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夜は吸血鬼の時間だ。
深夜零時。突然リゼがぼくの部屋にやってきた。
「どうしたんだ? こんな時間に」
リゼにとっては『朝』なのかもしれない。吸血鬼が本当に夜行性ならば。
「ちょっと歩いてみない?」
「歩くって、外をか?」
「うん」
どうだろう。この時間に出歩けば、確実におまわりさんに補導されてしまうのだが。
リゼの申し出を断るのももったいないような気もする。
「補導されるかもよ?」
「大丈夫。そこはわたしが何とかするよ」
そう言われてしまえば断る理由なんてない。明日の朝が少しだけ心配だけど、頑張れば済む話だ。
「わかった。でも、少しだぞ?」
「わかってるよ」
リゼに続いて外に出る。こんな時間に外を出歩くのは、当然ながら初めてのことだ。少しだけ新鮮な気分になれて、そういう意味ではリゼに感謝してもいい。
夜の町は静かで、深夜ということも手伝って家からこぼれる明かりは少ない。梅雨入りして、最近は雨が多く、空気はじっとりとしていた。
「わたし苦手だな、この空気」
「日本だから仕方ない。外国なら乾燥した夏を過ごすこともできるけど」
高温多湿の夏。
悪夢以外の何物でもない。
「わたしがいた場所は『季節』はそんなに明確じゃなかったかな」
「そうなんだ」
四季が楽しめること。それは日本の大きな魅力と言える。
「だから少し楽しみなんだ。季節が移り変わっていくのを感じるのが」
「わかるよ。ずっとそれが当たり前のぼくたちでも、それが楽しいんだ」
始まりと終わりの季節、春。
情熱と恋の季節、夏。
憂愁と活動の季節、秋。
回想と決意の季節、冬。
場所は同じでも、時によってその表情を変える。
「ふたりで、それを見ていきたいんだ」
リゼの赤い目は、遠くを見ていた。それはきっと、これからの生活への希望で。
期待だ。
未知のものへの期待。
「そうだな。見ていこう」
いつまで一緒にいられるかはわからないけれど。
今になっても、ぼくは覚悟はできてない。
種の違い。
人と吸血鬼。
変えようのない事実。
それでもいいと、ぼくはようやく思うことができた。
リゼが望むのならば、ぼくはずっとそばにいよう。
「リゼ」
リゼは視線だけをこちらに向けた。
「姫さま!」
突然。
どこからともなく、そんな声が聞えた。
ぼくの右手が〈虚構殺し〉に伸びる。
「探しましたぞ! ドギィ! こっちですぞ!」
目の前に現われたのは、赤い瞳で三本足のカラスだった。
その声の後、空から降りてきたのは小さな……なんだろう? アイーナが使役していたインプの小型版? みたいなやつだ。
「え……あっ!」
リゼが声を上げる。
目の前にいるのは、異様な生物。明らかに虚構の存在で、こちらの存在ではない。
「ドギィ! アグゥ!」
「知り合い?」
「うん。あのカラスがドギィで、プチガーゴイルがアグゥ」
ガーゴイルって確か、石像の悪魔だったか。
よく覚えていない。
「姫さま! お探ししましたぞ」
カラスがいやに丁寧な言葉遣いで話している。なんだかシュールな画だ。そのカラス――ドギィだったか――の上にプチガーゴイルとやらが乗っている。
「あの吸血鬼殺しめに襲われた後、行方をずっと捜しておりました」
吸血鬼殺しといえば、♯か。
ということは、一ヶ月も探していたことになる。
「ごめん。わたしはこの通り元気だよ」
「では、あの吸血鬼殺しは……」
「今は機関に戻ってなんかしてるんじゃないかな? 今のところ休戦中だよ」
休戦中、というよりは和解に近いのかもしれない。
ココだけの話し、実は♯とは一度だけ一緒に食事をしたことまである。さすがにリゼはそこにはいなかったけれど。
「それはそれは……ん?」
と、カラスがぼくのほうにその赤い瞳を向けた。続いて背に乗っているプチガーゴイルがぼくに向く。
「そこの人間はなんですかな? もしや、姫さまもやっと血をお吸いに?」
「さしずめ携帯食糧か」
初対面の虚構が物騒なことを言い始める。
「ち、違うよ! わたしのこ……友達だよ!」
「ふむ。ならば、その手に持っている物はなんですかな?」
猜疑心を隠すこともせず、カラスはぼくに向かって言う。
「貴様! それは〈虚構殺し〉じゃないか!」
プチガーゴイルが叫ぶ。
「なっ! なるほど、あの吸血鬼殺しの差し金か!」
どうしてそうなる!
「違う! 断じて違う!」
「やかましいわ!」
ぼくの反論に被せるように、カラスが叫ぶ。
「アグゥ!」
「任せろ!」
プチガーゴイルがぼくに向かって飛びかかってきた。
あれ?
こいつ、体が大きくなっていないか?
気づけば、プチガーゴイルの体は、ぼくよりも大きくなっていた。
「覚悟しろ小僧!」
「ちょっと! 二人ともやめなさい!」
リゼが叫ぶ。
「姫さまはたぶらかされているのです。この下種な男に!」
下種な男って、ぼくのことか?
「アグゥ!」
ガーゴイル――もう『プチ』はいらない――がぼくに襲い掛かる。鋭い爪がぼくの体を掠めた。
「『生は死の礎。幸福とはすなわちそれを全うすること。我は空。我は虚無を統べる者。死を恐れぬ者には最大不幸を。我は泡。我は刹那に生きる者。我は世に幸福をもたらす者なり』」
声が聞えて、カラスのほうに一瞬だけ視線を飛ばす。
カラスの前には青い本が浮いていた。
「ドギィ! それは駄目!」
リゼが叫ぶ。
瞬間。体から力が抜け、ぼくは片ひざをついた。
「ふん。魔導書の力を受けてもまだ意識があるのか」
ガーゴイルがぼくを見下ろし、馬鹿にしたように言う。
「魔導書?」
聞いたこのない単語だ。
「知らないのか? お前が使われたのは〈幸福論〉という魔導書だ」
名前なんてどうでもいい。とりあえずは、あのカラスの前に浮かぶ魔導書とやらをどうにかしてしまえばいいわけだ。
魔銃を構えて魔導書に向ける。
「させられないな」
ガーゴイルの爪が迫る。たまらず照準をずらして、爪をかわす。
「なんだ? その魔銃は見かけだけか?」
もちろんこの魔銃は本物だ。虚構に撃てば、その存在する力を奪っていく。
しかし、それをこの二人に撃つのか? いきなり襲い掛かってきているけれど、リゼの知り合いのようだ。撃って殺しでもしたら、リゼにあわせる顔がない。今はとにかく、あの魔導書をどうにかしなくてはいけない。
「やめなさい! 二人とも!」
転げまわるぼくに飛んでくるはずだったガーゴイルの爪は、しかし、ぼくの目の前で止まった。
「姫さま、何を」
体の自由が利かないのか、ガーゴイルはぼくをまさに斬り裂こうとした姿勢のまま、首も動かさずに言った。
「やめなさい、と言ったのよ。ドギィ、アグゥ」
静かな声。しかし、それは激しい怒りの裏返しだ。燃えたぎるような赤い瞳だけは、それをごまかすことはできない。
「しかし……」
「使い魔のくせに、わたしに逆らうの?」
使い魔?
このふたりはリゼの使い魔なのか?
「……かしこまりました」
ふっと、体が軽くなる。
カラスの前には魔導書はなくなっていた。ガーゴイルの体も、元のサイズに戻っている。
「ふたりとも、わたしを心配してくれるのは本当にうれしいんだけどね」
呆れたように息をつく。実際、呆れているのだろう。さっきまでの怒りは感じられなかった。
「この人はヒラノタク。わたしの命を救ってくれた人だよ? その人に向かってなんで攻撃をしかけてるのかな?」
リゼの平手が二人の頭に飛ぶ。
「はあ……大丈夫? タク」
「あ、ああ。パワフルな知り合いだな、リゼ」
「貴様! 姫さまになんて口の聞き方!」
ガーゴイルが叫ぶ。
「いいんだよ。こっちの世界じゃ、わたしは王族じゃないもん」
「しかし……」
ガーゴイルはまだ何かを言いたそうだったけれど、リゼが隣にいるからだろう、何も言わなかった。ただ、突き刺すような視線をぼくに向けただけだった。
「だいたいね、あのまま戦ってたら、ドギィとアグゥがやられてたよ。二人は♯にも勝てなかったんだから」
呆れた声で二人(二匹? 二体?)に言う。
「♯? とは……」
「あの吸血鬼殺しの名前だよ」
ぐっ、と言葉がつまり、二人(もう二人でいいや)は苦々しい表情を浮かべた。
しばらくリゼのお説教が続き、二人は疲弊した顔をしていた。反省をしたのかもしれない。まあ、ぼくに対する態度はほとんど変化しなかったけれど。一応、『敵』という認識だけはなくなったらしい。
「申し訳ない、と一応言っておきましょうか?」
ドギィが言葉とは裏腹に上からモノを言う。
「いや、別にいい。というかお前、謝罪する気ないだろ」
「そのとおりにございます。アグゥ、謝るならあなたがしなさい」
「断る」
……こいつら。危うく冤罪で殺そうとしておいてこの態度かよ。
「まあ、いいよ。で? 二人はリゼの使い魔ってことでいいのか?」
「ええ。ワタクシたちは姫さまにお仕えする者にございます。名はすでに姫さまから聞いているでしょうから、省かせていただきますよ」
やけに丁寧な物言いが、逆にぼくを軽んじているように感じさせる。当然だろうけれど、同じ言葉遣いでも、リゼに対しているときとは印象が全く違う。慇懃無礼、という言葉はこいつの為にあるのかもしれない。
「ヒラノタク」
「うん?」
「お前には一応感謝している。姫さまを助けてもらったのだからな」
アグゥが、やっぱり不機嫌そうに言った。ぼくが本当にどうしようもなく嫌いらしい。ぼくも好かれるとは思っていないけど。それにしても、二人してパタパタとリゼの周りを飛んでいるのは、なんとなくかわいく見える。
「あ、タク」
「どうした?」
「そろそろ帰らないと、明日起きれないかも」
時計を確認する。
ドギィとアグゥの登場により、どうやら必要以上に夜更かしをしてしまったようだ。