君を優しく傷付けた
「時経、どうかしたのかい?」
ゆっくりと発せられた言葉に、はっと我に返った。
「ぼぅっとして、手が止まってる。君らしくないじゃないか」
「あ……いえ」
俺らしくない、か。
確かにそうなのかもしれない。
誠心誠意仕事に打ち込んできたつもりだったが、いつの間にか手が止まっていたことを否定できない。
恐れ多くも帝の御前であるというのに……
「珍しいことだ。何か、悩み事でもあるのかな?」
「いえ、単なる考え事でございます故、帝のお心を……」
「……蔵人頭、二人の時はそう呼ぶなと命じたはずだが?」
「あ……申し訳ありません、実篤様」
「よい、許す」
満足そうに微笑む現帝実篤様に、俺は何故か気に入られている。
こうして、恐れ多くもお名前でお呼びさせて頂けるほどに。
とんとん、と閉じた扇でこめかみを軽く叩く何気ない動作だけでも雅びなものだと思える。この方は一つ一つの動作が優雅なのだ。
「それで、何を考えていたんだい?」
「……いえ、大したことではございません故」
「大したことではないと言うなら、話しても差し支えがないだろうに。それとも、私に言えないような話なのかな?」
そう、例えば……帝の譲位、とか。
そう扇の影で呟いた一言に全力で否定をした。
そんなまさか、実篤様がおられるからこそ世は平定されているのに、何故退位などと考えるというのだろうか!?
「いいえっ!! 滅相もございません!! 何故私がそのような愚かなことを考えると……」
「ふふっ、よい。そう必死で否定せずとも分かっている」
「……は?」
「そなたは私を裏切らない。そうであろう?」
さも当然のように口元に笑みを浮かべた実篤様に、慌てて平伏した。
裏切られると思うくらいには、実篤様に信頼されている。
そのことが、純粋に嬉しい。
「もちろんです。私は実篤様の世の平定を恐れ多くもお手伝いさせて頂く身、裏切りなどもっての他でございます」
「そう畏まるな。そなたの働きぶりは見なくても伝わっている」
「左様でございますか! ……あ、いえ、身に余る光栄でございます」
思わず口にしてしまった言葉に、実篤様は袖で口元を隠しながら忍び笑いをされた。
顔から火が出そうなほどの羞恥ではあるが、実篤様が笑っておられるのであればよしとしよう。
ひとしきり笑われたあと、実篤様はぱちり、と扇を閉めた。
「さて、戯れはここまでとして。時経」
「は」
「君は知っているかい? 右大臣が箱庭の桜をやっきになって此処へ入れようとしていることを」
どくん、と大きく心臓が跳ねた。
“箱庭の桜”
暗に右府様の大姫のことを指しているのは言うまでもない。
西二条での枝下桜は、右大臣家以上に素晴らしいものはないだろう。それを揶揄して桜二条と呼ばれている程なのだから。
秘蔵の姫を此処へ輿入れしようとしている、と言うのは……
「四人目の更衣になさるおつもりですか……」
「そのようだ。私にこれ以上妻は入らぬと申しても、今回ばかりは一向に引かぬ」
右府様の強い娘の輿入れ願望は、前々から分かっていたこと。
実篤様が入れないと仰せられていても、右府様は忘れた頃に話を蒸し返すため、内裏では有名な話だ。知らぬ者はいないだろう。
今の後宮に左大臣派から二人、右大臣派からも二人。
自分の娘をまだ後宮に入れられない右府様は、誰よりも焦れているに違いない。
「しかし、何故今なのだろうね」
「……何故でしょうか……」
「おや、何か気付いたことはなかったのかい? きみはこの間、方違えで彼の家に行ったのではなかったかな」
動揺が胸に広がった。
実篤様に気付かれぬよう、顔に出なければいいと思うのだが、どうであろうか。
確かに、数日前に右府様の屋敷の一角に一晩泊めて頂いた。
素晴らしいと言われる枝下桜も拝見させて頂いたが、右府様とは夕餉の刻にしか顔を合わせてはいない。
「……特には、右府様の様子は代わり映え致しておりませんでした。私の見たかぎり、ではありますが」
「そう」
すっ、と目が細められた。
探るようにじっと見つめられる。
「……嘘を、実篤様にはつきません」
「そうだね、きみは私に嘘をつかない」
だが、と。
真っすぐに俺の目を見据えながら、低く小さな声で実篤様は呟いた。
「隠し事はしているだろう?」
すきま風が、部屋を駆け抜けた。
しんと静まった室内。耳に飛び込むのは、己の心音ばかり。
自分の呼吸ですら聞こえないのは、息をするというのも忘れていただけなのだろう。
そんなことに気付くのにも、俺には時間が必要だった。
固まってしまった俺に、実篤様はゆっくりと言葉を続ける。
「答えないのは、肯定なのかな?」
「……あ…」
「いや、答えなくてもいい。誰にでも秘することはあるからね。無理に聞こうとはしないよ」
優しい目をした実篤様は、困ったように微笑まれた。
「そんなに、辛い顔をさせたいわけじゃないんだ。時経、きみが嘘をつかないからこそ言わないのは分かっているよ」
辛い顔をしているのだろうか、俺は。
実篤様のお優しいお言葉が、いつもは嬉しいはずなのに、今はそれが余計に苦しい。
心が、痛い……。
「……長い間引き止めてすまなかったね。さぁ、仕事に戻ってくれ、時経」
「……は、い」
「また、暇ができたら来てくれるかい? あぁ、そろそろ碁の決着をつけよう」
「……えぇ、楽しみにしております」
実篤様の気遣いに上手く笑みを返せたであろうか。
襖を閉めたときに、無理矢理作った笑顔は消えていただろう。
「申し訳、ありません……」
目頭が熱くなったのは、きっと腑甲斐ない自分が情けないからであろう。
『きみは私に嘘はつかない。
だが、隠し事はしているだろう?』
見透かされたのかと思った。
狂おしい程のこの気持ちに。
許されるはずもない、叶わぬ恋心に……!
出会わなければよかったなどとは言わない。否、言えない。
これは、ただの運命の悪戯だったのだから。
右府様の計らいで、枝下桜を拝見させて頂いていたときに感じた、視線。
部屋には御簾が下ろされていたために、何処からか、誰からかですら特定は出来なかった。
それに気付かせてくれたのは、春の心地よい、風。
芳しくも甘い香が一瞬俺を包み込んだのだ。
暖かいと思えた、今まで嗅いだこともない薫き合わせの香。
その香は桜からではない。
それなら何処から、とふと風上にある御簾へと視線を向けた。
小さく言葉を交わす声がしているが、女房だろうか。
『そこに、誰かおられるのであろうか?』
問い掛けても、返事はない。
ただ、小さく息を呑む音がしただけだった。
その後に人の気配は感ぜられなかった。
きちんとした女房ならば、黙って行くことなどないであろう。
家人や舎人であるかもしれないとも考えたが、男の香の合わせではない。
そう考えると、まさかまさかとは思いつつも、辿り着いた答えに驚きを隠せなかった。
「……桜二条の大姫、か」
きっと、そうだと思う。
右府様の屋敷で、黙ってその場を後にするような人物は他に考えられない。
姿を垣間見ることも、声を聞くことも、何一つ叶わなかったもに関わらず、あの香だけでこれほどまでに心を占められることがあるとは、思ってもみなかった。
俺が恋をするなど、仕事の邪魔になるだけだからと歌ですら送ったことがないのに……、全く以て滑稽な話だ。
その上、相手は右府様の秘蔵の姫。
恐れ多くも実篤様の更衣へと輿入れされるかもしれないという、決してこんな想いを抱いてはいけない相手だ。
気持ちを押し殺せるだろうか。
(すでに実篤様に勘付かれたのに?)
忘れられるだろうか。
(これほどまでに強く想っているのに?)
「……無理だ」
この熱情が冷めるのを待つしかないのだ。
きっと、姫には気付かれていないだろう。この後出会うこともない。
ただ、実篤様に対する心苦しさだけが、俺に残るだけ。
肯定も否定も出来なかった自分が嫌で仕方ない。
せっかく信用して頂いていたのに、実篤様に不信感を抱かせてしまった。
後から後から押し寄せる後悔。
それを断ち切ることも出来ない俺は、静かにその場を後にすることしか出来ない。
せめて、次にお召しがあったときまでに後悔など断ち切れれば良いのだが……。
熱情と、後悔と。
二つの感情をない交ぜにして、俺はただ足を動かすだけだった。
【君を優しく傷付けた】
不安になっていくつかルビを振りましたが、用語解説も必要でしょうか?
(と言っても、ワタクシ程度の知識だと解説できるか不安ですが)
三位蔵人頭=時経=枝下桜の君 です!