3
教室にいるはずの生徒が、誰か一人いなかったところで、授業は何の問題もなく、いつもどおりに進む。
石動は学校に来ておらず、その席は空席となっていた。石動が欠席だということに対して、ぼくが何かを思っているわけではない。理由はともかく、原因だけは明らかだ。
「このまま来ないつもりか?」
さすがにないだろうと思いつつも、もしかしたらそうなのかもしれないとも思う。
退屈な授業はぼくにとって苦痛でしかなく、そんな苦痛から逃れようと窓の外を見る。グラウンドには生徒の姿はない。体育の授業がないからだろうが、誰もいないグラウン
ドというのは物寂しさを覚える。
と。
誰もいないと思っていたグラウンドに、一人の少女が立っていた。制服を着ておらず、明らかにこの学校の生徒ではない。
少女は何かを探しているのか、周囲を見回しながらゆっくりと移動している。
「つってもここ学校の敷地内だしな……」
日本の学校は、部外者立ち入り禁止が基本である。
「先生、グラウンドに誰か迷い込んでますよ」
「なに?」
報告すると、先生が窓際に立ってグラウンドを見た。
「……職員室に行ってくる。それまでに問題解いてろよ」
先生が至極面倒くさそうに、教室から出て行った。クラスメイトたちは、グラウンドを一度だけ見て、また自分の席に戻った。
「平野」
灰谷がぼくの耳元で、囁くように言った。
「どうした?」
「あの女、あれは虚構だ」
「は?」
「どういう存在なのかは思い出せないが、たぶん無害とは思うがな」
そう言って灰谷は席に戻り、問題に取りかかった。
もう一度、グラウンドに目を向ける。グラウンドにはまだ少女は立っていて、その少女は校舎を、つまりこちらを向いていた。
目が合った――ような錯覚を覚える。
つぅ、と目をそらし、少女はグラウンドから出て行った。
次の授業は何だったかと思い出していると、細江さんが声をかけてきた。
「なに?」
「ん? なんとなく。昨日はありがとね」
「いや、お礼なんていいよ」
どちらかといえば、ぼくがお礼を言わなければいけないほうだ。
「さっきの人、何しに来てたんだろうね?」
不思議そうに、けれど興味津々といわんばかりに、細江さんは言った。
「さあ? 風で何かがグラウンドに入ったんじゃない?」
何かを探すような少女の行動。ただ、あの少女が虚構だというならば、そんなことはあり得ない。確固たる目的があってここに入ってきているはずだ。
「違うと思うけど」
さすがに細江さんも、それは無いと思ったのだろう。
「またあの……虚構ってやつ?」
不安そうに、細江さんは表情を曇らせる。アイーナ・リューゼンディッヒの一件で、虚構に対して恐怖心を抱いているのだろう。
「灰谷が言うにはそうらしいよ」
細江さんは、びくり、と体を震わせた。
「ほら、リゼも灰谷も昨日の吉岡さんも、みんな虚構だよ? 怖い存在ばっかりじゃないって」
はっ、と細江さんは目を見開いて、悲しそうにうつむいた。
「え? ぼく悪いこと言った?」
「ううん。ただね、わたしって駄目だなって。灰谷さんやリゼちゃんのことも、勝手に怖がってたみたいで……。すっごく失礼なこと言ったなって……」
「…………」
こういう時に気の利いたことでも言えたらいいのだけど、ぼくには何も言えなかった。
細江さんは本当に辛そうだった。
何も言ってあげることもできないまま時間が経って、始業のチャイムが鳴った。
「平野」
授業の後、山岸に呼ばれ廊下に出た。
「アパートに電話したんだが、リゼには代わってもらえなかった。あいつが休んでから毎日だ。まあ二日だが。リゼは一体どうしたんだ? 本当に風邪なのか?」
真剣な山岸の表情。山岸にもこんな顔ができたのかと、ぼくは場違いにも感心していた。
しかし、そんな真剣な山岸にも、本当のことは言えない。言ってしまってもいいのだろうけれど、ぼくには言う気にはなれなかった。
信用とか信頼とか、それ以前の問題として。
「風邪ですよ。ご飯とトイレ以外では寝てますから、きっと電話に出た人が気を使ってるんだと」
納得しかねている様子だったけれど、山岸はうなずいて踵を返した。
少しばかりの罪悪感が胸に残る。けれど、それも仕方のないことだった。
アパートに帰ると、どこかで見たことのあるような、けれど決して知り合いではないと確信できる人影があった。
半袖のシャツに、下着と変わらない程度しか丈の無いショートパンツ。
銀色の髪。
やけに露出の多い少女は、ぼくの気配に気づいたのか、こちらに振り返った。
「君は今日学校にいた……」
見覚えがあるのも当たり前。
その人物は、グラウンドで何かを探しているかのように歩いていた少女だった。
近くで見ると、少女はまだ幼く、小学生と中学生の間くらいの顔立ちだった。灰谷が言うにはこの少女は虚構らしいので、この目測もあまり意味はないのだろうけれど。
「ぼくは〈旋風に生きる者〉。死にゆく虚構を見定めに来た」
少女――〈旋風に生きる者〉は、ぼくの言葉を無視する形で言った。
「〈旋風に生きる者〉? 死にゆく虚構?」
ぼくは無意識の内に〈虚構殺し〉を構え、目の前に立つ人物に向けていた。
〈旋風に生きる者〉は呆れたように嘆息し、自分の後ろのドアを示した。
「ぼくは〈旋風に生きる者〉。どうしてこの部屋の中の存在と相容れて、ぼくとは相容れない?」
そう言われて、ぼくは魔銃を向けていたことを自覚した。いつの間に構えていたのか、ぼくは覚えていない。
慌てて魔銃を下ろした。
「警戒しなくてもいい。ぼくは〈旋風に生きる者〉。ただの旅人さ」
「死にゆく虚構ってのは、その部屋の中にいるやつのことか?」
聞くと、〈旋風に生きる者〉は部屋のドアを一瞥し、うなずいた。
そこには何の感情もこもっておらず、ただ、端的に事実を述べただけのようだった。
「見定めに来たっていうのは?」
「ぼくは〈旋風に生きる者〉。死にゆく虚構を救うこと|も《
》、見殺すこともできる」
〈旋風に生きる者〉はゆっくりと、ぼくに近づいてくる。
「ぼくは他の種族とは違う。あらゆるしがらみの外に存在し、あらゆる拘束の枠に囚われない。ありとあらゆる有象無象の支配を受けない」
何が言いたいのかわからない。
ゆっくりとぼくに、近づいてくる。
ぼくの胸と腹の間、つまり鳩尾くらいまでの身長の少女は、ぼくを見上げげながら言った。
「だから死にゆく虚構を救ったところで、ぼくは誰からもお咎めを受けない。だから救うかどうかの見定めに来た」
純粋な目が、ぼくを見据える。
「何者だよ……」
「ぼくは〈旋風に生きる者〉。知らないのなら、このアパートに住む存在たちに聞いてみるといい。何度も言うよ。ぼくは〈旋風に生きる者〉。ただの旅人さ」
〈旋風に生きる者〉。
自分をそう呼び、結局名も名乗らないまま、少女はぼくの隣をすり抜けて歩いていってしまった。
一陣の柔らかい風が吹いた。
風に吹かれて我に返る。
あの純粋な目に見られ、ぼくはどこか気が抜けていたのかもしれない。
部屋に戻って荷物を置き、千堂さんの部屋に向かう。ノックをしてみても、返事は無かった。
「いないか」
もしかしたらと思ったけれど、まだ大学から帰ってきていないようだ。
一階に降り、黒木さんの部屋に向かう。
やっぱりいなかった。
吉岡さんも千堂さんと同じ大学だったはずだ。専攻が違うから帰っているだろうか。
「吉岡さん」
ノックをしながら声をかけてみる。
返事は無かった。
残ったのは人影兄妹だけだが、宗次は働いているし、京香ちゃんは中学生。果たしているだろうか。
ノックをすると、意外にもドアが開けられた。しかもドアを開けたのは宗次だった。
「どうしたんですか? 珍しいですね」
「ちょっと聞きたいことがあって」
宗次は少し考える素振りを見せ、
「とりあえず上がってください。京香、お茶を」
と、ぼくを部屋に入れた。
京香ちゃんも帰ってきてるのか。そういえば部活とか入っていなかったっけ。
小さなちゃぶ台で対面するように座る。
「はい、拓さん」
京香ちゃんがお茶をぼくの前に置く。
「ありがとう」
三人分のお茶をちゃぶ台に置き、京香ちゃんも座った。
「で、聞きたいことというのは?」
少し深刻そうな雰囲気を醸しながら、宗次が聞いてきた。
「いや、そんなに深刻な話じゃなくて……宗次と京香ちゃんは〈旋風に生きる者〉って知ってる?」
「あたしは知らないなぁ。お兄ちゃんは?」
宗次は目を閉じ、記憶を探っていた。
「それなら聞いたことがあります。けれど、どうしたんですか? 突然」
「さっきリゼの部屋の前に〈旋風に生きる者〉を名乗る女の子がいたから、ちょっとね」
見定める、とか、そういうことは言わなくてもいいだろう。宗次はともかく京香ちゃんがそういう行為に反発を覚えるだろう。
救うかどうかの見定め、など。
「そうですか。なるほど」
宗次の目が細められる。
「何がなるほどなの?」
「何でもありませんよ。それより、〈旋風に生きる者〉ですね?」
宗次はその存在について知っているだけに、もしかしたら推測が立ったのかもしれなかった。
宗次はお茶を一口飲んでから、それについて話し出した。
「〈旋風に生きる者〉というのは、ある種族の名前です。団体行動はとらず、夫婦や幼子でもない限り単独で行動します」
さっきあの少女が言っていた言葉を思い出す。「ぼくは〈旋風に生きる者〉。ただの旅人さ」とはこのことか。
「〈旋風に生きる者〉は一人前になると旅をします。親許を離れて、自分が新たに根を張るための旅です。自分に見合う土地が見つかれば、その地で一生を過ごします。〈旋風に生きる者〉は争いを好む性格ではありませんが、それなりに高い戦闘力を持っています。まあ、吸血鬼やドラゴンには到底及びませんが」
比べる対象がおかしいと思ったけれど、思えばそれに匹敵するような〈敵〉が現われたのも事実だった。
「〈旋風に生きる者〉が何の目的でリゼさんの部屋の前に立っていたのかはわかりませんが……」ここには明らかに嘘が混じっていた。表情では、宗次はその目的を確信していた。「……その人物が有害だと確信できるまでは友好的に対応してみるものいいかもしれませんよ。〈旋風に生きる者〉は付き合ってみればとても穏やかな種族と聞きますから」
穏やかな種族。
そういえばそうなのだろう。
彼女と対峙した時、ぼくは全く敵意も殺意も感じなかったし、そもそも好意すらも感じなかった。友好的とか排他的とか好戦的とか、それ以前に、彼女、少なくとも今日来た彼女は、他人に対して積極的な感情を抱かないのではないだろうか。
「今日来たという〈旋風に生きる者〉は恐らく明日にでもまた姿を現すでしょう。その時にでもその人と話をしてみてください」
「そうすることにするよ。……悪かったな、突然押しかけて」
宗次に謝りながら立ち上がる。
「気にしないでいいですよ」
微笑み、宗次も立ち上がった。京香ちゃんも宗次に続いて立ち上がる。
「それじゃ」
「はい、またいつでもどうぞ」




