱり捕まっちゃったね
うっかりしたよ
兄ちゃん これからどうするの
俺を川に戻してくれないか…
兄を懐にだき、子供のころ二人で遊んだ川辺に着くと、美しい天の川が流れる静かな夜でした。
夜空に輝く宝石のような星たち
穏やかな清流のせせらぎ
哀しく響く鈴虫の声
この宇宙に偶然生まれたものたちが、兄と私の最後の別れを惜しんでくれていると思いました。
じゃあ兄ちゃん 元気でね …
お前もからだに気をつけろよ…
兄は吾を 鱗魚となりて 見守らなむ
…München
兄を清流にかえしたとき、もう二度と逢うことはないと思いました。
おわり