プロローグ
勉強をしたくない。特に数学をしたくない。文系の俺にとって、数学は地獄だ。拷問だ。あんなものを学んで、将来何の役に立つというのか…。「どうすればこの問題を解けるのか」ではなく、「どうしてこの問題を解かなければならないのか」ということを先に考えてしまう俺は、根っから数学の才能がないのだ。自分ではそう思っている。
俺は独り、トイレで小便をしながらそんなことを考えていた。一番窓際の便器。窓からグラウンドを眺めることができる。昼休みのグラウンドでは、野球部が熱心に練習をしている。
俺は小便をし終えると、ズボンを上げ、チャックを閉じた。そして、手を洗う為、ゆっくりと水道へと歩いた。蛇口をひねると、水が勢いよく流れ出る。
「あぁ…勉強したくねぇ…。」
『勉強したくない?じゃあ学校辞めるか?』
「いや…学校は好きだよ。でも勉強が嫌だ。」
『だったら、勉強しなくて済む学校に連れてってやるよ!』
「まじで!?……って、え?」
俺はどこからか聞こえた男の奇怪な声に驚いた。無意識のうちに会話が成立していた気もするが、今になって怖くなった。俺はトイレを見渡す。しかし、声の主らしき者の姿は見つからない。空耳だろうか?
「…なんだったんだ今の…。」
『んじゃ、さっそくお前を召喚するぜ。』
「…へ?」
男の声の直後、俺の体は眩い光に包まれた―――――――。
ゆっくりと目を開いた。そこは見知らぬ車内。大きさからすると、バスと同じくらいだろうか?しかし、奇妙なことに、席が一つしかない。それも、車内の中心に一つだけポツリと…。運転席は前の方にあるが、運転手がいない。しかし、このバスは走っている。どこか知らぬ暗闇を走っているのだ。
「…なんだ……ここ…。」
『へい小僧!無事に乗車できたみてぇだな!』
「!?」
トイレで聞いた声と同じ声が響いた。しかし、どこを探しても声の主は見つからない。
『お前の願いを叶えてやったぜ!』
「おい待てよ…なんだよここ。あんた誰だ?」
『俺は”第三者”と呼ばれる存在だ。お前を異世界に召喚した。』
「俺を…召喚?……異世界!?」
何を言っているんだこの男は。ストレンジャーは…確か英語で「他人」とか「見知らぬ人」とかそんな意味だったはず。
『この世界には、遺伝能力と呼ばれる力がある。』
「パーソナル?」
『ああ。遺伝的な力だ。全員がもっているわけじゃねえ。だが、俺はお前に遺伝能力を与えることができる。』
「…は?」
この男はさっきから言っていることが頓珍漢だ。
『AとBがある。…どっちがいい?』
「んなのしらねェよ!」
『良いから答えろ!どっちがいいんだ?』
「じゃあAでいいよ、Aで!」
『よし、分かった。Aだな。』
男は再確認をすると、黙り込んだ。俺はそれを不審がり、辺りを見回す。さっきから窓の風景が変わらない。真っ暗な暗闇を走っている。真っ暗すぎて、動いているのかどうかすら怪しいが、バスに伝わる振動で、走っているのが分かる。
すると突然、俺の体は赤い光に包まれた。その光は数秒で消える。俺はすぐに体に異変がないかを黙って確認するが、どこにも異変は無い。
「今何した?」
『お前に遺伝能力を与えた。感謝しろ。』
「っていうか、早く帰してくれよ!」
『帰してやってもいいが、どうせ帰ったら勉強だぞ?』
「あ…。」
俺は、ごくごく当たり前のことを忘れていた。確かに、元の世界に戻って勉強するくらいだったら、このままバスの中でじっとしてた方が楽な気もする。
「いや…でも…。」
『学校のみんなに会いたいか?』
「…おう。」
『だったらそいつらを召喚してやってもいいぞ。』
「え?マジで言ってる?」
男は急にすごいことを言いだした。確かによく考えればそうだ。俺を召喚できたってことは、他の人間だっていくらでも召喚できるはずだ。俺が驚いたのはそこじゃない。この男、そこまで気の利く男だったとは…。
『ただ今すぐは無理だ。少し時間はかかる。』
「おう。」
『それでだな。これからお前に二択の質問をする。』
「質問?」
『…この世界には遺伝能力を持った人間がいるわけだが…遺伝能力を持った者同士、争いも起きるわけだ。それで、この世界では主に二つの勢力がぶつかってる。』
男の話はこうだ。
この世界には二つの勢力がある。一つは、遺伝能力を悪用し、よからぬことを企てんとするいわば悪の集団”ヘリュム”。もう一つは、ヘリュムの陰謀を阻止すべく構成された、いわば正義の集団”ジャスティン”。
男の話だと、俺は「この二つの組織のどちらに入団するか」…を自分で決めていいらしい。もちろん俺は、悪に染まりたいわけでもないし、正義は必ず勝つ…という言葉を心なしか信じていたため、迷わず”ジャスティン”の方を選んだ。
『ジャスティンでいいんだな。』
「…うん、まあ。」
『ジャスティンに入る場合、最初はジャスティン特別士官学校に入学する必要がある。入学には入学試験がつきものだ。心しておけ。』
「え!?勉強!?」
『勉強ではない。戦闘だ。』
男がそう呟いた直後、突然暗闇が晴れた。闇の中を走っていたバスは、眩い光の空間へとたどり着いたようだ。そしてその後、バスのあらゆるところが煙の如く消え去った。俺は、ただ一人光の空間に放置されてしまった。
「ちょっと…どういう…」
『緊急事態だ!敵が来る、戦え!』
「はぁ!?」
男の声の直後、光を裂くように、紫色の炎が突然眼前に現れた。俺はビビって後ずさる。炎の中からは、奇妙な鎧を着た者が、のうのうと姿を現した。
「え?何?」
「ジャスティンに入る者か…ならば、今ここで消す!」
鎧を着た者の正体は男だ。声を聴けばそれはすぐに分かった。鎧の男は背中に下げていた一本の槍を構えた。完全に俺に向けている。
「名を聞いておこう、小僧。」
「え?…えっと…羊谷守人です…?」
「そうか、守人。死ね。」
男は槍を構えたまま、俺に向かって走ってきた――!