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黒木さんが中学校に苦情を申し立てたことにより、中学生の中での『アカガミさま』は急速に廃れていった。学校がどういった対応をしたのかは知らないけれど、夏樹がそう言っていたから、きっと正しい情報なのだろう。
だからといって、京香ちゃんが受けた傷が癒えるわけではないのだけど。
「おう、今日も来てるな、石動」
朝のHRで山岸が石動の顔を見て、笑顔で言った。
「出席日数がヤバイだろうからな」
ぶっきらぼうに石動は言ったが、山岸はそんなことはどうでもいいらしく、どこまでもうれしそうだった。なんだかんだ言いつつも、山岸は石動が学校に来ていなかったことを気にしていたようだ。
気にしない教師はいないか。
今朝のHRは、山岸が家庭の愚痴をぼくたちにこぼすことで、その時間を終えた。ぼくたち生徒としてはこの上なく楽でいいのだけど、教師としてそんなことでいいのだろうか。
「あ、あのよ、灰谷にリーゼと平野」
「うん?」
「なんだ?」
「なにかな?」
山岸の今後について、どうでもいい議論を交わしていたところに、意外な人物がやってきていた。というか、休み時間に話しかけてくるとは、思いもしなかった。
「い、いや、放課後ちょっと時間あるか?」
「ああ、ぼくは大丈夫だけど。二人は?」
リゼには用事なんてないだろうけれど。
「オレはない。ただ、お前に放課後の呼び出しをされると、少し怖いな」
灰谷はわざとらしく身震いをして見せた。
「別にそんなこと考えてねえよ」
バツが悪そうに石動は言った。
「わたしも大丈夫だよ。どーせ拓と一緒に帰ることくらいしか予定ないし」
「じゃあ、放課後ちょっと残っててくれよ」
そう言って、石動は教室から出て行ってしまった。
「なんの用事なんだろうね?」
リゼが首を傾げる。
「わたしのこと、初めて名前で呼んでたし」
「リーゼとお前を呼ぶのを聞くのは、久しぶりだな」
灰谷がどうでもよさそうに言った。
「久しぶりっていうより、初めてじゃないか?」
「あの機関とやらの男だけはそう呼んでいた」
あれもカウントするのか。
「おい、つーかよ、お前らホントに行くのか?」
さっきの話を聞いていた夏樹が、少しだけ不機嫌そうに言う。
「え? 行くけど。どうかしたの? ナツキ」
「どうかしたのって、リゼちゃん。ほいほい言われたとおりに行って、何かあったらどうするんだよ」
夏樹の言いたいことはわかるけれど、ぼくには『何かがある』とは思えなかった。二度にわたる大喧嘩、その両方ともに石動は敗退(なんだか変な言い方だけど)している。それにもかかわらず、また突っかかってくるとも思えなかったし、アイツの場合そういうことは堂々と正面からやってくる。罠とか、そういうことはしないだろう。
「心配ないと思うけど」
「同感だな。足立、少しはクラスメイトを信じたほうがいいんじゃないのか?」
「お前ら、あいつに何言われたか忘れたのかよ」
呆れたとばかりに、夏樹はため息をついた。
「忘れてなんてないよ。ただね、わたしはそういうことを、あんまり根に持ちたくないんだよ」
「オレはそれ以前に、言われた直後ならまだしも、時間が経てば気にならなくなる」
二人とも、人間では考えられないほど、さっぱりした性格の持ち主のようだ。夏樹も驚きなのか呆れなのか、開いた口が塞がらないようだ。
「足立、お前はそういう心配なんかしなくていいから、いつもどおりの馬鹿でいてくれ」
「あん? オーケーわかった。俺に任せておけ! っておいおいおいおい!」
ベタベタなノリツッコミが披露され、休み時間は終了した。
昼休み。今日は久々に全員というか、まあ、みんな揃っての昼食となった。いつもと違うのは、もう入梅してしまっていて、あの中庭では昼食をとれなくなってしまったことだ。
「パラソルでも立てるか?」
夏樹がやけに真剣な顔で言うので、ぼくは呆れながらその提案を却下した。もしぼくが却下しなくても誰かがそうしたはずだ。
「俺は本気だぜ?」
「だからわざわざ口に出して却下したんだろうが」
ふつうなら無視するところだが、夏樹の場合は無視すると実行しかねない。
「わたしは悪くないと思うけどなー」
お茶を飲みながら、リゼがそう呟く。
「だろ? やっぱりリゼちゃんはわかってるよな」
すかさず夏樹がそう言って、灰谷に鼻で笑われていた。
「なんだよ」
「いや、なんでもない。リゼが同情してくれてよかったな」
夏樹は泣きそうな顔で――実際泣いているのかもしれない――リゼに向き直った。
「ど、同情から来た言葉?」
「え? いや、わたしは外で食べるほうが好きだから……」
夏樹の勢いに若干引きながら、リゼはそう言って笑う。少し引きつった笑みだった。
「リゼ、あまり足立は甘やかさなくてもいいぞ?」
「そうだよ。足立くんは甘やかすと調子に乗り出すんだから」
細江さんも灰谷に続く。夏樹はというと、ズンズンと気が沈んでいっている。さすがにかわいそうだな、とは思いつつも、ぼくは手を差し出すことはしなかった。
「手を差し出せ! 親友よ!」
がばり、と夏樹が体を起こす。
「きゃっ」
隣に座っていたリゼが、夏樹の勢いに驚いて小さな悲鳴を上げた。……そういえばリゼの悲鳴って初めて聞いたんじゃないか?
「お、わりぃ。それより、拓よ、どうして俺に手を差し出さん!」
「……手を差し出さないという優しさ」
「優しさ、なのか?」
「そうだ」
もちろんそんなはずないのだけど。
「そうか。優しさか」
「見捨てる優しさ」
ボソッと灰谷が呟く。
「――――っ! なんだかもう、俺が愛されてるみたいに感じるぜ!」
こいつは馬鹿だ。
「足立くん……」
細江さんが、かわいそうなものを見るような目で、夏樹を見ていた。
授業も全て終わり、普段ならあとはアパートに帰るだけなのだが、今日はそうにもいかない。
教室にはぼくとリゼと灰谷の三人だけがいた。ぼくたちを呼び出したはずの石動は、同じクラスの同じ教室なのにもかかわらず、この場にはその姿がなかった。
「呼び出しといて忘れたか?」
「タク、それはいくらなんでも……」
「あいつのことだ。どうせ人気がなくなるのを待ってるんだろう」
人気って言ってもな……。教室内には三人しかいないわけで。
「他のクラスもいるだろ? もしかしたら、オレたち以外には聞かれたくない話題なのかもしれん」
「だね。そうじゃないなら、休み時間で十分だし」
他の連中に聞かれたくなくて、ぼくたちだけを呼び出すようなこと、か。そりゃまあ、心当たりが全くないかっていうと、少しはあるわけで。どう考えても、虚構がらみであることには違いないんだよな。
「それにしても遅いな」
灰谷がため息と共に呟く。
放課からすでに二十分が経っている。さすがにちょっと待ちきれない。
「帰るか?」
「え? 帰っちゃ駄目だよ。近くにいると思うから、少し見てくるよ」
「あ、ああ」
リゼは立ち上がって、教室から出て行ってしまった。
期せずして灰谷と二人だけになる。だからといって、どうということもないのだが。
「オレはあまりこの手の話には興味はないのだが、お前、リゼと付き合い始めたのか?」
灰谷までそんなことを思っていたのか。少し意外だ。
「付き合ってないよ。みんながそう思ってるだけさ」
リゼが意識を取り戻してから、そんな質問ばかりだ。うんざりする、とまでは言わないけれど、いい加減その質問には飽きた。
「なんだ、付き合っていないのか」
灰谷は意外そうにそう言った。
本気で付き合い始めたと思っていたらしい。
「お前たちのことだから、アイーナの一件くらいから付き合っているものだと思っていた。最近になってそれが露見し始めたと思っていたくらいだ」
「さすがにそれはないよ。よく考えてみろよ。あの事件の頃なら、ぼくたちは出会って一ヶ月も経ってないんだ。今やっと一ヶ月くらいだろ?」
「出会って一ヶ月のスピード婚も巷では起きているらしいがな」
灰谷は苦笑し、続けて小さなため息を漏らした。
「なんだよ」
「いや、自分の勘違いが恥ずかしくなっただけだ」
「あ、そうっすか」
こいつにも『恥ずかしい』という感情はあったのか。勉強になる。
どうでもいいことで感心していると、リゼと石動が教室に入ってきた。
「すまん、待たせちまって」
開口一番に石動はぼくたちに頭を下げた。それがあまりにもぼくたちに突っかかってきたときの石動と違っていて、少し焦った。
「い、いや、気にするな。で? 用ってなんなんだ?」
リゼは灰谷の隣に座った。石動はたったまま、どの椅子にも座ろうとはしなかった。
「座らないのか?」
「いや、いい」
言い切ると同時、石動は ぼくたちに向けて頭を下げた。
「すまない!」
「何についてだ?」
「何にって……俺、お前らに色々言っただろ」
自信の無い声で言いにくそうに言う。いやまあ、言いにくいことではあるけれど。
「ああ、そのことか。気にするな。お互いさまだ」
「お互いさまって……そんなレベルの話じゃないだろ」
「そうか? オレにとってはその程度の話なんだが。なあ、リゼ?」
「え? うん。そりゃまあ、いきなり吸血鬼だのドラゴンだの言われたら混乱するよね」
リゼも石動の言葉など全く気にしていない、とにこやかに笑う。
ぼくも笑って済ませてやろうと思ったけれど、さすがに笑顔は見せられなかった。
「大体、クラスメイトたちの順応能力が高すぎるんだ。リゼが入ってきたあの日のことは、今でも覚えているぞ。あまりに気持ち悪くて」
「ああ、確かにあれは凄かったな……。関心が無さそうだったのは灰谷だけだった」
そして、一番反応したのが灰谷だったか。
「でもあんな質問して、そのまま放置だからな」
一瞬だけの興味。そんな感じ。
「石動」
話しの流れを完全に断ち、灰谷が石動を呼んだ。
「世界学を、信じるか?」
「え?」
「正直に言え。お前は世界学を信じるか?」
灰谷の質問に、石動はじっと黙って考えていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「信じない」
きっぱりと、断言した。
「俺は世界学を信じない。それはこの先何があったとしても、変わらない」
灰谷はうなずいた。
「じゃあ、お前にとってオレたちは『何』だ?」
「クラスメイトだ」
石動は断言し、灰谷はうなずいた。何かを納得したようだ。
「オレはその言葉だけで十分だ」
灰谷は鞄を取り立ち上がった。
「お、おい」
「お前は目の前の変化に少し、混乱しただけだ」
一言だけ、呟きを残して灰谷は教室から出て行った。
男前なやつだ。
「アキヒコ」
灰谷の背中を見送っていた石動が、リゼに向き直る。
「反省してる?」
「……ああ」
自分の言葉をかみ締めるように、石動は神妙にうなずいた。
「うんっ。じゃあタク、帰ろ」
さっと立ち上がり、リゼはぼくの手を取った。
「ああ」
うなずき、ぼくも立ち上がる。それから、石動のほうを見る。
「石動」
目と目が合う。
「学校はあんまり休むもんじゃないぜ?」
石動は目を見開き、すぐにうつむいてしまった。
「リゼ、帰るぞ」
「うん」
今日は、本当にいい日だ。
昇降口まで降りると、灰谷が立っていた。
「よう」
「ああ」
「帰ろっか」
それ以降の会話は一言もなかった。
ただ、妙に晴れ晴れとした、すっきりとした気分だった。それは決して石動が謝りに来たからではなく、歪んでいた軸というかネジというか、日常の歪みが解消されたという実感があったからだ。
一言も交わさないまま、ぼくらは灰谷と別れた。