8:優しいぬくもり
それならと、私は壁の角に顔をぶつけた。
もとより鋭かった角に顔の肉が切れた。痛みに思わず手を傷口に持って逝く。生暖かい血が額から頬にかけて溢れ出している。傷を押さえているほうと逆の手で髪を束ねていた髪留めを外し、長い赤毛を広げる。
傷を押える左手に血が伝い落ちる。
私は扉を開けた。
「まあまあ、どうしたの? ルイ!」
母さんは顔から血を流す私を心配し、ベッドの上から手を伸ばす。もはや気遣うように手を伸ばされた記憶は擦れてしまっていた為、少し戸惑ったが、それでも側に寄るように呼ぶ母さんにそっと近づいた。
私の顔を両手でそっと包み込むその手に、思わず体が振るえた。それに気付いた母さんは優しく微笑んだ。
「大丈夫。食べたりしないから。」
身をそっと屈め、手を避けてと言う母さんに従った。
手を避けると、母さんはまあまあと言って頭の横にある机の洗面器につけてあった手ぬぐいを絞る。
「あ、私がやります。」
すると母さんは少し怒ったように眉間に皺を寄せた。
「けが人は座っていなさい。それに、敬語を使わなくていいの。まるでレインみたいじゃない。」
ベッドの脇に座らされた私は思わず口を押えた。父さんみたいだと言われたことに慌てたのだ。その様子に母さんは微笑う。
…もう、こんな事何年も無かったから戸惑ってしまう。母さんはまるで父さんが居なくなる前の母さんだ。絞った手ぬぐいを手に持って、もう一方の手で私の頬をそっと掴む。
「ちょっと痛いかもねー。」
そう言って、顔を流れる血を拭う。どうやらランプをつけた人が湯を継ぎ足したらしく手ぬぐいは温かかった。
傷には触れず、その周りの血をふき取っては手ぬぐいを絞る。何時の間にか洗面器の中は真っ赤になってしまったがそれでも母さんは私の顔を拭っている。
「痛っ、」
軽く傷に触れた手ぬぐいが予想以上に痛かった。どうやらかなり傷は深いようだ。
その声に母さんは慌てた。
「ごめん、ルイ。痛かった?」
「いえ、ちょっと触れただけで、…だから。」
慌てて弁解するが母さんはごめんなさいと謝罪する。
「ちょっとでも痛かったでしょ? 別にいいのよ、痛がっても。」
本当に悲しそうな顔で更に慎重に手ぬぐいを当ててゆく。
(…怪我なんてしなければ良かった。)
とても悲しそうな顔をしている母さんなんて、見たくなかった。
(やっぱり)
私は私自身が怖かったからこんな事をしたのだ。母さんが子供の怪我をどんなに心配するかなんて、考えていなかった。
母さんは手ぬぐいをもう一度絞ると、今度は私にそれで傷口を押えるように言った。
「…あ、」
「なあに?」
それとなく出た声が母さんの気を引く、それだけで嬉しかった。
「…有り難う。」
そういうと、母さんは微笑んで私を抱きしめた。
ふわりと優しい香りがして、サラリと落ちる髪の毛がとても綺麗だった。身体に触れる母さんの腕はとても細く、とても柔らかい。なのに、私を力強く抱きしめている。
「大きくなった。母さんの若い頃にそっくり。」
そう言って、私の髪を手櫛で梳くのがとても心地よかった。
「…母さんは、今でも若くて綺麗だよ…」
「あら、うれしい。でも顔に傷なんて作っちゃ駄目よ。お嫁の貰い手がなくなっちゃう。」
冗談じみた様子でそう言った母さんは、自分の胸元に私の顔を寄せた。
「ちょッ、」
大きな胸に顔が押え付けられ窒息しそうになる。必死に身体を動かし、何とか顔の向きを変える事に成功した。
「服が汚れる! 母さん!」
取り乱す私に遠慮無く母さんはふふふっ、と血の流れる顔を胸に付ける。
「服は洗えばいいの! それより好きな人とか居ないの? 正直に言いなさい!」
窒息は免れたので逃げ出そうとしていたが意外に母さんの力は強く到底抜け出せそうに無いので、再度手ぬぐいで傷口を押さえ母さんを見る。
母さんは楽しそうに笑って私を見つめている。
「……気になる人なら…」
「そう、いいわね。誰かしら? パン屋のレイとライ? それともレイファーネル兄弟?」
どうやら母さんは自分が再婚した事を覚えていないらしい。義兄さん達は昔から評判だった。母さんは恐らく私の年と近い人の名前を出しているのだろう。久しぶりにパン屋の双子の名前を聞いた。
「どうして二択で二人組なのさ?」
少し呆れたように言ってみる。すると母さんはやはり楽しそうに微笑んで答えた。
「ふふっ、若いうちはその位の甲斐性は必要よ。」
そんな甲斐性は要らないと思う。でも、何故か母さんはずっと楽しそうにしている。そんな母さんの顔を見てると自然に口から言葉が零れていた。
「…ねぇ」
「ん? どうしたの?」
「母さんは…どんな恋をしたの?」 …何時も、こんな話をする相手なんて居なかった。義兄さん達は恋なんてものをしたことが無いと思っていたから。二人はきっと遊びのつもりだから、きっと本当の恋をすれば戸惑うのだろう。何時も何時も興味はあったが心の奥で封印していた思いだった。
母さんは窓の外でもう微かにしか見えない夕日の色を見据え、静かに言った。
「…お母さんは、高貴な貴族の娘なの…。」
「うん…」
「だから舞踏会の招待はそれはもう、溢れかえるほど来たわ!」
「…全部行ったの?」
「ええ、重なっているもの以外ぜーんぶ。」
「だからいろんな人と出会って、色んな恋をしたの。」
「どんな?」
「色々。同じ貴族のお坊ちゃんとか、お金以外のとりえがなくてね。つまらなかった。でも可愛いところがあったのよ。」
「次はお医者さん。とても体のことに詳しくて熱い夜を過ごしたわ。」
「……」
「少し刺激が大きいかしら? でも仕事しか考えてなかった。他にも商人やその息子、娼婦館で働く青年とか一度騎士とも恋をしたわね。」
「その人は?」
「とても誠実だったわ…、でも彼は戦場に出たの。」
「…英雄死…?」
「そう、でも私は絶望した。どうして人が死んでその死を喜ぶ事が出来るのかって、とても苦しくなった。」
「そんな時にレインとであったの。」
「…父さんと?」
「そう、気晴らしに出席したお城の舞踏会で国王の補佐官だった彼と。」
「補佐官だったの?!」
「ええ、知らなかったの?」
「全然。」
初めて知った、父さんは補佐官だった。だからお城に出入りが出来て直接姫様と話すことが出来たんだ…。
「ライナー家は代々補佐官なのよ。それで、壁の花になっていた私をダンスに誘ったの。礼儀作法も完璧で思わず見惚れたわ。」
「母さんは踊ったの?」
「ええ、何時間も舞踏会が終わりに近づくまで…。踊り終えた後何も言わずとも、思っていることは同じだった見たいでね、一緒にバルコニーに出たの。」
「じゃあ、もしかしていろいろな話を…?」
「そう、恋人が戦場で死んだ事もそれを喜ぶ世界が怖く思ったことも…とても臆病だった事もね。そしたら、あの人なんていったと思う…?」
夢見るように、私の顔を見詰める母さんを私は眺め口を開いた。
「「臆病なのは私が傍に居なかったからでは?」」
何度もこの台詞は父さんから聞いた。父さんは踊った時に母さんに惚れてしまって思わずそう言ったと照れくさそうに笑っていた。
「そうよ。その大胆な言葉にお母さん、思わずコロッといっちゃって。一緒になったの。」
「電撃結婚、てモノ?」
「いいえ、恋愛結婚かしら。結婚した後いろいろ知ったけどあんな変態だとは思わなかったわ。」
そう言いながらも母さんは嬉しそうに笑う。本当に、母さんは父さんが好きなんだ。
「でも幸せだった。レインと暮らせて、一緒にいられて。恋が出来て…」
母さんが私を抱えていた腕の力を緩める。私はそっと、その手を外して母さんと向き直る。
母さんは今にも寝てしまいそうに瞼を閉じかけている。それでも最後、コレだけは伝えたいというように手を伸ばして私の頬に触れる。
「ルイが、生まれて幸せだった…。幸せだったのよ…、本当に――、大きくなったわね、ルイ。……」
瞼を閉じる瞬間、微かに母さんは微笑んだ。そして微かな寝息を立てて、眠り始めた。
…とても満ち足りた思いで、私は溜息をついた。そして、傷を押さえていた手ぬぐいを洗面器に入れてから母さんの服を着替えさせた。
私の血の付いた服と洗面器を持って扉へと歩く。部屋には母さんの寝息と私の歩く音、そして微かなランプの燃える音が聞こえていた。