18:月明かりの対峙
「待って、」
静かな声が、バルコニーの端に立つ影に届く。その影を見詰める美しい女性は、何処か乞うようにその影に声をかける。
「貴方は――、」
しかし、その先の言葉は出ず、暗闇の舞踏会を背に女性は立ち尽くすだけだった。
月がそっと顔を覗かせ、闇に包まれていたバルコニーを照らし出す。そこはまるで二人のために用意された場所のように何処か、幻想だった。
影もまた月に照らし出され、細身の男性の姿を女性の前に現していた。男は何処か焦がれるように自分を見る彼女に、気付いてはいるようだった。だが、決して話し掛けようとはしなかった。
舞踏会場から微かに聞こえる喧騒すらも此処には必要なく、ただ静かに、時間は過ぎていた。
ふと、男が動き出す。今にも立ち去りそうだったその身を、今度はその場にとどめるように、微かに彼女を向く。決して振り返ってはいない。だが、ここに居るといっているようにも思えた。
わずかだが、男と彼女の髪を遊ぶ風が、男の黒髪を一本一本浮き上がらせた。その光景を見て、彼女は何か。確信を得たように言葉を放つ。
「…街では、有り難う…」
その言葉から男は小さく息を吐き、何かを覚悟したように振り返る。
仮面から覗くその瞳は鋭く、優しさの欠片もなかった。だが、その冷たい眼差しの中に何処か、悲しそうな影を湛えていた気がした。
「…運命でも、一目ぼれでもない。まして、目の前に魔法使いが現れて此処に送り出してくれたわけでもない。私は―――…。貴方が、奇跡を期待しているのであれば、それは間違いだ。...紅の君――。」
肯定でも否定でもない、唯事実を並べるだけの、何処か事務的な言葉。夢のようなこの場所には程遠い、人の心を飾る事もせずに現す。
そんな、何処か一線を引くような言葉にも、彼女は臆する事もしなかった。バルコニーに一歩、踏み出す。
「……私は運命も、奇跡も否定しません。もしかすると魔法使いが気まぐれに、貴方を送り出したのかもしれない。…事実がどうであれ、私は、今この瞬間を信じています。」
男に歩み寄ろうとする彼女に対して、男は身を引く。まるで近づくことすらも許してはいけないように。
彼女が、男の前に立ったその時に、人の気配に目を覚ましてしまった一羽の鳥がバルコニーの脇の木から飛び立った。
一羽の鳥が破った沈黙を、二度と戻すものかと彼女は男の手をとった。月明かりに輝く銀糸の手袋。それは彼女を魅せようと美しく輝くが、彼女は手袋には一瞥もせず、別のものに見せられているようだった。
彼女は男の手の感触を確かめるように両手でしっかりとつかみ、胸の前に持ち上げる。その行為を眼にした男はそっと、言葉を放つ。
「…仮に、魔法使いが私を送り出したとしても―――、私は君に触れる権利などない。」
握られた右手を、決して握り返す事はせず、静かに、悲しげに微笑む。
「人が捨てた、捨てられた思いを集めて、私は煤と灰だらけ…。だから私は【灰被り】と呼ばれた。人と紙に触れる美しい手に、私が、触れることなど、許されない――…。」
彼女の握る右手を引く。手袋が抜け、彼女の手の中に残るがそれすらも気にしない。
バルコニーの縁に飛び乗り、彼女に向き直る。悲しみに染まる彼女の顔を見て、男は立った一言だけ残してその場から飛び降りた。
彼女の目には男の悲痛な顔が映っていた。その表情は、見ている彼女の心をも痛めてしまうほど痛々しく――、彼女は男の思考をなぞる様に先程の言葉を口にする。
「『同じ真紅を持つ友人さん――。』」
その言葉は、残された彼女の心に新たな灯を灯した。